第1話「血と炎といちごスムージー」
『――続いて天気予報です。今夜二十二時以降、雨の予報となっております。お帰りの際は傘をお忘れなく』
屋台から立ち上る甘辛い醤油の匂いが、炙られた皮の脂と混ざり合い、湿り気を帯びた夜気に溶け込んでゆく。
軒先の柱に括りつけられた小型のブラウン管テレビがぱちりと点灯し、青白い光をぼんやりと振りまいていた。
アナウンサーの乾いた声が、雨に濡れる前の待ちに淡く響く。
焼き台の前を、しなる灰色の尾が掠めていく。
煙の向こう、鋭くとがった獣耳がピクリと動いた。
鼻を鳴らし、牙の隙間から湯気を漏らすのは狼頭の男。
獣の相を持ちながらまるで人のように、静かに口を開く。
「一本、焼き立てで」
低く落とした声と共に、爪の先で弾いた硬貨がカランと音を立ててカウンターに転がる。
屋台主は慣れた手つきで串を差し出すと、男は肉厚の串を咥え夜霧の奥へと消えた。
魔と獣と人が混ざり合うこの街では、それもまた日常の風景だ。
屋台の隅、軒下に設けられたカウンターの端に小さな背中が1つ。
少女が椅子に腰掛け、しなびたメニュー表をぱらぱらとめくっていた。
深紅の瞳が氷越しにきらりと光り、白金のショートボブが肩先で揺れる。
夜気を吸った黒のドレスが、足元で重たく垂れていた。
「ライラ、これ見て!特製いちごかき氷、今だけ50%増量だって。僕、これ食べたい!」
嬉々としてメニュー表を指さす声。
隣の椅子が小さくきしみ、ふわりと影が揺れる。
現れたのは、長い黒と白のメッシュ髪。
袖口の広い純白のドレスが滑らかに動き、銀縁の丸眼鏡の奥から琥珀色の瞳が周囲を淡く見渡した。
ライラと呼ばれたその少女は、眉をひそめてため息をつく。
「今は犯罪組織〈灰色街道〉の討伐依頼中よ。エリスのせいで今日の収穫はゼロ。『屋台巡りしていました』なんて報告できるとでも思ってる?」
「敵を知り、己を知ればなんとやら。連中が普段食べているものを把握しておけば、僕らが優位に立てるって寸法。つまりこれも立派な調査!」
赤眼の少女――エリスが胸を張る。
平坦な胸が、誇らしげに膨らませる空気に逆らうかのようだった。
「……いつも食べてるものばかり注文しておいて、何を言っているのよ。」
ライラは背もたれに身を預け、くたびれた新聞の紙面を指で叩く。
そこに写るのは、瓦礫と化した商店街と、泣き崩れる親子。
「〈灰色街道〉はこの近くにいる。今夜取り逃せば、他のギルドに報酬もってかれるわ」
「……その新聞を読んで出てくる感想がお金の心配だなんて、僕の相方も人でなしだなぁ」
軽口を投げ合う二人の背中に、風が一筋通り抜ける。
空気がわずかに張りつめ、膜のように揺れた。
「今日は雨らしいし、なるべく出かけたく――」
エリスの言葉が着地するより早く、通りの先で鋼鉄が火花をまき散らした。
爆ぜた光が夜を白く染め、ひっくり返った鉄鍋の中から、油と肉の焼ける音が跳ね上がる。
その直後、夜に溶けていた人波の奥から、鋭い悲鳴が1つ。
遅れて飛び交う叫び声、逃げ惑う足音。歓楽の街を包んでいた賑わいが一拍で崩れた。
焦げた鉄と血の匂いが、夜の甘さを押し流していく。
「……出てきたようね」
ライラは立ち上がり、眼鏡の奥で琥珀色の視線を鋭く光らせる。
袖口を払うようにしてドレスの裾を整えると、ふわりと髪をなびかせる。
「ほら、休憩は終わり。行くわよ」
「ええ〜っ!?いちごスムージー、まだ飲んでる途中なのに……」
エリスは肩を落とし、半分以上残ったグラスを見つめる。
