襟巻き
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
朝、賢治を送り出すために戸を開けた瞬間、志津は肌を刺すような冷気にハッとさせられた。海風の湿った冷たさとは違う、内陸の山々から流れ下ってきたかのような、乾いた、芯のある冷たさだった。空は昨夜から鉛色に重く垂れ込めている。
「賢治さん、今日は一段と冷え込みます。この襟巻きを。」
志津は、先日手入れしたばかりのウールの襟巻きを賢治の首に丁寧に巻きつけた。賢治は少し大げさだと笑ったが、志津の何となくの予感が、彼の体を守るべきだと告げていた。
「風邪を召さないようにね。何かあったら、無理せず戻ってきてください。」
「ああ、行ってくるよ。ありがとう、志津。」
戸が閉まった後も、志津はしばらくその場を離れられなかった。賢治の姿は見えないのに、彼の外套の背中に、今日の仕事の重みがのしかかっているように感じたのだ。
賢治の温もりが消えた戸口の冷たさを感じながら、志津は静かに家事に取り掛かった。
家の中は、冬支度のおかげで昨日よりも調和が取れている。火鉢の灰は均され、賢治の着類も箪笥に収まっている。
志津は、針仕事のために、賢治が残していった小さな木片の裁断屑を整理していた。賢治の仕事の痕跡に触れると、彼の姿勢が、そのまま伝わってくるようだった。
やがて、風の音が、遠くの山から近くの軒先に変わるのを感じた。
(これは、雪が近い。)
空の色も、光の具合も、風の匂いも、まだ雪を告げていない。だが、自分の肌と、家の戸の僅かな揺らぎが、雪が空から降りてくるのを伝えてきた。
志津は、早めに夕餉の準備を済ませ、賢治の帰りを待つ場所—火鉢の前に座った。
火鉢には、賢治が帰ってきてすぐに温まるよう、熾したばかりの炭が赤く静かに燃えている。この小さな炎の灯こそが、外の暗闇の中で懸命に働く賢治に届く、志津からの静かな信号だ。
窓の外を見ると、予感した通り、白いものがフワリ、フワリと舞い始めた。初雪だった。
彼はきっと、この雪の中を照らす自分の家の灯りを思い出しているはずだ。
志津は、外の雪が作り出す静寂と冷たさと、家の中の火鉢の温かさを対比させながら、賢治の無事を願い、静かにその帰りを待ち続けた。
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