変化
神話学の教室。
ミリエルは教壇に立ち、眼下の生徒たちを見下ろしていた。
窓の外からは明るい陽射しが差し込み、真新しい机の上で、暖かな光の斑をいくつも作っている。
最初の授業の盛況ぶりに比べると、生徒の数はめっきりと減っていた。
南方の農業領の貴族たちが、意図して王室と距離を置こうとしている。
ぽっかりと空いた席が、その無言の証だった。
だが、そんなことはどうでもいい。
ミリエルの視線は、気の抜けた顔の生徒たちを通り過ぎる。
そして、最前列でノートを広げ、真剣な眼差しを向ける黒髪の少女に、ぴたりと注がれた。
シミアだ。顔色がずいぶん良くなったようで、ミリエルは心の底から安堵した。
視線をわずかに動かす。その隣にいるトリンドルへ。
いつものようにシミアにべったり、というわけではない。ただ静かに座っているだけ。
だが、その瞳に宿る警戒心、佇まいに滲む不安は、以前よりもずっと強い。
――王宮で本心を明かした女王は、本当に約束を守るのか?
そんな問いが聞こえてくるようだ。
ミリエルの視線に気づいたのか、トリンドルが顔を上げた。
海のように青いその瞳に、以前のような敵意はない。
警戒と、確認。そんな感情が入り混じった、複雑で、静かな眼差し。
二人の視線が、無言の会話を交わすように交差する。
やがて、トリンドルが小さく頷いた。
脆い同盟に対する、無言の肯定だった。
ミリエルは心得たとばかりに微笑み、準備していた講義ノートを開いた。
「前回の授業では、神話の起源について学びました。今日は、物語そのものに立ち返りましょう。テーマは――上古の十一英雄」
シミアが、さっと羽ペンを手に取り、ノートに見出しを書きつける。
「では、どなたか。十一英雄の名を挙げてみてくださるかしら? まずは……輝煌帝国で伝わっているバージョンから」
ミリエルは教室をぐるりと見渡し、やがて、〝何気なく〟金髪の少女に視線を止めた。
「トリンドルさん、お願いできるかしら?」
一瞬、きょとんとした顔。
だが、トリンドルはすぐに胸を張り、誇らしげに立ち上がった。
「護国公アラリック、貴女リナ、人民の盾ガラン、家郷の守り手ヴォルグ、隠者メルリヌス、修道女エララ、工匠ヘパイストス、笑み狐レナード、騎士ブランドン、救済者ヘクトル、そして……平和の創造者カッシア」
「完璧な回答ですわ」
ミリエルは微笑み、ぱちぱちと小さく拍手をした。
「エグモント家のお抱え教師は、〝聖約信仰〟の、熱心な擁護者というわけですね。……ですが」
そこで、言葉を切る。
視線を、教室全体へと向けた。
「ここにいる皆さんの多くは、また別のバージョンを耳にしているはずですわね?」
ミリエルは本を置き、一拍おいてから、ゆっくりと口を開いた。
「永劫烈陽帝国の〝昇陽教義〟においては、英雄たちの序列は全く異なります。彼らにとっての至高の英雄は、〝太陽王〟アラリック。完璧にして、絶対の君主です。そして彼を補佐するのが、国家の法を象徴する〝宰相〟ネストルと、国家の意志を象徴する〝将軍〟リナ」
「そして、輝煌帝国で〝家郷の守り手〟と称えられるヴォルグは」
ミリエルは、トリンドルをちらりと見る。その視線には、明確な意図が込められていた。
「彼らの神話では、序列最下位の〝無縛の怒り〟となる。――制御不能な、国家によって調教されるべき、危険な暴徒の寓話として」
シミアのペン先が、紙の上を滑るのが見えた。
ミリエルの瞳に、満足の色が、一瞬だけ、きらりと光る。
「シミアさん、何か思うところはありますか?」
シミアは立ち上がり、静かに口を開いた。
「はい。……その二つの序列は、それぞれの国が、自分たちの立場にとって都合のいいように、英雄たちの〝価値〟を再定義したもの……だと思います。統治に有利なものは序列を上げ、不利なものは貶める、と」
「とても鋭い視点ですわ。お座りなさい」
シミアが着席するのを待ってから、ミリエルは言葉を続けた。
「ええ。シミアさんの言う通り、それは表層の真実です。私たちが知る英雄の〝序列〟は、決して不変の歴史などではない。それは単なる統治者の意志というより、もっと大きな、宗教的な要請から生まれたもの。英雄を崇拝する民衆の心理を利用し、神話に被せられた、現代に奉仕するための衣なのです」
「ですが」
