行灯
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
夕餉の支度を始めるには、まだ早い頃合い。
志津は、そろそろ賢治が戻ってくる頃合いだと、戸口に目をやった。彼が山に入った日の午後は、常にどこか落ち着かない。舞茸という大きな恵みを得る喜びと、深い山への畏れが混ざり合った、複雑な心持ちだった。
「ただいま」
賢治は、疲れているはずなのに顔をほころばせ、大事そうに抱えていた茶色い塊を志津に渡した。
「今年も、見事なものだ」
志津はその塊を受け取る。ずしりと重い。それが山が与えてくれた、一年分の豊かな恵みであることを知っていた。
「お帰りなさい、賢治さん。……これは、本当に。ありがとうございます」
志津は、すぐにその舞茸を夕げの分と、保存の分に分ける作業に取り掛かった。採れたての舞茸の香りは、湿った土と深い森の匂いを運んでくる。
「賢治さんは、今晩何が食べたいですか?」
志津が尋ねると、賢治は目を細めて答える。
「まずはこの香りを味わいたい。あとは、少し冷えてしまったから、温かいものが良いな」
二人は二手に分かれた。賢治は、保存用の舞茸を広間に運び、丁寧にひだを分け、湿気を飛ばすために綺麗に並べ始めた。乾燥棚に載せられた舞茸は、少しずつ黄金色に変わっていく。
志津は、夕げの支度を始めた。採れたての香りを一番に楽しむため、舞茸の吸い物と、少し焼いたものを添えよう。山で冷えた賢治さんのために。
やがて、早めの夕げの支度が整った。
囲炉裏のそばで、湯気の立つ吸い物をすすりながら、賢治は静かに山での出来事を話し始めた。狩場のこと、師匠の教えを思い出したこと、そして来年のために残してきた小さな株のこと。
志津は、時折頷きながら、彼の話に耳を傾ける。舞茸の豊かな香りが部屋を満たし、二人の間に流れる時間は、言葉少なながらも、自然の恵みと感謝に満ちた和やかなものだった。
舞茸採りの日の夕べは、こうして、静かに、そして豊かに過ぎていった。
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ほのぼのとした日常を心がけて書いています。




