第2話「雨と悪魔と月明かり」
湿気を含んだ風が荒れ狂う広場。
そこには焦げた肉塊と砕けた瓦礫が転がり、血の匂いと死の気配が濃密に漂っていた。
中央で対峙するのは、異形の巨人と二人の少女。
巨人は灰色のコートを身にまとい、頭頂からは螺旋を描く角が生えている。
愛嬌すら感じさせる羊頭とは裏腹に、剥き出しの肋骨が胸郭ごと蠢いていた。
先ほど潰された獣人だった肉塊は、どろりと溶け落ちていた。
生物を逸した異形が口を開き、鋭く緊迫した空気を震わせる。
「〈灰色街道〉――群長、バフォメル。……参る」
決して大きくはない、だがはっきりと聞こえる声。
それは名乗りであると同時に、処刑の宣告だった。
「……ふーん。筋肉だけは一級品だね」
巨体を見上げながら、少女――エリスがからかうように言った。
嘲笑の形に口元を歪め、赤い瞳がきらりと光る。
しかし、頬は青ざめ、足元には微かな震えがあった。
「エリス、無理しないで。血が足りないなら、私の後ろに下がっててもいいわよ」
隣で杖を構えるライラが冷静に告げる。
琥珀色の瞳が、獣を彷彿とさせる巨体をしっかりと捉えていた。
「冗談。貧血気味の方がむしろちょうどいいし……この血槍一本で、十分だよ」
ふわりと笑い、血槍を持ち直す。
エリスは気怠げにしながらも、それでいてどこか楽しんでいるようでもあった。
一瞬、静寂が広場を包み込む。
先に動いたのは、バフォメルだった。
周囲に視線を走らせ、低くつぶやく。
「……資本はまだあるな」
ゆるりと足を開き、鈍く光る蹄で石畳を踏み鳴らす。
「惰弱なる命を喰らいし魔の力よ――〈蹄刻・魔胎縛契〉」
肉体が膨張する。
皮膚は裂け、骨が軋み、隆起した筋繊維が衣服を弾き飛ばす。
背から突き出した脊椎状の瘴気が蠢き、黒い霧となって地を這う。
石畳には蜘蛛の巣状の亀裂が走り、まるで悪魔が現世に根を下ろしたかのように、圧倒的な威圧が広場を支配する。
「わあお、肉体強化系の術式?見た目どおり脳筋な能力だ……ね!」
エリスが飛び出す。
血槍を回転させ、刃先で石畳をなぞる。
返り血が滲んで赤が脈打つ。
槍先は巨人の眉間を正確に捉える――が。
「威勢だけは一人前だな、吸血鬼よ」
咆哮と共に巨体が突進。
石畳が砕け、飛び散った破片が視界を遮った。
エリスが怯んだ刹那、バフォメルの前腕が頭上へ振り下ろされた。
「はっやっ!」
エリスは身をひねり、紙一重でそれを躱す。
返す刀のように槍を振るも、突き出た肋骨がそれを受け火花が弾けた。
「一人だけに集中していていいのかしら」
ライラの声が静かに響く。
詠唱を終えた右腕に、淡い光が静かに灯る。
彼女はそれを前にかざすと――。
「灼焔の魔縛、第四環――〈劫焔の熾網〉!」
足元から赤黒い魔炎の網が噴き上がり、バフォメルの両脚に絡みつく。
火花のような閃きの中、巨体が一瞬、静止した。
「今!〈血式・――」
エリスが踏み込む。
紅の残光とともに、血槍が突き出される――その時。
ぽたっ――。
雨粒が血槍の穂先に落ちた、その瞬間。
「……え?」
空から落ちた一滴が触れた瞬間、血槍はふわりと溶けて消えた。
「ちょっ……!やばっ……!」
術式の崩壊。
巨腕がうなりを上げる。
空気が裂けるような衝撃音が響き、石畳に鋭いひびが走る。
傍らに転がっていた獣人の体が再び、どろりと溶け落ちた。
「血よ、肉よ、我が力の源となれ。〈蹄刻・轟掌蹄〉」
巨拳が胸部を直撃。
弾丸のように放たれた身体が、大粒の雨を切り裂いて宙を駆けた。
衝撃とともに瓦礫の山にたたきつけられ、土煙が立ち上った。
「エリス!」
本格的に降り始めた雨がライラの髪を濡らす。
バフォメルを縛っていた炎の網は、雨に飲まれて白い蒸気へと変わっていく。
蒸気が広場を覆い、白濁した幕のように空間を呑み込んだ。
その中心には巨大な影。
異形の悪魔は、先の出来事を興味深そうに反芻していた。
「……ふむ。雨で血が薄まったことで、術式の核が分解されたか。“溶血”とでも呼ぼうか。実にわかりやすい弱点だ」
バフォメルは口元を歪め、静かに嗤うと、ぐるりと広場を見渡した。
