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ゼロから始める軍神少女  作者:
第二巻 初対決
96/130

二人だけの密約

トリンドルは、独り。

だだっ広い王宮の廊下を、こつ、こつ、とヒールの音を響かせて歩く。

磨き上げられた大理石の床が、その姿を鏡のように映し出す。

壁に描かれた、古の十一英雄の偉業を描いた壁画が、次々と後ろへと流れていった。

ふと、その一枚に、目が留まる。

護国公アラリックを中心に英雄たちが団結し、巨獣と死闘を繰り広げる、勇壮な絵だ。


(アラリック……ね)

トリンドルの口元に、気づかれぬほどの、冷たい笑みが浮かんだ。

(それに比べて、今の女王様は……。ローレンス王国の未来も、思いやられるわね)


女王の寝室の前に、ぴたりと足を止める。

両脇に控えていた衛兵が、その姿を認めるなり、だらけきっていた姿勢を慌てて正した。

「ミリエルに伝えて。トリンドル・エグモントが来た、と」


「――お入りなさい」


衛兵が取り次ぐより早く、冷たく澄んだ声が、扉の向こうから直接響いた。

トリンドルは、扉を押し開ける。

途端、むわりと、不自然なまでに濃厚な紅茶の香りが、鼻腔を支配した。

(……っ!)

脳裏に、あの日の記憶が、鮮烈に蘇る。

シミアの口から香った、同じ匂いが。


部屋の中では、ミリエルが独り、ソファに腰掛け、優雅に紅茶を口に含んでいた。

まるで、罠の網を張り終え、獲物がかかるのを悠然と待つ、蜘蛛のように。

トリンドルが部屋に足を踏み入れた瞬間、背後で、カチャリ、と音を立てて扉が閉まった。

はっと振り返るが、そこに衛兵の姿はない。

冷や汗が、背筋をすっと伝った。

振り返ると、ミリエルの銀色の瞳が、満足げな笑みを浮かべて、こちらを見つめている。

――全ては、彼女の計算通り。

トリンドルは、それを悟った。

ぎゅっと、目を閉じる。

脳裏に浮かぶのは、苦痛に歪む、シミアの白い顔。


(やるべきことは、もう決まってる)