「さようなら、愛しのいちごスムージーちゃん……」
その別れの言葉は、喧噪にかき消されていった。
「速報です。許可されていない終式兵装が、29番区にて確認されました。付近の住民の方は灰色の外骨格を見かけましたら――」
屋台の灯りがふっと消え、テレビの青白い光だけが、ゆがんだ街角をぼんやりと照らしていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
広場には硝煙が立ちこめていた。
空気は熱を孕み、焼けた鉄と血の混ざった匂いが肺の奥まで刺さる。
崩れた屋台の残骸、割れた楽器、ちぎれた幕。
さっきまで笑いと音楽であふれていた通りは、今や悲鳴と銃声の渦だった。
「な、なんなんだよお前ら!」
若い男の叫びが空気を裂く。
血で濡れた瞼の奥、焦点の合わない視線が煙の多くをさまよっていた。
その向こう、煙の奥から現れたのは、灰色の装束に身を包んだ獣人の一団だ。
「俺たちは〈灰色街道〉。名前くらい、聞いたことがあるだろう?」
サイの頭をした大男が笑うと、群衆がざわめいた。
「〈灰色街道〉だって……?!」
「商店街襲撃から三日しか経ってないぞ……!」
それまで静観していたやじ馬も、一団の名前を聞いて一目散に逃げ始める。
サイ男はあたりを見渡して低くつぶやいた。
「……チッ、うるせえ奴らだ。おい、始末しろ。全員、だ」
命令と同時に、前衛の狼獣人が舌なめずりをしながら踏み出した。
肩幅の広い鎧の隙間から覗く毛皮が、風に逆立つ。
「へっへ、やっと俺様・喰骨の出番か。最初の生首は俺がもらうぜ!脳漿ぶちまけて派手に叫べよォ!」
濁声とともに狼獣人が突撃する。
鉄斧が唸りを上げて振り下ろされる――その瞬間。
破裂音が、空気を裂いた。
赤い閃光が狼獣人の額を貫き、刹那に頭部が吹き飛ぶ。
脳漿と骨片が音もなく宙を舞い、制御を失った巨体は血飛沫を撒きつつ地面を滑った。
コンクリートへ長い赤線を引いたまま、動きが止まる。
「……い、今の……なんだ……!?」
「誰かが、やったのか……?」
人々の動きが止まり、恐怖と混乱の中に沈黙が走る。
茫然とする人々のあいだに、ゆっくりと歩を進める影が2つ。
異様な空気が波紋のように広がり、喧騒が一拍、沈黙する。
「……もう。手加減しなさいって言ったでしょう、頭ごと吹き飛ばすなんて」
少女の声が、ひときわ冷たく空気を裂いた。
場違いなほど静謐な響きに、人々の視線が無意識に引き寄せられる。
「なにを〜? 頭だけで済ませたんだから、むしろ感謝されるべきだと思うんだけどなあ」
とぼけた口調が返る。
血濡れた瓦礫の只中、まるで舞踏会に現れたかのように優雅な足取りで歩み出たのは、先ほど屋台にいた二人の少女――ライラとエリス。
「あいつらが〈灰色街道〉、依頼対象よ。生け捕りにすれば報酬が倍になる。だから殺しすぎないようにって言ってるの」
「はぁい、善処しますよっと」
気の抜けた返答に、ライラは肩を落とす。
ひとつ深いため息を吐くと、静かに杖を構えた。
「さて、無駄な怪我をしたくないなら、大人しく武器を捨てて投降しなさい」
口元に微笑を浮かべながら、彼女は周囲をゆるく見渡す。
眼鏡の奥の瞳が冷たく光を反射した。
「二十……三十人はいるかしら。全員捕まえたら、いったい幾らになるのかしらね。考えるだけで楽しいわ」
軽い口調に、群れの奥でサイ男が鉈を肩にかけ、不快に鼻を鳴らす。
街灯にかすった刃が鈍い光を弾く。
「……てめぇら、俺たちが〈灰色街道〉だってわかってて、舐めた口きいてんのか?」
