灰の少女
痛い。
背中を、ぐさりと何かが貫いた。
そんな激痛が胸の内側で炸裂し、一瞬で意識のすべてを攫っていく。
――ちりちり。
頬を撫でる、そよ風の感触。
かゆい。
はっ、と息を吸い込む。
途端、骨灰のような乾いた焦げ臭い匂いが、容赦なく鼻腔へと流れ込んできた。
ごほっ、と咳き込む。
シミアは、目を見開いた。
目の前に広がるのは、死んだ、鉛色の空。
無数の灰が、しんしんと降り注いでいる。
まるで神が流す、悲嘆の涙のように。
その一粒一粒が、空中で、不気味な軌跡を描いていた。
(……ここは、どこ?)
――ひっく、ひっく。
風に乗って、か細い泣き声が聞こえる。
それは、見えざる針となって、シミアの魂の奥深くに、ちくりと突き刺さった。
絶望に満ちた、胸が張り裂けんばかりの少女の慟哭。
シミアは、ゆっくりと視線を下ろした。
遠く、灰が濃密に渦巻いている。
灰色の世界にできた、小さな嵐。
その中心に、泣き声の主がいる。
すっ、と立ち上がり、一歩を踏み出した。
……
近づくほど、泣き声は鮮明になっていく。
胸を締め付けるほどの孤独と絶望。
想像を絶する痛みのはずなのに、なぜか、シミアはその感覚に覚えがあった。
ふと、振り返る。
歩いてきたはずの地面。
そこに刻まれたはずの浅い足跡は、降り積もる灰に次々と掻き消されていく。
(今なら、まだ引き返せる……かも)
シミアは、その馬鹿げた考えを振り払った。
ぎゅっと目を閉じる。
烈風と灰の壁を突き抜けてくる、魂の悲鳴。
その絶望を、全身で受け止めた。
カッと、目を開く。
嵐に巻き込まれた灰の一片が、その中心に触れた瞬間、さらに強大な力によって、粉々に砕け散った。
(それでも……行かなくちゃ)
シミアは、嵐の中へと足を踏み入れた。
……
びりびりッ!
全身を、引き裂くような感覚が襲う。
風に加速された無数の灰の粒が、やすりのように、容赦なく肌を削り取っていく。
侵入者に気づいたのか、泣き声が、ぷっつりと途絶えた。
「――入ってくるな!」
嗄れた、拒絶の叫びが、嵐の中心から響いた。
ゴウッ!
嵐が、咆哮した!
風圧が、一気に増す。
もはや、それは無秩序な風ではない。目に見えるほどの風の鞭となって、シミアの体を、何度も、何度も打ち据える!
シミアは腕を掲げ、無様にその風を防いだ。
びゅううう、と風切り音が耳元で鳴り響き、鼓膜を破らんばかりだ。
全身に、無数の切り傷が刻まれていく。
激痛に意識が朦朧とし、抗いがたい力に、地面へと叩きつけられた。
渦巻く灰の向こうに、嵐の中心で、小さな影がうずくまっているのが、ぼんやりと見えた。
こちらの敗北を宣告するかのように、その影は背を向け、再び、絶望の叫びを上げた。
その瞬間、シミアの脳裏に、前世の記憶がフラッシュバックする。
父親に、革ベルトで打たれ、ただ、部屋の隅で、冷たい体に縮こまることしかできなかった、自分。
あの時も、こうして泣いていた。
誰かに、抱きしめてほしかった。
でも、そのうちに、泣くのをやめた。泣いても、無駄だと知ったから。
耐えることしか、できなかった。
(だから……もう、二度と、同じことにはさせない!)
カッと、目を見開く。
視界には、渦巻く灰。息をするたび、肺が、刃物で抉られるように痛む。
けれど、脳裏には、いくつもの笑顔が、はっきりと浮かんでいた。
シャルの、優しい笑顔。
トリンドルの、信頼に満ちた笑顔。
シメールの、揺るぎない笑顔。
アルヴィン将軍の、快活な笑顔。
そして……ミリエルの、勝利を確信した、孤独な微笑み。
シミアの口元に、不敵な弧が描かれた。
地面に腹這いになり、肘で体を引きずる。
鋼鉄さえも引き裂かんばかりの風圧に抗いながら、一寸、また一寸と。
泣き声の源へと、這い進んだ。
どれほどの時間が、経っただろうか。
嵐が、次第に、静まっていく。
痛みも、灰も、風の音も……。
全てが、幻だったかのように、消え失せた。
シミアは、顔を上げた。
目の前には、塵一つない、奇跡のような、緑の草地が広がっていた。
その中央に、灰でできた人影が立っている。
体の表面からは、ぱらぱらと灰が剥がれ落ちていく。
顔には、ただ、深淵のような、不気味に揺らめく二つの緑色の光があるだけ。
二人の視線が、交差した。
「……どうせ、あんたも……あたしのこと、化け物だって、思うんだろ……」
嗄れた声が、ぽつりと呟いた。
シミアは、優しく微笑んだ。
ばっと、地面を蹴る。
ためらうことなく、その孤独な影へと飛びつき、ぎゅっと、強く、抱きしめた。
嗄れた声が、止まった。
「怖かったよね。誰かに近づいてほしくて、でも、傷つくのが怖くて。……分かるよ、その気持ち」
腕の中で、体が、微かに震えているのを感じる。
シミアは、さらに強く、抱きしめた。
その温もりの中で、体を構成していた冷たい灰が、陽光に溶ける雪のように、はらはらと、剥がれ落ちていく。
腕の中の感触が、変わった。
小さくて、温かい、人間の女の子の感触に。
お団子頭の、白髪の少女。
その翠色の瞳は、生まれたての森のように澄み切って、驚いたように、シミアを見上げていた。
深淵のような光は、もうない。
そこには、ただ、清らかさと、ほんの少しの臆病さだけが、宿っていた。
「私も、昔はそうだった。でも、今は、家族がいて、友達がいて、楽しいことが、たくさん、たくさんあるの」
「過去の痛みが、消えるわけじゃない。それは、私も知ってる」
シミアの脳裏に、シャルの、太陽みたいな笑顔が浮かんだ。
「でも、もっと、もっとたくさんの、楽しい思い出を、これから一緒に、作っていけばいいんだよ」
少女が、そっと手を伸ばす。
その指先が、おそるおそる、シミアの頬に触れた。
「……あなた、ひどい怪我、してる」
ひやりとした感触。
それが、鍵だった。
封印されていた記憶の扉が、一気に開かれる。
シャルを庇って飛び出した、あの決意。
背中に走った、絶望的な激痛。
そして、雨と涙に濡れた、シャルの、あの、絶望に満ちた顔……。
記憶が、激痛と共に、津波のように押し寄せてくる。
意識が、急速に、遠のいていく。
「――いつか、ここへ、私に会いに来て。シミア。……約束だよ」
薄れゆく意識の中で、最後に聞こえたのは、その言葉だけだった。