病床前の言い争い
ベッドの傍らに、シャルは座っていた。
苦痛に眉をひそめるシミアの寝顔を、ただじっと見つめている。
自分を責める気持ちが、冷たい海水のように、シャルを飲み込んでいく。
「あの時、私が……シミア様にあんなことさえ言わなければ……」
そっと手を伸ばす。
枕に散らばったシミアの柔らかな黒髪を、指先で優しく撫でた。
伝わってくる温もりが、逆に骨身に染みるような寒さを感じさせる。
ぐっと唇を噛み締め、こみ上げてくる嗚咽を必死に堪えた。
「シャルのせいじゃない」
背後から、シメールの声がした。
いらいらと歩き回っていた足を止め、震えるシャルの肩に、そっと手を置く。
「たとえあそこじゃなくたって、敵はどこか別の場所で、必ず仕掛けてきたはずだ」
シメールの言うことは、頭では分かっている。
でも、あの光景が、どうしても脳裏から離れない。
自分を庇って、植木鉢に打たれたシミア。ぐしゃり、という鈍い音。
そして、みるみるうちに広がっていった、目に焼き付くような、鮮血の赤。
堪えていた涙が、ついに決壊した。
「カシウス……ッ!」
窓辺に立つトリンドルが、歯ぎしりしながら元凶の名を呟いた。
窓の外は、雨上がりの、眩しいくらいの青空だというのに。
その瞳には、全てを焼き尽くさんばかりの怒りの炎が燃え盛っていた。
こんなにいい天気なのに、私の騎士様は、ベッドの上で苦しんでいる。
「あの時、あたしの炎で、あいつを灰にしてやればよかったんだわ!」
部屋に、長い沈黙が落ちた。
シャルの押し殺した嗚咽。
トリンドルの憎悪に満ちた呟き。
シメールが歩き回るたびに響く、鞘と鎧が擦れる、冷たい金属音。
三者三様の絶望が、息の詰まるような重い空気を作り出していた。
その時だった。
廊下から、落ち着いた足音が響き、ドアの前でぴたりと止まった。
コン、コン、コン。
ノックの音は小さい。
だが、それは三人の心臓に、重い槌を三度、打ち込むかのようだった。
シャル、トリンドル、シメールは、顔を見合わせた。
二度目のノックで、シメールがすっと剣の柄に手をかける。
そして、警戒しながら、ドアを開けた。
そこに立っていたのは、眉をひそめた、女王ミリエルの精巧な顔立ちだった。
背後にはコーナが控え、ミリエルの肩越しに、室内の様子を窺っている。
「ローレンス殿下」
シメールは、浅く一礼した。
シャルが、はっと振り返る。
そこにいたのは、シミアと同じ、領主学院の制服を纏ったミリエルだった。
滝のような銀髪が、肩に流れている。
その視線は、部屋の誰をも通り越し、ベッドの上で眠るシミアの姿に、まっすぐに注がれていた。
隠しようもない焦燥と、憂いの色が、その瞳には浮かんでいる。
「え……?」
「礼は不要です」
ミリエルは足早に部屋へ入る。シャルのそばを通り過ぎる際、その肩をぽん、と軽く叩いた。
無言の慰めだった。
ふわりと、女王特有の、濃厚な紅茶の香りが、シャルの鼻腔を支配する。
ミリエルは、ためらうことなくベッドの傍らに腰掛けた。
すっと、白い手を差し伸べる。
その掌に、高速で回転する水の球が、瞬時に生まれた。
水球は、すぐに無数の水滴となって霧散する。
そして、まるで命を宿したかのように、シミアの服の隙間から体內へと潜り込み、その傷の状態を探り始めた。
「ちっ」
その光景を見て、トリンドルは不満げに舌打ちした。
コーナも部屋に入ってきた。
シャルはその顔に見覚えがある。シミアが最初に重傷を負った時、助けてくれたのは、この紫色の短髪の魔術師だった。
不安げなシャルと視線が合うと、コーナは、安心させるように、ふわりと微笑んだ。
しばらくして、水滴がシミアの体から飛び出し、再びミリエルの掌の上で一つの水球へと戻った。