ミリエルは、そこで再び言葉を切った。
より深い問いを、投げかける。
「もう一歩、遡って考えてみましょう。英雄たちの物語が史実だとして、我々の祖先は、なぜそれを単なる記録ではなく、〝神話〟という形式で語り継ぐことを選んだのでしょうか? その背後には、もっと深い目的が隠されているとは、考えられませんか?」
生徒たちの顔に、思考の色が浮かび始める。
その様子を確かめながら、ミリエルの視線はシミアの上を通り過ぎ、再び教壇からの眺めへと戻った。
「文字も、紙もなかった時代。神話とは、我々の祖先が知識を継承するための、唯一の教科書だったのです。英雄の一人ひとりが、生き残るために不可欠な、知恵や技術を象徴していました」
「アラリックは〝団結〟を。天災たる巨獣に抗うには、団結するしかなかったから。工匠ヴァルカンは〝技術〟を。道具の創造こそ、文明の礎だから。軍医エララは〝知識〟を。知識によって、死の恐怖を克服できる証として。十一の物語が、我々の文明が生き長らえるための、最初の知識体系を形作っていたのです」
「いわゆる〝序列〟なんて、後の宗教や王権が、〝どの知識がより高貴か〟〝どの徳がより尊いか〟を民衆に示すため、無理矢理にはめ込んだ枷に過ぎませんわ」
シミアが、宝物でも見つけたかのように、ミリエルの革命的な理論を夢中で書き留めている。
「しかし……」
ミリエルの声のトーンが、また変わる。
どこか、神秘的な響きを帯びた。
「あるいは、根本的な矛盾は、後世の解釈にあるのではないのかもしれません。神話そのものが、ある知られざる真実を、覆い隠しているのだとしたら……?」
ちょうどその時、授業の終わりを告げる鐘が鳴り響いた。
ミリエルは教案をまとめ、最後に、まだ俯いて考え込んでいる黒髪の少女に、深く、静かな一瞥を送り、教室を出ようとした。
その時だった。
シミアが立ち上がり、ミリエルの前まで歩み寄ってきた。
「ローレンス先生。一つ、神話学とは関係のない質問を、よろしいでしょうか?」
ミリエルは頷いた。
「先生が授業中にお使いになった魔法についてです。……どうすれば、教室の別々の場所で、同時に、違う効果を発動させることができるのでしょうか?」
いつの間にか、トリンドルも教科書を片付け、シミアの後ろに立っていた。
無表情のまま、ミリエルと視線を合わせている。
「その問いにお答えしても、よろしくてよ」
ミリエルは、知識を渇望するシミアの、澄んだ瞳を見つめて、ふと思った。
「ですが、私からも一つ、お願いがあるのだけれど、構いませんか?」
シミアは、少しだけ驚いた顔をした。
「え……はい、もちろんです」
「今日から、あなたが外出する際は、王室の近衛兵を護衛につけなさい。この前のようなことが、二度と起こらないようにするためです」
その条件に、シミアはシャルの言葉を思い出していた。
女王自らが寮の部屋を訪れ、傷の手当てをしてくれた、という話。
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がる。
「……わかりました」
「答えは、簡単ですわ。魔法の発動は、〝同時〟である必要はない。〝順序〟があればいい。あなたたちが気づかないほどの短い時間で、あらかじめ術を配置しておけばいいのです。誰も魔法を一つ準備しながら、同時にもう一つを準備することなどできません。ほとんどの人は、複数の魔法を支える魔力も持っていないでしょう。……この点については、トリンドルさんも理解できるはずですが」
ミリエルはそう言うと、意味ありげにトリンドルを一瞥した。
トリンドルの瞳に、驚きが走る。
だが、すぐにその唐突な〝好意〟の意味を察したのだろう。
口の端に、複雑な笑みが浮かんだ。
「ありがとうございます、ローレンス先生」
シミアが、感謝を込めて、ミリエルに深く頭を下げた。
すっと、トリンドルが前に出る。
そして、ごく自然に、シミアの隣に立った。
その親密な様子は、いつもと何も変わらない。
ミリエルは、その光景を見ていた。
二人だけの、自分には決して踏み込めない、小さな世界。
その瞳に宿っていた、聡明で、強い光が、ふっと翳る。
それ以上は何も言わず、分厚い教案を抱え、くるりと背を向けた。
陽光に向かっていくはずのその背中は、どこか頼りなく、寂しげに見えた。