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月待ちの灯(あかり)  作者: しゅう


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39/82

勘定

主人公 牧野 賢治

妻 牧野 志津

賢治は、銀行へと向かった。銀行の分厚い扉を開けると、一瞬で冷たい空気へと変わる。

この日の銀行内の張り詰めた空気は、昨日までとは比べ物にならなかった。年内納品の最終期限が迫り、取引先への貸付金の回収と短期融資の決算が、最優先事項となっていた。行員たちの表情は、皆、「数字」という冷たい鉄の塊を抱えているかのようだった。


賢治が今朝、上司から任されたのは、回収が滞っているいくつかの融資先への対応だった。

その一つが、かつては有力な取引先であった老舗の海産物問屋だ。大戦景気の終焉と八戸の市場の不況が直撃し、年越しの資金繰りが絶望的な状況にあると報告されていた。

「賢治、ここは厳格に当たるように。情を挟む余地はない。銀行の信用を守るのが、我々の責務だ。」上司の言葉は、情を排せという冷徹な命令だった。

賢治は、問屋の主人の人の好さを知っていた。しかし、ここで情に流されれば、それは預金者全体の信用を裏切ることになる。

賢治は、志津が聞いたという、お欄さんの言葉を思い出した。しかし銀行が向き合うものは、厳格な数字でしか守れない。この非情な役割を果たすことこそが、銀行員としての「清廉さ」だと、賢治は自身に言い聞かせた。


賢治は、その問屋の主人を応接室に呼び出した。

主人の顔は、この師走の寒さ以上に凍りつき、年越しの絶望が滲み出ていた。

「賢治さん。分かっております。しかし、この寒さで水揚げが遅れ、あと一月あれば……」

主人は必死に懇願する。賢治の心は痛んだ。この主人の背後には、彼を信じて働く多くの家族の生活がある。

だが、賢治は顔を上げ、冷静に言葉を紡いだ。

「主人、残念ですが、数字は嘘をつきません。期限内にご返済いただくか、相応の担保をご提供いただかねばなりません。これは、個人の情ではなく、八戸の経済全体を守るための、銀行の公の線引きです。」

賢治の声は、冷徹で厳格だった。賢治自身、自分の内から情を切り離すという、痛みを伴う行為だった。この厳しい姿勢こそが、銀行員の「清廉さ」の証明だった。賢治は、主人の情けなさではなく、銀行の信用を選ばなければならない。

面談は、主人の深い落胆と諦念を持って終わった。賢治は、背中を向けた主人の姿に、外の世界の「情の義理」の破綻を目の当たりにした。


応接室に戻った賢治は、一人で静かに筆を握った。帳簿に書き込まれた冷たい数字は、賢治の心に鉛の重さを残した。

(志津は、この厳しさを理解してくれるだろうか。この非情な清廉さもまた、家庭を守るための盾であると。)

賢治は、自身の内側にある「情」を切り離し、公的な「清廉さ」を保ったことで、誰にも理解されない孤独な場所に立っていることを痛感した。

しかし、賢治の脳裏には、煤払いを終えた志津の家の清らかな光景が浮かんだ。


賢治は、再び筆を取り、残りの帳簿の処理へと意識を集中させた。師走の夜の闇が迫る中、賢治は、公の厳格さと私的な温もりの狭間で、静かにその責務を果たし続けた。

読んでいただきありがとうございます。

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