年賀状
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
12月中旬。賢治が銀行から持ち帰った年賀状の束は、火鉢の傍らに置かれていた。印刷された差出人名は銀行名となっていたが、受け取る相手の宛名と一筆は、当然ながら賢治自身の筆で書かねばならない。
志津が擦ったばかりの墨は、温かい湿気を帯びて、静かに賢治を待っていた。
賢治は火鉢の前に座り、筆を手に取った。この宛名書きは、銀行員としての義理と、一年間の人との繋がりを再確認する、師走の最も重い作業の一つだった。
最初に手に取ったのは、銀行の頭取や、最も大口の取引先の主人宛ての葉書だった。
賢治の筆先は、自然と硬く、緊張した筆跡を描き出す。言葉遣いは形式的で、一字一画に「公的な賢治」の厳格さが求められる。わずかな誤字も許されない、泥濘の道を慎重に進むような集中力が必要だった。
公的なという名の重みが、筆を持つ手に、そのまま筆圧として加わる。賢治は、銀行での疲労とは別に、この公私の顔を切り替える作業そのものに、消耗を感じていた。
作業が進み、ようやく親しい友人や、志津の親族への年賀状に取り掛かったとき、賢治の筆圧はわずかに緩んだ。
形式的な挨拶の後に添える、個人的な近況や、相手の健康を気遣う一言。そこには、素の「私的な賢治」の温かさが滲み出る。
ふと、賢治は自分の肩にそっと触れる、志津の指を感じた。志津は、賢治の疲労を察して、そっと肩を揉んでくれていた。
「墨、足りていますか」
夜が深まり、賢治は最後の葉書を書き終えた。
書き終えた年賀状の束は、この一年間の賢治の奮闘と、全ての繋がりを象徴するように、火鉢の傍に静かに積み重ねられた。
賢治は、全てを筆圧に乗せて書ききったことに満足した。外の世界の重圧は決して消えないが、この一筆一筆を大切にすることで、師走の重みを乗り越えられると信じ、賢治は深い息をついた。
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