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月待ちの灯(あかり)  作者: しゅう


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38/84

寒椿

主人公 牧野 賢治

妻 牧野 志津

娼館の女 お蘭

賢治が銀行の喧騒の中へ向かった後、志津は静かな安堵の中にいた。昨日の煤払いで家中の穢れを払い終え、家の中は冬の光に満ちて、凛と整っている。

火鉢には、ゆっくりと火が熾されていた。志津は、このことこそが外の世界の重圧と戦う賢治のための、最も確かな守りだと知っている。賢治は、銀行のことは一切口にしない。しかし、帰宅後の革靴の重さ、疲労の影、そして連日の重い沈黙が、銀行業務の厳しさを物語っていた。

志津は、賢治が昨日市場で買ってきてくれた蜜芋を火鉢の隅に乗せ、温め始めた。


昼下がり、戸口に声がかかった。

「ごめんよ、志津さん。少し、お暇をいただいてね。」

立っていたのは、娼館『みどり楼』の女、おおらんさんだった。煤払いを終えたばかりの、静かで地味な志津の家には、お欄さんの紅い襟元と世慣れた華やかさが、強烈な対比となって差し込んだ。

「まあ、お欄さん。こんな寒い中、ようこそお越しくださいました。どうぞ、こちらへ。」

志津は、動じることなくお欄さんを迎え入れた。お欄さんは、すぐに賢治の疲労を察したように言った。

「旦那さん、そりゃあお忙しいだろうね。この時期の銀行さんときたら、一番のお役目だ。旦那衆はみんな顔がこわばって、年越しの算段ばかりさ。」

お欄さんの言葉は、八戸の街全体の景気を映す鏡だった。彼女の居る『みどり楼』は、金銭が動き、情が交差する、八戸の「裏の熱気」の中心にある。


火鉢を囲み、志津がお茶と蜜芋を差し出すと、お欄さんはすぐに世間話を始めた。その内容は、志津が近所の奥様方と交わす世間話とは、温度と色が違っていた。

「それにしても、今年の魚河岸は大変なもんだよ。大漁だって騒ぐけど、船の修理費だの何だの、結局手元に残らないって話ばかり。」

お欄さんは、特定の人間の名を出すわけではない。しかし、彼女の口から出るのは、漁師や商家の旦那衆の、生々しい「金銭の焦燥」だった。


「年越しの金は、『情の義理』だものね。旦那衆は、顔に泥を塗らないために必死さ。だけど、その義理の勘定が立たなくなると、みんな情けなくなるんだ。」

お欄さんの言葉には、賢治が銀行の帳簿で見る「数字」の裏側にある、切実な人情の貸し借りが透けて見えた。銀行の数字は冷たいが、それを動かしているのは、温かい年越しを願う人々の「情」なのだ。


志津は、蜜芋の甘さを感じながら、賢治の「重い沈黙」の理由を悟った。賢治が背負っているのは、単なる銀行の信用ではない。お欄さんが語るような、八戸全体を覆う「情の義理」の重圧なのだ。


お欄さんは、ふと口調を落ち着かせ、火鉢を見つめた。

「志津さんの家は、本当に清らかだね。外の騒がしさが、一切入ってこない。」

お欄さんの目は、志津の煤払いを終えたばかりの家の、静かな安堵を捉えていた。

「世間の男衆はね、『情の義理』と『金の義理』の間で、みんな孤独だよ。特に、旦那さんみたいに清い人は、どこにも本音を話せない。あの銀行の堅い帳簿の線引きが、自分と世間の間に引かれた壁になるんだ。」

お欄さんは、賢治と直接的な会話を交わしたわけではないが、世間の裏側から見抜いていた。

志津は、その言葉に胸を衝かれた。賢治は、公的な秘密として、銀行での一切を口にしない。それは、家庭を守るための「清さ」だ。しかし、その清さ故に、賢治は孤独を背負っている。

志津にできることは、その孤独な清さを、家庭という盾で守り抜くことだ。


お欄さんが、慌ただしい師走の街へと戻った後、家の中には再び静寂が戻った。

志津は、蜜芋を食べた。火鉢でじっくりと温められた蜜芋は、驚くほど甘く、そして温かい。

師走の冷たい夜、志津の心には、賢治の孤独が宿っていた。

読んでいただきありがとうございます。

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