「まだ残っているな」
低く呟いた直後、視界を切り裂くように巨腕が振るわれる。
白濁した雨霧の幕を裂き、狙う先はライラ――。
「くっ……!」
紙一重で身をかわし、杖を滑らせて後退。
すぐさま詠唱に入るも、バフォメルの巨体がその隙を許すはずもない。
「無駄な足掻きはやめろ、魔女。貴様一人で何ができる」
巨腕が唸りを上げるたび、地面は砕け、瓦礫と肉片が宙を舞う。
それでも、ライラの瞳は揺るがなかった。
琥珀の奥に、冷たい光が宿る。
――その視界の隅で、崩れかけた影のひとつが、ぬるりと肉を垂らし、静かに沈んでいった。
「……たしかに不利ね。でも――」
右、下、右、左。殺意のこもった蹄が縦横無尽に襲い来る。
跳ねるように地を蹴り、擦り傷を増やしながらも、彼女は動きを止めない。
呼吸は荒れ、肺が悲鳴をあげる。
それでも言葉は淀みなく紡がれる。
「この程度で、エリスを倒せたと? 甘く見ないことね」
「戯言を。死ね、〈蹄刻・轟掌蹄〉」
鈍色の蹄が地を鳴らす。
エリスを吹き飛ばした必殺の一撃が、今度はライラを狙う。
逃れようとした足が、濡れた地面に滑った。
体力は尽き、崩れ落ちるように膝をつく――。
視界の隅、ぼやけた景色の中で、ひとつの影が音もなく崩れる。
まるで煙のように、命が消えていった。
死の拳が、振り下ろされる――その刹那。
「……あはは、危機一髪だったね」
赤い閃光がバフォメルの目前をかすめる。
土煙が舞い、砕けた石片が雨に混じって散る。
土砂降りの中、傷だらけの少女が立っていた。
泥と血に塗れたドレス、膝は震え、呼吸も浅い。
それでも――その唇には、不敵な笑みが浮かんでいる。
「遅い。……でも、ありがとう。助かったわ」
少女はライラを抱きかかえると、そっと地に降ろし、再び巨体と向き合った。
「……まだ、生きているだと」
「吸血鬼ってさ、不死身なんだよね……このくらいじゃ、まだ“ぜんぜん余裕”」
呼吸は浅く、肩がわずかに震えている。
けれど口元には、不敵な笑みが張り付いたままだ。
「ふん……作り話を。ただ少し頑丈なだけで、よく吠えることだ」
バフォメルが鼻を鳴らす。
怒りとも、呆れともつかぬ声音。
だが、蹄がわずかに開き、再び殺意が高まったのは確かだった――その時。
「雨よ、風よ、渦巻きし障壁となれ……第四環――〈暴風雨〉!」
ライラの詠唱とともに、空気が爆ぜる。
濁流のような風が吹き荒れ、雨と視界を巻き込み、広場を暴力的に覆い尽くす。
バフォメルの巨体が一瞬、嵐の中心に閉じ込められる。
その隙を突き、ライラはエリスへと視線を向ける。
なおも青ざめたその顔色に、ほんの少しだけ眉をひそめた。
「無事?……なんて聞く間もないわ、働いてもらうわよ」
「うぇーい、これが世に聞く吸血パワハラ……」
苦笑を漏らしつつ、エリスは顔を近づけ、ライラの耳元に囁く。
「ねえ、――」
その一言を聞いた瞬間、ライラの瞳がわずかに揺れる。
すぐに、その揺らぎを断ち切るように、強く、静かにうなずいた。
「1分。そいつを足止めして。そしたら、“やってあげる”」
「ガッテン。任せたよ、相棒」
言葉は短く、力強い。
それだけで通じる。
互いの命を預け合う関係性が、言葉以上に雄弁に空気を揺らした。
「――ふん!」
渦巻いていた風が裂ける。
封じられていたバフォメルの姿が、再び現れる。
視線の先には、武器もなく、血まみれで立つ吸血鬼の少女。
だがその瞳は、決して死を恐れてはいなかった。
「死の間際だというに、そのような目をするとは……。哀れな狂人どもめ」
雨が激しさを増し、風が止んだ。
その瞬間――戦場の音が全て、ノイズに変わる。
――残り50秒。
バフォメルが動く。
エリスへ踏み込むと同時に、巨腕が振り下ろされる。
「ぐっ……?!」
だが、その拳が途中で裂けた。
肉が裂け、骨に亀裂が走り、赤黒い瘴気が噴き出す。
バフォメルの目が、驚愕に見開かれる。
「……ちっ」
即座に跳躍。
瓦礫の影からまだ息のある獣人を引きずり出し、まるで資産を現金化するように――その命を、潰す。
