茶菓子1
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
賢治の師匠
師匠の知人
八戸の港に近い、古い路地裏を賢治は歩いていた。今は仕事に追われる毎日だが、ふと路地裏の潮風と木材の匂いが、賢治の少年時代の記憶を呼び覚ます。
(あの頃、俺はいつもあそこで、師匠に会っていたな…)
賢治の少年時代、八戸の街には、常にふらふらと現れる風変わりな老人がいた。
その姿はまさに「仙人みたいな、ほいど(乞食)みたいな姿」だ。
身なりは清潔とは言えず、長い髭と髪は手入れもされず伸び放題。だが、その目つきは鋭く、底知れない知性を感じさせた。
賢治は、その老人に名前を尋ねたことはない。尋ねても教えてもらえなかったのか、あるいは尋ねるのが野暮だと感じたのか、もう覚えていない。ただ、賢治は彼を、「お師さん」と呼んでいた。
お師さんは賢治に、石蹴りやビー玉遊びとは違う、もっと面白い遊びを教えてくれた。それは、街の人の表情を読み取る遊びだったり、古い建物の歴史を当てる遊びだったりした。
しかし、お師さんの最も不思議な行動は、賢治を「長老会」に連れ回すことだった。
長老会が開かれるのは、町の公民館の奥まった座敷だ。そこには、代々街の安寧を担ってきた長老たちが集まり、真面目に町の将来について話し合っている。
仙人みたいな姿のお師さんを、長老たちは誰も咎めない。むしろ、上座に近い席の一つを与えて、まるで彼が一番の知恵者であるかのように尊敬の眼差しを向けていた。
賢治は、大人になってから、お師さんが明治維新の頃の幕府方の高官だったのではないかと推測するようになった。
戦に疲れ、身分を捨てて逃避してきた者だからこそ、身なりはほいどでも、その見識は長老たちに一目置かれているのだと。
長老たちが難しい顔をして、街の行く末を話し合う中、お師さんは決して口を開かない。その代わり、横に座る賢治の膝をそっと叩き、目配せをする。
そして、長老たちの真面目な話の合間を狙って、湯呑みに隠すように、お茶菓子をそっと賢治に盗み食いさせるのだ。
その時の、お師さんの楽しそうな目元を、賢治は鮮明に覚えている。
長老たちの厳粛な雰囲気と、お師さんの破天荒な遊び。
お師さんは賢治に、人生について一言たりとも説教をしなかった。だが、賢治の心には、この対比こそが、言葉以上の教訓として残った。
(きっと、お師さんは言いたかったんだろう。本当に大切なことは、身なりや、世間の規律じゃなくて、自分の心の中にあるって。そして、人生は、真面目な顔をしている長老たちを横目に、こっそりお茶菓子を食べるくらいの自由があってもいいんだって。)
お師さんとの日々は、特別な別れもなく、いつしか終えていた。
まるで、朝霧のように、いつの間にか街から姿を消してしまったのだ。
賢治は、今日の仕事の悩みを一瞬忘れ、長老会でお師さんと盗み食いした、あの甘いお茶菓子の味を思い出し、ふっと笑みをこぼした。
賢治と師匠との関係を書いてみました。