「そんな熱い視線を送られると照れるなぁ。でも残念、君たちは好みじゃないからさ、気持ちはうれしいんだけど……ごめんね」
エリスが肩をすくめ、芝居がかった仕草で手を振る。
舞台上の役者のように、わざとらしく、優雅に。
「なめくさりやがって……!」
「ガキが……調子に乗るんじゃねえ!」
怒声とともに、一斉に武器が抜かれる。
棍棒、ナイフ、鉤爪、そして魔力を帯びた火砲。
血の匂いと鉄の殺気が通りを満たし、息苦しいほどに張り詰めた。
そんな中、エリスは小さく息を吐くと、ぼそりと呟いた。
「うるさいなぁ。静かにしてよね」
そう言うや、彼女は自らの指先に歯を立てた。
薄く裂けた肌から落ちた雫が空中で震え、鋭利な弾丸へと変わった。
一条の閃光。
赤い弾丸が唸りを上げて走り、三人の胸元を正確に貫いた。
「ひ……ッ!」
「速すぎる、見えねぇ……!」
叫びとともに血が噴き、倒れた獣人たちの躯が地面に転がる。
鮮血が石畳を濡らし、黒い斑点が次々と広がっていく。
一人、痩身の豹獣人だけがかろうじて血弾を避けた。
肉体をしならせて跳躍し、音もなくエリスの懐へ飛び込む。
「こっちは早さが売りでな」
牙を剥き、拳を構えた瞬間。
「ざーんねん」
声と共に、赤の閃光がもう一度走る。
だが今度は、細く鋭く、槍の形をしていた。
血槍は獣人の脇腹を斜めに貫き、その勢いのまま体を上下に切断した。
切り裂かれた肉と骨がずるりと音を立てて崩れ落ちる。
「……血の弾丸に、今度は血の槍……!まさか、吸血鬼……なのか……?」
呻くように呟いた獣人に、エリスはぱちぱちと拍手を贈る。
「正解。おめでとう。そんなあなたには、この槍をプレゼント」
冗談めかして言いながら、彼女は槍を構え直し、再び駆け出す。
赤い影が石畳を滑るたび、獣人たちの身体が宙を舞い、断末魔が夜を切り裂く。
脇腹、喉元、膝裏。要所を正確に突かれた獣人たちが次々と倒れ、気がつけば通りの半分以上が血に沈んでいた。
「これで何人目だっけ……まあ、いっか」
エリスは槍をくるりと回し、血まみれのまま肩へ担ぐ。
口元に浮かぶ笑みはあどけなく、それゆえに異様なほど冷たかった。
「……エリス。殺しすぎ」
張りつめた空気を裂くように、低く冷ややかな声が飛ぶ。
煙の向こう、杖を構えたライラが眉間に皺を寄せたまま歩み出た。
「生け捕りにしろって言ったでしょう? 全然、聞いてないじゃない」
「いやぁ、つい勢いで……だって、みんな脆いんだもん」
血槍を肩に担いだまま、エリスは悪びれる様子もなく笑う。
その無邪気さに、ライラは深く息を吐き、肩を軽くすくめると杖先を振った。
「仕方ないわね。じゃあ――見本を見せてあげる」
その言葉を合図に、空気がじわりと熱を孕む。
ライラの口元から、静かに詠唱が紡がれた。
「焔纏う魔の鎖……第三環、〈焦鎖の誓環〉」
空気が熱を帯び、地面に赤い魔法陣が浮かび上がる。
歯車のような模様とルーンが、円環を描きながら回転。
地面が光の圧に軋んだ。
次の瞬間、その中心から灼熱の鎖が炎を纏って奔り出る。
残った獣人たちの四肢へと瞬時に絡みつき、引き裂くような熱を注ぎ込む。
「ぐあッ、熱ッ……あつッ!」
「暴れないで。骨まで焼かれるわよ」
焼ける肉の匂いが広場に充満し、悲鳴が渦を巻く。
だがライラの声音は一貫して冷ややかだった。
煙の奥で、誰かが息を呑む音がした。
「……魔術兵装なしで魔術を……?」
「人間は魔術が使えないはず……まさか、魔女……!?」