骨格が潰れ、皮膚が紙のようにしわみ、肉体はどろどろの澱と化す。
その雨に溶ける残滓と引き換えに、バフォメルの腕は脈動し、強化された筋肉が再び現れる。
――残り40秒。
「〈蹄刻・轟掌蹄〉!」
重い蹄が空を裂く。
だが、エリスはギリギリで身をひねり、石畳が砕ける爆音の中をすり抜ける。
さらに、第二撃――。
「貴様らに抵抗するすべはない。おとなしく死ぬといい――〈蹄刻・裂空蹄刃〉!」
突き出された蹄が空間を切り裂き、目に見えぬ斬撃が飛ぶ。
しかし――。
「……ぐぅ……っ?!」
またしても、バフォメルの腕が内側から爆ぜる。
血と骨が飛び散り、力の代償が露わになる。
「やっぱりね」
エリスは冷ややかに微笑み、脇に抱えていた獣人の首筋を軽く叩く。
「最初は勘違いしちゃったけど……君の術式〈蹄刻〉の本質は“契約”。一撃につき一命――支払いが滞れば、自分の肉体が差し押さえられる仕組みってわけだ」
――残り 30 秒。
バフォメルは一瞬、沈黙し、潰れた腕を見下ろす。
それは霧のように崩れ、隻腕となった巨躯のシルエットが闇に浮かぶ。
「……ふん、よく気づいたものだ」
「攻撃のたびに誰かがドロドロに溶けてたからね。帳簿の付け方が派手で助かるよ」
エリスは肩をすくめ、獣人の体を後方へ放る。
――残り 25 秒。
「だが、それがわかったところでどうした。血が使えぬ貴様に、何ができる?」
余裕の笑みを浮かべながら、バフォメルが魔女――ライラへと向き直る。
無防備な詠唱中の彼女を、仕留めにかかろうとした、その時。
「……誰が血を使えないって?」
赤い閃光が走った。
エリスの拳。
まるで鉄塊のような打撃が、羊角をへし折る。
体内で血を凝固させ、骨と筋肉を一時的に補強した一撃だった。
「体の中にある分には雨に濡れない!こんなの、サルでも分かるでしょ」
だがその代償に、腕は鬱血し、力なく垂れ下がる。
それでも――バフォメルの冷たい瞳が、わずかに熱を帯びた。
「鬱陶しい羽虫が……そこまで死にたいのなら、先に殺してやる」
――残り20秒。
バフォメルの蹄が地を蹴る。
周囲に“資本”となる命はない。
威力の落ちた攻撃が連続して叩き込まれる。
(15、14、13、12……)
エリスは反撃もせず、ただ攻撃を誘い、受け流す。
まるで時間を稼ぐためだけに命を燃やしているかのように。
(11、10、9、8……)
肩越しに、詠唱を続けるライラの姿が見える。
「……っ!〈蹄刻・轟掌蹄〉!」
瞬間、術式の代償が腕を裂く。
肉が捩れ、骨が軋むが、それでも拳は止まらなかった。
振り抜かれた拳がエリスを打ち上げ、少女は空へと舞う。
(7、6、5、4……)
空を切る風の音。
耳の奥で脈打つ血の音が重なる。
目下に広がる戦場。
瓦礫、血、焦げ跡、そして――。
さっき別れたはずのいちごスムージーと、目が合った。気がした。
(3、2、1……)
エリスはわずかに笑う。
ふう、と息を吐き、両手を広げる。
全身の血が、呼応するように駆け巡る。
(0――)
視線が、地上の少女へと向かう。
詠唱、完了。
ライラの背後に、空間を揺らがせる魔法陣が展開する。
地と空に重なる赤い幾何学。
絡み合う歯車。奔流する熱。
「――炎の化身。地の底依り顕現し、世の悉くを、焼き尽くさん。滅せよ。奥義・第六環――〈灰より出ずる魔王の手〉!」
放たれた炎は、天を貫いた。
広場が紅蓮に包まれる――と思いきや、熱線はそのまま空へ。
「バカめ、どこを狙って……っ!」
轟音と共に空が裂けた。
黒雲を突き破り、雲にぽっかりと開いた穴。
まるで焼きたてのドーナツのように、そこから鮮やかな月光が降り注ぐ。
そして――そこに、いた。
血と雨に濡れたドレス。乱れたボブカット。
傷だらけの少女――だが、その笑みはまるで、無邪気な子供のようだった。
手に灯るのは、赤い螺旋の光。
その中心で、少女は口を開く。
「〈血式・――」
血が唸る。
内部から圧縮され、一本の螺旋へと形を変える。
重力すら跳ね返すかのように、赤い光が凝縮されていく。
「紅焔槍〉!」
笑う少女の声が戦場に響いた。
