水楢
主人公 牧野 賢治
妻 牧野 志津
前の晩に志津に握りを準備してもらい、まだ暗い朝早く、彼は山へと出かけた。
夜明け前のひんやりとした空気の中、足早に進む。握り飯はまだ温かく、時折香る磯の香りが、遠く離れた里の優しさを思い出させた。
日が昇り、空が橙色から青へと変わる頃、およそ一刻(約二時間)ほどで目的の山の麓にたどり着いた。
周囲をよく見渡し、人の気配がないことを確認すると、彼は立ち止まって手を合わせた。それは、山が持つ力と、恵みへの畏敬の念を示す静かな儀式だった。
「今年も、どうぞ」
心の中で呟き、人目につかない深い茂みへと足を踏み入れた。この狩場は、誰にも教えない内緒の場所だ。
彼は、下から上へと、朽ちた大木の根元や、苔むした幹の窪みに目を凝らしながら慎重に探る。舞茸は、その生える木を抱え込むように、深く、静かに姿を現す。特に、昨年恵みを与えてくれた場所の辺りは、息を潜めて注意深く視線を送った。
やはり、今年もあった。
暗い森の中に、見事な茶褐色と白のコントラスト。どっしりとした塊で、これ一つで今年の恵みの多くをまかなえるだろう。
その舞茸を前に、彼はかつて山の師匠が教えてくれた教えを思い出した。
山の恵に感謝し、必要な分だけ感謝していただくこと。決して欲張ってはならぬ。
師匠は、まるで仙人のような姿をしていた。その教えを守り、彼は舞茸の株を丁寧に切り取った。その重さは、ずしりと手応えがあり、およそ百匁(約375g)の三倍ほどはあろう。今年の恵みとしては十分すぎる量であった。
彼は、他にもないかと周囲を確認し、数カ所で小さな舞茸の株を見つけた。しかし、それらは取らずに、来年また生えるための場所として静かに記憶に留めておいた。
感謝を捧げ、彼は重たい舞茸の塊を大事に抱えて山を下りた。
(志津には、何を作ってもらおうか……)
帰路につきながら、彼は考える。この立派な舞茸の多くは乾燥させて保存し、少しづつ一年の糧として食べたい。あとは、採れたての香りを最大限に活かした料理をいくつか……。
舞茸採りの日の朝は、こうして、自然の恵みに満たされて静かに終わった。
また食べ物の話しとなってしまいました。