トリンドルは、ミリエルの向かいのソファへと進み、どかりと、遠慮なく腰を下ろした。


「あら?私に会いに来て、臣下としての最低限の礼儀も、お忘れになったのかしら?」

ミリエルの顔に、からかうような笑みが浮かぶ。

その、人形のように完璧な顔立ちを見ていると、トリンドルの胸の奥から、得体の知れない怒りが込み上げてきた。

「その芝居、やめてくれないかしら!あんたがあたしを呼んだのは、お辞儀をさせるためじゃないでしょ!」


ミリエルは、ティーカップを置いた。その瞳から、すっと温度が消える。

「シミアを、王宮へ移しなさい。シャルを説得するのは、あなたの役目です」

有無を言わせぬ、命令口調。

目の前の少女が、この国の、正真正銘の女王なのだと、トリンドルは改めて思い知らされた。

「あなた、普段シミアにも、そんな口の利き方をしてるの?今のあんたの顔、あの子に見せてやりたいわ」

「シミアはシミア。あなたはあなたよ、トリンドル・エグモント」

ミリエルの、見下すような冷たい視線。

その瞬間、部屋の空気が、凍りついたかのようだ。

どこからか吹き込んできた風が、トリンドルの額にかかった髪を、ふわりと揺らした。


「神話学の授業でのお芝居は、もう終わりかしら、ローレンス先生?」

トリンドルの詰問に、ミリエルの顔に、一瞬だけ驚きの色が浮かんだ。

だが、彼女はすぐに、ぱちん、と指を鳴らす。

冷たい風が、ぴたりと止んだ。

「それで、あなたの答えは?」

「いやよ!」

トリンドルは、ためらわなかった。きっぱりと、拒絶する。

「あんたの言うことなんて、聞かないわ」

「どうして?私に逆らって、あなたに何の得があるというの?」

「シミアを……あたしの大切な騎士様を、あんたみたいな女の手に、渡せるもんですか」

「私は、彼女の傷を癒したいだけ。コーナが、王国で一番の治癒師であることは、あなたもご存知でしょう?」

その、いかにも「理に適っている」という顔。

トリンドルの頭に浮かんだのは、「嘘」の一文字だけだった。

これ以上、この女の茶番に付き合うのは、無意味だ。

ミリエルが自分をこの密室に一人で呼んだのは、自分がなぜ彼女に反発するのか、その真意を知るためだ。

ならば、教えてやればいい。


「言いたいことがあるなら、何でもどうぞ」

ミリエルは、こちらの心を見透かしたように、ソファに深くもたれかかり、聞く姿勢を取った。


「あんた」

トリンドルは、一言一句、氷の礫を叩きつけるように、言った。

「シミアに薬を盛ったでしょう?それも、永遠烈陽帝国の、禁制品を」


ミリエルの瞳から、余裕の笑みが、凍りついたように消えた。


「あの日、あたしはシミアと約束して、彼女の部屋で、一晩中待ってた。次の日、戻ってきた彼女は……」

「黙りなさい!何を根拠に、私を侮辱するのです!」

ミリエルの声が、怒りで甲高くなる。

だが、その狼狽した反応こそが、トリンドルの推測を裏付けていた。

ミリエルの体が、僅かに後ろに引かれている。その瞳が、隠しきれない動揺に揺れていた。

トリンドルは立ち上がり、一歩前に出る。

そして、自分の本当の想いを、抜き身の剣のように、相手の、最も柔らかい腹部へと、深く突き立てた。


「どうしてあの子に薬を!?拒絶されるのが怖かったから!?分かってるわよ、あんたはシミアを、ペットみたいに、自分の籠の中に閉じ込めておきたいだけなんでしょ!」


「ペット」という言葉が、黒い稲妻となって、ミリエルの脳天を直撃した。

仮面のように貼り付けられていた表情が、完全に崩れ落ちる。

そこにあったのは、ただ、射抜かれたような、純粋な恐怖だけだった。


「ち……違う!マルちゃん……私は……」

人形のように精巧な顔から、涙が、ぽろぽろと零れ落ちる。

「私はただ……守りたかっただけ……ただ……あなたに、見捨てられるのが、怖くて……」

ミリエルは自分の頭を抱え、その顔を、深く両膝の間に埋めた。

まるで、自分自身を、全世界から隔離するかのように。


その、完全に崩壊した女王の姿を見て、トリンドルは、信じられないという顔で、ごしごしと自分の目を擦った。

「……何よ、あんた……変なの」

だが、その言葉は、ミリエルの世界には届いていないようだった。

高慢な女王は、ただひたすらに、自分自身の懺悔の中に、沈んでいく。

そして、トリンドルには聞き慣れない、「マルちゃん」という名前が、彼女の苛立ちを、妙に掻き立てた。


ゴロゴロ……ッ!


窓の外で、雷鳴が轟いた。

目の前の、狂った女王を見て、トリンドルの頭は、逆に、完全に冷静になっていた。

窓辺に歩み寄り、いつの間にか降り始めていた、しとしとと降る雨を眺める。

そして、窓を閉め、外界の喧騒を、遮断した。


「マルちゃん……シミア……違うの、私はただ……」

トリンドルはミリエルのそばへ行くと、その頭をぐいと引き上げ、そして、思いっきり、平手打ちを見舞った。


パシンッ!


乾いた音が、ミリエルの独り言を、断ち切った。

「あんたが勝手に発狂するのは構わないけど、あたしを巻き込まないでくれる!?」

ミリエルは、信じられないという顔で、目の前の、燃えるような瞳をした金髪の少女を見つめた。

……やがて、こくりと、小さく頷いた。


……


ミリエルは、毛布にくるまり、ソファの隅で縮こまっている。

二人の前には、新しく淹れ直された、湯気の立つ紅茶が置かれていた。

彼女は、震える手でカップを持ち上げ、おそるおそる、一口啜った。


「マルちゃん……は、昔飼っていた、ペットです」

全ての仮面を剥ぎ取られた、ただの、脆い少女の姿。

トリンドルの胸の内の怒りは、いつの間にか、消え失せていた。

「私は、シミアを失うわけにはいかない。彼女は特別。私の、戦友だから……」

「理解できないわ。それが、あの子に薬を盛った理由になるの?」

「違うの……私は、ただ……嫉妬して……」

ミリエルの声は、蚊の鳴くようにか細い。

「あなたは、いつでも、あの子のそばにいられる。でも、私が彼女と一緒にいようと思ったら、たとえ一日だけでも、それがどれだけ大変なことか、あなたには分からないでしょう?」

その、苦痛に満ちた、真摯な銀色の瞳を見て、トリンドルは、黙り込んだ。

「王都には、まだ刺客が潜んでいます。ミグ・ヴラドは、地下牢から、忽然と姿を消した。あの階層では、魔法は、無効のはずなのに」

トリンドルは、頷いた。

「実は、私……シミアの枕の下から、カシウスの手紙を……」

トリンドルは、手紙の内容を、かいつまんでミリエルに話した。

聞き終えたミリエルは、目を閉じた。

「どうあっても、シミアを失うわけには……」

「あんた、あたしが失ってもいいとでも思ってるわけ!?シミアは、あたしの騎士様よ!あの子が危険な目に遭うなんて、あたしが許すもんですか!」

「ごめんなさい……」

その、心からの謝罪に、トリンドルの喉元まで出かかった怒りの言葉が、すうっと、引っ込んでいった。

「……まあ、あんたのせいじゃないわよね。全部、あのいまいましい間諜、カシウスのせいなんだから」


沈黙が、再び、二人を支配した。

やがて、トリンドルが、口火を切った。

「ひとまず、休戦にしましょう」

彼女は、目の前のミリエルを、まっすぐに見据えた。その口調には、有無を言わせぬ響きがあった。

「今日ここで見たことは、誰にも言わない。その代わり、あんたも、もう二度とシミアを閉じ込めようなんて考えないこと。あの刺客を見つけ出すまで、あたしたちは、一緒に彼女を守る。いいわね?」

ミリエルは、素直に頷いた。

「でも!」

トリンドルの瞳に、再び、鋭い光が宿る。

「あんたと手を組むのは、あくまでシミアを守るため。あんたの、その狂った理由は理解できないし、シミアを、あんたに譲るつもりも、毛頭ないわ」

「……私も、です」


窓の外の雨が、次第に、小降りになっていく。

しとしとと降る雨が、庭の塵を洗い流していく。

そして、生まれたばかりの、この脆い同盟を、静かに、潤しているかのようだった。

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