「……つ!〈蹄刻・冥轟堅殻〉!」
バフォメルは反射で術式を展開する。
だがその防壁は、赤い螺旋に食い破られていき――。
そして――。
爆ぜた。
一拍の間。
直後、轟音が広場を揺らし、爆風が石畳を削る。
吹き飛ぶ瓦礫。千切れる提灯。焼け焦げた鉄骨の軋む音。
世界が、真紅に染まった。
……やがて、静寂。
緋の光と月光の交差する中心に、二人の少女が立っていた。
吸血鬼と魔女――命を賭けた一分間の果てに、勝者だけが、そこにいた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
夜明け前の仮設医療テント。
消毒液と鉄の匂いが薄明の空気に混じり、静かな余熱のように漂っていた。
簡素なベッドに横たわるのは、全身を泥と血に染めた少女――エリス。
傷そのものはもう塞がっていたが、細い腕には輸血チューブが繋がれたままだ。
「うえぇ……頭痛い……吐き気もするぅ……」
苦悶とも甘えともつかない声が、天井に向けて漏れる。
それはどこか芝居がかった響きを持っていたが、疲労の濁りは隠せていなかった。
「雑魚相手にも血式を使いすぎなのよ。まったく……」
ベッド脇の椅子に腰かけたライラが、わざと聞こえるようにため息をつく。
「あなたが直接血を飲んでくれたら楽なのに」
「いーやーだー。おいしくないんだもん」
エリスはぷくっと頬を膨らませて、ふてくされたように顔を背けた。
ピーマンでも出されたかのような反応に、ライラは肩をすくめる。
「血を飲むのが嫌いな吸血鬼って、どうなのよ……」
でも、そこに咎める色はなかった。
ただ二人の間に、戦いを終えた者にしか交わせない、微かな笑いがこぼれる。
そのタイミングで、テントの幕がそっとめくられた。
「失礼」
現れたのは、壮年の警官。
鋭くも疲れた眼差しに、深い皺を刻んだ顔が、夜通しの現場を物語っていた。
「29番区治安維持科のケイジです。まずは――〈灰色街道〉の鎮圧と、“羊王”バフォメルの討伐、ありがとうございました」
腰を軽く折り、丁寧に一礼する。
エリスは顔だけそらし、ライラが応える。
「あなたがたの到着も早かったですね」
「……ええ。最初から“その可能性”も見ていましたから」
ケイジの言葉が、ほんのわずかだけ低くなる。
「実は、先日終式兵装の護送車が襲撃されまして。その中に、バフォメルの姿があったという報告が上がっています」
「終式兵装……」
ライラが小さく呟き、顎に手をやる。
「彼らがその兵装を使っていたような兆候、何か心当たりは?」
「……ありません。彼の力は別のものです」
ライラは首を振る。
エリスは何も言わず、ふにゃりと寝返りを打つと、毛布を頭まですっぽりかぶった。
ケイジはその様子にちらりと目をやり、ほんのわずかに表情を和らげる。
「……調査協力、感謝します。あとは我々で処理します。お連れの方も、お疲れのようですから」
それだけ言い残し、ケイジは静かにテントを後にした。
静かになるテント。
ライラが隣のベッドに目をやると、毛布の中から小さな寝言が漏れていた。
「……いちごスムージーちゃん……あいたかったよお~むにゃ……」
ライラは思わず苦笑する。
「……たまには、ご褒美でも用意してあげようかしらね」
医療器具の音も止み、テントの中に柔らかな光が差し込んだ。
朝日と月光が交わる境界で、ほんのり甘い、いちごの香りが漂っていた。
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tips:ライラ
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魔女。エリスの相棒にして常識担当。
見た目は物静かでも、戦場では口も魔法も容赦なし。
エリスの暴走を止めたり、フォローしたり、ダメ出ししたり、もはや保護者枠。
好きな飲み物はブラックコーヒー(甘いのはエリスに任せてる)。
「血は飲まない、でも血で戦う。ほんと、ややこしい子よね」
読んでいただきありがとうございます。
楽しんでいただけましたら幸いです。