出立
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
12月13日、暦の上では正月事始め。本来であれば、家々で煤払いを行い、一年間の穢れを清める日だ。だが、賢治にとって、この日の最大の「事始め」は、銀行員としての義理と責任を果たすことだった。
「志津、すまないが、今日も付き合ってもらえるか。」
賢治は、自宅で完璧に包まれた三つの包み—特に頭取宛ての品(数の子の光沢)を前に、最も重要な義理の場へは、志津の心遣いが最も必要だと賢治は知っていた。
志津は、煤払いの手元を止め、静かに微笑んだ。
「ええ、賢治さん。承知いたしました。」
志津の役割は、重い贈答品を持つ賢治の身なりが崩れないよう、道中の足元や品物への気遣いをサポートすること。そして何より、公的な場所へ向かう賢治の心の足場を固めることだった。
賢治は、志津に磨き上げられたばかりの革靴を履く。外へ出ると、昨日の泥濘は朝の冷気で幾分引き締まっていたが、空気は依然として重く、冬の到来を予感させた。
最初に向かうのは、やはり頭取の邸宅だ。
賢治は、頭取の立派な門を前にすると、背筋が自然と伸びるのを感じた。志津がそっと整えてくれた外套の襟に、改めて意識が向かう。
門をくぐり、通された応接室で、賢治は丁重な挨拶と共に、数の子と国産の砂糖を贈呈した。賢治が言葉を交わす間、志津は控えめに、しかし一切の隙を見せずに賢治の脇に控えていた。
頭取は、賢治の堅実な品選びに満足した様子だった。
「賢治くん、君らしい。派手さはないが、誠実だ。師走は銀行にとっても、日本経済にとっても厳しい時期だ。来年も、その堅実さで頼むよ。」
「誠心誠意、努めさせていただきます。」
賢治は頭取の言葉に、「堅実さ」が「見栄」に打ち勝った安堵を感じた。だが同時に、頭取の「日本経済にとって厳しい時期だ」という言葉が、賢治の心を重く圧しつけた。銀行員としての責任の重さが、革靴の重さとなって足元にのしかかる。
志津は、頭取宅を出た賢治の表情の硬さを見て、すぐに懐から懐紙を取り出し、賢治の手をそっと拭った。賢治が気づかぬうちに、手のひらに滲んでいた緊張の汗を、志津はすぐに察知していたのだ。
頭取宅を出た後、賢治と志津は、一度銀行へ戻って他の贈答品を手配した後、実家への訪問へと向かった。
まず向かったのは賢治の実家。賢治にとってこの家には私的な安堵しか感じない。門をくぐる際の賢治の足取りは、公的な緊張から解放され、軽やかに変わった。
しかし、志津の足元は違った。
志津にとって、夫の実家はやはり「最も身近な公の場」である。志津は、南部菱刺しの布巾や日用品を義父母に手渡す際、言葉遣いや振る舞いに、頭取宅と変わらぬほどの神経を集中させていた。
「志津さんの布巾は、本当に丁寧で丈夫だね」
義母の褒め言葉に、志津は控えめに、しかし凛として微笑んだ。賢治は、実家で温かい茶を飲みながら、志津の背筋の伸びた様子を横目で見つめた。
(私にとって安堵の場所が、志津にとっては別の種類の「義理」の場になるのだな。)
賢治は、自分の無意識の「気楽さ」が、志津に「緊張」を強いていることを悟った。志津の細やかな気配りは、賢治の実家における自分の「家庭の顔」を完璧に支えているのだ。
次に、賢治と志津は志津の実家へと向かった。
今度は、立場が逆転した。
志津は、自分の実家の門をくぐる際、公的な場所での振る舞いから解放され、素の「私的な安堵」に満たされた。しかし、賢治の足元は再び重くなる。
賢治は、志津の両親の前では、銀行員としての「堅実さ」だけでなく、「娘を任せて安心できる夫」としての信頼を得ねばならない。
賢治は、志津の実家に用意した上質な塩鮭を渡し、言葉を選びながら丁寧に挨拶した。賢治の筆先で書かれた熨斗も、志津の両親にとっては「公的な信用」の証明だ。
その傍らで、志津は心からリラックスした、凛とした笑顔で両親と会話している。志津のこの「心の足場」は、外の世界の重圧に決して負けない、確かな強さを持っている。賢治は、志津の「私的な顔」が、これほどまでに明るく、美しい光を放つことに、改めて感動を覚えた。
「公の賢治」として緊張する賢治と、「私的な安堵」を取り戻した志津。二人の間の心の加減は、この瞬間、お互いの役割を交換することで、完璧なバランスを保っていた。
その後、賢治と志津は、八戸の主要な取引先を巡り、大戦後の景気の冷え込みや年末の資金繰りの難しさといった、師走の現実的な重圧を共有した。
日は傾き、夕刻を迎える。朝は乾いていた道も、日中の人や馬の往来で再び土が掘り起こされ、冷たい泥濘がところどころにできていた。
賢治の重い革靴は、再び泥水を吸い始め、一歩一歩が重い。今日一日の公的な義理と経済の重圧が、物理的な重さとなって、賢治の全身を襲っていた。
志津も、慣れない冬の道の外回りで、疲労の色が隠せない。賢治は、志津の外套の裾に泥が跳ねているのを見て、胸が痛んだ。
「志津、すまない。重い思いをさせてしまった。」
賢治の謝罪に、志津は首を横に振った。
「いいえ。賢治さんが毎日、この道を歩んでいることが、よく分かりました。」
志津の静かな言葉は、賢治にとって、何よりも深い理解を示していた。外の世界の厳しさを二人で乗り越えたという事実に、賢治は深い感謝を覚えた。
帰路、賢治は八戸の市場の脇で、立ち寄った一軒の店で出来合いの惣菜を買い求めた。
八戸産の魚介を丁寧に煮付けたものや、上質な蒲鉾などだ。
帰宅後、賢治は玄関で重い革靴を脱ぐと、志津の手をそっと握った。
「志津。今日は本当に助かった。だが、疲れただろう。今日は休んでくれ。」
志津は、煤払いや夕げの準備をしようと動いていた手を止めた。
今日一日の労いだった。
火鉢の前に並べられた、質素だが温かい出来合いの夕げ。その光の中で、賢治と志津は静かに向かい合った。
外の世界の喧騒と泥濘は、この家の外にある。夫婦の愛情の火加減は、「労い」という最も確かな光を放ち、師走の夜を静かに照らしていた。
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