「こんな規模の術を連発できるなんて……あの吸血鬼といい、いったい何者だ……ッ」
狼狽と恐怖が混ざり合い、獣人たちの表情が次々と歪む。
果敢に突撃してきた者は鮮血と共に倒れ、逃げ出そうとした背には逃さず鎖が巻きついた。
瓦礫が散らばる広場は、赤黒く焦げた血と、魔術の炎で染め上げられていく。
そしてあたりが静まり返るころには、立っている者は二人だけだった。
「さて、これでほぼ片付いたかな……」
辺りを見渡したエリスが、火傷痕の残る獣人たちを眺めてやや眉をひそめた。
「……って、ライラ。それ、ちょっと焼きすぎじゃない?」
その問いかけに、ライラは平然と肩をすくめて返す。
「手加減してるでしょ。死んでないし」
「うーん……“生け捕り”っていうか、“焼き止まり”って感じがする……」
苦笑まじりに言うエリスに対し、ライラは片眉をわずかに上げ、冷淡な視線で返す。
「生け捕りにすらならなかったあなたよりは、まだマシじゃない?」
「む……たしかに反論しづらい……っ」
軽妙なやり取りが交わされる中、彼女たちの背後――焼け焦げた瓦礫の陰で、獣人のひとりが身をよじらせた。
炎に焼かれた皮膚が裂け、呻き声が漏れる。
「……お前ら……もう……終わりだ……!」
しわがれた声。
喉奥から絞り出されたその言葉は、かすれてなお明瞭に響き、二人の耳に届く。
エリスとライラが同時に顔を見合わせた。その名が、獣人の口から紡がれる。
「……バフォメル様……!」
次の瞬間だった。
空を裂くような轟音とともに、何か巨大な質量が獣人の真上へと落下した。
潰れた肉が鈍く破裂し、地面へと鮮血が飛び散る。
広場の空気が一変する。
「ほう、吸血鬼とは。珍しい存在が現れたものだ……。」
夜気を震わせる重く低い声。
その声音は、まるで地の底から響きあがるようだった。
煙が裂け、ゆっくりと現れた巨影。
灰色のコートを身にまとい、全身が獣とも人ともつかぬ異形に歪められた男。
露出した肋骨は金属のように硬質で隆起し、胸郭を不気味に蠢かせていた。
頭頂から生えた羊角が二重螺旋を描き、街灯の灯りを鈍く反射する。
「……エリス。まだいける?」
ライラの問いに、エリスは一瞬だけ目を細めた。
口調は相変わらずのんびりしているが、その手は無意識に槍を握り直している。
「んー、ちょっとフラつくかも。さっき血を使いすぎた」
「……あまり無茶はしないように。こいつは、これまでの雑魚とは違う」
ライラの声がわずかに低くなった。
その声音に、エリスの表情も引き締まる。
ふざけた笑みが影を潜め、瞳の奥が静かに赤く揺れた。
湿り気を帯びた風が吹き抜ける。
熱を残した血の匂いと共に、空気がじわじわと重くなっていく。
獣人の遺体を踏み潰しながら、重い足音が広場を支配する。
一歩踏み出すたび、石畳にヒビが走った。
空気が、まるで重力を増したように沈む。
「〈灰色街道〉――群長、バフォメル。……参る」
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tips:エリス
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吸血鬼。200歳オーバーの超ベテランだが、見た目は17歳。
いちごを信仰しており、血よりスムージー派。
戦闘スタイルは苛烈かつ直感的、口調も雑だが、実は頭は悪くない……はず。
「血よりいちごジュースのほうが美味しいよ(ガチ)」
読んでいただきありがとうございます。
楽しんでいただけましたら幸いです。