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月待ちの灯(あかり)  作者: しゅう


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薫り2

主人公 牧野まきの 賢治けんじ

32歳 八戸銀行 融資課行員 「信義」と「愛情」の板挟みになる男。真面目さが裏目に出て、妻に仕事の事情を話せない不器用さを持つ。


牧野まきの 志津しづ

28歳 主婦(元名主の娘) 「生活の清さ」と「夫への信頼」を守ろうとする、芯の強い女性。夫の匂い、言葉、行動から真実を見抜く。ヤキモチは愛情の裏返し。


娼館の女 おおらん

20代後半 娼館『みどり楼』の女 「裏の人間関係」と「情の義理」を体現する。世慣れており、賢治の孤独と清さを見抜いている。物語の結末で、夫婦の救済者となる。


重要取引先 山中 社長 50代

志津が去った後の井戸端で、賢治は寒さに震えながら立ち尽くした。志津の目線が、自分ではなく背後の『みどり楼』に向けられていたことが、賢治の心を重く圧した。妻の胸にある疑念は、もはや言葉で打ち消せるものではない。銀行員としての信義と、夫としての愛情、その二つが賢治を八戸の裏通りで雁字搦めにしている。

翌朝、賢治が起きた時には既に志津の姿はなかった。朝餉の膳には、賢治の好物であるかれいの煮付けが湯気を立てている。だが、その横に置かれた新調されたばかりの木製の櫛が、賢治の目を射た。

それは、賢治が数日前に心付けの金で志津に贈った、都会風の飾り気がある櫛だ。志津はそれを大切そうに扱っていたはずだが、今、その櫛は膳の隅に、まるで無造作に放り出されているように見える。

賢治は何も言わず飯を掻き込んだ。志津は隣室で布を織る音だけを響かせている。その静寂こそが、賢治には何よりも辛かった。

銀行へ向かう道すがら、賢治は覚悟を決めた。山中工業の不正を、今日中に突き止めねばならない。あの社長が貸付金でやろうとしている危うい投機は、八戸銀行の信用に関わるだけでなく、ひいては街全体の景気に影響を及ぼしかねない。

「銀行員として、正しい筋を通す」――それが、妻に何も話せない自分の、せめてもの誠意だと賢治は思い定めた。

しかし、その日の昼下がり、みどり楼で帳簿を整理している賢治を、ある男が訪ねてきた。

「牧野さん、ご苦労さんで」

それは、賢治が担当する漁業組合の小さな取引先の男だった。

「どうされました、こんなところで」

「いやね、ウチのかかが、あんたの奥さんと古い知り合いだそうで。聞けば、奥さんが最近、妙に高価な反物を欲しがっているとかで、ウチの嬶がその仕入れを手伝ったらしいんだが……」

男はそう言って、口を濁した。賢治は心臓を鷲掴みにされた心地だった。志津は普段、贅沢を嫌う女だ。それなのに、なぜ高価な反物を?

「それが、どういった反物で?」

「なんでも、近頃東京で流行りだという、舶来の華やかな柄だそうで。あんたの給金で、奥さんがそんな物を買うのかと、ウチの嬶も不思議がってね……」

男は、賢治が山中社長の金で女に貢いでいるとでも疑っているのだろう。そして、志津はその夫の不正な金で、自分の欲望を満たそうとしているのではないか、と。

賢治は顔から血の気が引くのを感じた。志津が櫛をぞんざいに扱ったのも、きっとその反物の件が関係しているに違いない。妻は、夫の裏の仕事に気づきながらも、その恩恵に手を染めようとしているのではないか。そう考えると、賢治の胸は張り裂けそうになった。

その日の帳簿整理は手に付かなかった。お蘭がいつものように通り過ぎる時、賢治の顔を見て、ふと真面目な顔をした。

「旦那さん、あんた、ずいぶんと顔色が悪いね。そんなに銭金が怖いかい?」

お蘭の言葉は、まるで賢治の心の汚れを見透かすようだった。

「これは、銭金の問題ではありません」

賢治は絞り出すように答えた。

「これは、信義の問題です」

信義。銀行員としての信義、夫としての信義。そのどちらもが、今、目の前で崩れ去ろうとしていた。


夜遅く、賢治はみどり楼の裏の勘定書を懐にしまい、重い足取りで帰途についた。山中社長が隠している投機先の記録と、その借金の担保に入っているはずのないある物件の証文を、賢治は突き止めていた。

家に着くと、志津はまだ起きていた。卓袱台には温かい茶と、八戸近郊で取れた林檎が並べられている。

賢治が座るや否や、志津が切り出した。

「お父さん。わたくし、今日、反物を見てまいりました」

賢治は息を飲んだ。やはり、その話か。

「そうですか」

賢治は冷たい声で答えるしかなかった。怒りとも、悲しみともつかない感情が、喉元に詰まる。

「あの反物、とても美しいものでした。東京の流行りだそうで……。ですが、わたくし、買うのはやめました」

志津はそう言って、賢治の顔を真っ直ぐに見つめた。その眼差しは、先日の夜の冷たい光ではなく、賢治が知る穏やかで、しかし芯の強い光を宿していた。

「なぜです。お前、あれを欲しがっていると聞きましたが」

志津は、賢治の言葉に、ふと微笑んだ。それは、賢治の心に突き刺さった疑念の針を、そっと抜いてくれるような、静かな笑みだった。

「ええ、欲しゅうございました。ですが、それを買えば、わたくし、お父さんのお顔をまっすぐ見られなくなりそうで」

志津の言葉は、賢治の想像とは全く違っていた。志津は、高価な反物を夫の給金ではないと知っていたのだ。そして、その不確かな金に手を染めることで、自分たちの「生活」が汚れてしまうことを恐れたのだ。

賢治は、志津の潔さ、そして自分を信じようとする静かな強さに、打ちのめされた。妻のヤキモチは、夫の裏切りではなく、生活の清らかさを守りたいという切実な願いだった。

読んでいただきありがとうございます。

3-2となります。

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― 新着の感想 ―
このまま賢治が一生、カレイの煮付けにありつけなかったらどうしよう・・・と思ってしまいました。そうじゃなくてよかった。 妻だけでなく、夫も敬語なのが、軍人のような体育会系ではなく、文系男子らしくて美しい…
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