ミリエルは額に滲んだ汗を拭うと、隣で警戒心を露わに見つめてくるトリンドルへと視線を向けた。
「見事な処置です。あなたがお医者様を?」
「ふん、治癒魔法が少し使えるからって、偉そうにしないでちょうだい。私たちエグモント家に、どんな人材がいないっていうのよ」
「ありがとうございます」
ミリエルの声は、どこまでも真摯だった。
「シミアを、間に合うように助けてくださって」
不意の礼に、トリンドルは虚を突かれた。
気まずそうに、ぷいっと顔を背ける。
「あたしは、あたしの騎士様を守っただけよ!勘違いしないでよね!」
「この状態では、いつ次の刺客が来てもおかしくありません」
ミリエルの表情が、再び険しくなる。
「シミアが目覚めるまで、王宮でお預かりします」
「王宮へですって!?」
トリンドルが、ずいっと一歩前に出る。燃え盛る怒りを宿した海色の瞳で、ミリエルを睨みつけた。
「何の権利があって!」
「王宮には、最高水準の警備があります。そして、コーナは一流の治癒師。彼女の早期回復を、保証できる」
「あたしだって、あたしの騎士様を守れるわ!私たちエグモント家なら、王国一のお医者様だって、シミアのために見つけてこれるんだから!」
「守る?」
ミリエルの口元に、冷たい弧が浮かんだ。
「玉石混交のこの学院で、どうやって?お忘れですか、敵は王宮の、あの最も深い地下牢でさえ、自由に出入りできるのですよ」
「だったら、あなたはどうやってシミアを守るっていうのよ!」
トリンドルの詰問が、巨大な錠剤のように、ミリエルの喉に詰まった。
視線を上げ、部屋にいる他の者たちと目が合う。一瞬、言葉に窮した。
「シミアのためを思うなら、分かるはずです」
あの日の光景が、不意にトリンドルの脳裏をよぎった。
薬の効果に苦しむシミアの、苦痛と陶酔の入り混じった表情が。
「シミアのためですって!?」
トリンドルの声が、怒りで甲高くなる。
「どの口が、そんなことを言うのよ!」
怒れるトリンドルを無視し、ミリエルはシャルへと視線を移した。
「シミアを、私に預けてはいただけませんか。必ず、すぐに目覚めさせると、お約束します」
ミリエルの真摯な眼差しに、シャルは戸惑った。無意識にシメールへと視線を送る。
シメールは、こくりと頷き、「あなたが決めていい」と目で伝えた。
その時、トリンドルが、シャルとミリエルの間に割って入った。
「シャルが頷くわけないでしょ!シミアは、あたしたちが守るんだから、お帰りなさい!」
「あなたに話しているのではありません、エグモント家のお嬢さん」
「何よ。ここで女王様ぶるつもり、ローレンス先生?」
「あの……」
おどおどとした、けれど、はっきりとした声が、トリンドルの背後から響いた。
シャルが、トリンドルの後ろから、そっと前に出た。
まず、ミリエルに深々と頭を下げる。
それから、泣き腫らした瞳で、けれど、揺るぎない決意を込めて、彼女をまっすぐに見つめた。
「女王様。今回、シミア様がこのようになられたのは、私をお庇いになったからです……ですから、どうか、シミア様が目覚めるまで、この私に、看病させてください。それが、私にできる……家族として、唯一のことですから」
シャルの答えに、ミリエルはしばし黙り込んだ。
だが、最後には、こくりと頷いた。
「……分かりました。もしお考えが変わったら、いつでもコーナを通して、ご連絡を」
彼女は振り返り、ベッドの上で眠る、気掛かりでならないその姿を、最後にもう一度、深く見つめた。
それから、踵を返し、足早に部屋を出ていく。
コーナも、室内の面々に一礼し、その後を追った。
ゆっくりと閉まっていくドアを見送り、トリンドルは、ようやく、ほっと安堵の息を漏らした。