正月事始め
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
12月中旬、八戸の空は、昨日の雪解けのぐちゃぐちゃした泥濘の跡を、朝の冷たい風が静かに乾かしていた。翌日は「正月事始め」。本格的な年の瀬の準備が始まる前日である今日、志津は家の中で静かに、年末の段取りを整えていた。
火鉢の横には、賢治が銀行から持ち帰り、手配を終えたお歳暮の品々が、いくつかの包みに分かれて置かれている。志津は、その包みの並びを見て、賢治が仕事上でいかに神経をすり減らしたかを想像した。頭取への贈答品を前に「見栄と家計」の葛藤に悩んだことを、志津は感じ取っていた。志津は、これらの品がそれぞれの贈答先の心に響くよう、丁寧に包み直さなければならなかった。
志津は、三つの異なる贈答先への包みを前に、一つひとつ心遣いを巡らせた。
一つ目は、賢治さんの実家への包み。そこには、賢治さんの孝行の心を立てるための、少し値の張る上質な塩鮭の切り身と、夫婦の元気な様子が伝わるように、少し大ぶりの海苔の詰め合わせが入っている。賢治の両親が「八戸で堅実に暮らしている」という安心感を覚えられるよう、志津は包みの色合いも地味ながら品のあるものを選んだ。
二つ目は、志津自身の実家への包み。こちらには、高価な品よりも、離れて暮らす娘の温かい心を優先した。志津が八戸に来てから習得した南部菱刺しの布巾や、実家では手に入りにくい高級な国産石鹸を選んだ。そして、必ず添える手書きの短い手紙。形式よりも愛情が伝わるように、文面に工夫を凝らす。
志津が最も神経を集中させたのは、三つ目の、賢治さんの銀行の頭取へ贈る包みだった。
中身は、賢治が悩みに悩んだ末に選んだ品々だ。豪華な洋酒や、高価な舶来品ではない。中身を改めて確認すると、そこには、質の確かな国産の砂糖一袋と、丁寧に箱詰めされた数の子が入っていた。
志津は、その数の子の箱を手に取った。数の子は、子孫繁栄の縁起物であり、正月の食卓には欠かせない。だが、その粒立ちや色合いは、控えめでありながら、確かな光沢を放っている。
(見栄を張らなかったのですね。)
賢治は、仕事上の義理を果たすために、「高価で立派な舶来品」を選ぶ誘惑に駆られたはずだ。しかし、彼は、家庭を乱すことなく、「品質は確かだが、堅実な国産品」を選んだ。
その数の子の光沢は、賢治の心の美しさそのものに見えた。派手な光ではないが、芯から滲み出る、夫婦の誠実さを物語っている。志津は、賢治の心が「仕事の義理」という外圧に負けず、「家庭の温もり」を優先した証拠を見つけ、深い安堵と喜びを感じた。
志津は、頭取への包みに丁寧に熨斗をかけ、最後の仕上げを終えた。贈答品の手配という、形式としての義理を果たす中でも、賢治は「心の温もり」を失わなかった。志津は、公、私、家庭という三つの異なる関係性を、完璧に整えた。
家の中に並べられた三つの包みは、それぞれの関係性に応じた静かな存在感を放っている。志津は、この周到な準備こそが、賢治の仕事の足場を固め、そして夫婦の暮らしの調和を守るのだと悟る。
賢治が、この数の子の光沢の裏にある、志津の静かな決意を知ることはないかもしれない。志津にとって、賢治の心が乱れずに、明日もまた穏やかに仕事へ向かえること。それが、すべての努力の報いだった。
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