盤上の駒
歴史学の教室。
空には分厚い雲が垂れ込めている。そのおかげか、室内はむしろ涼やかなくらいだった。
教室に吹き込む心地よい風が、後部座席に座る貴族の生徒たちを、うとうとと微睡みの世界へと誘っていた。
クラウディアも、その一人だった。
つまらなそうに頬杖をつき、ぼんやりと視線を彷徨わせる。
その先で、シミアが、アウグスト先生の授業に、真剣な眼差しで聞き入っていた。
羽根ペンが羊皮紙の上を滑る、サラサラという規則正しい音。
まるで、単調な子守唄だ。
クラウディアは、ふぁあ、と大きな欠伸を一つ漏らした。
(どうして、あの子は……)
こんな退屈な歴史の授業で、どうしてシミアは、まるで世界の全てを吸収しようとするかのような熱意を、保ち続けられるのだろう。
まったく、理解できなかった。
「――狩神六七二年。スハーディ国王が発した『奸臣を除く』との号令と共に、王国内は二つの派閥に分裂した。一つは、エグモント家、ヴラド家などを筆頭とする国王派。もう一つは、シスリ家、カイニ家などを中心とした反王派である。そして、長年にわたる水面下での権力闘争において、常にその主戦場となったのが――王都と辺境を結ぶ交通の要衝であり、王国の穀倉地帯でもある、人口密集地、南方農業領であった。この内耗により、王国経済は未曾有の凋落を迎え、村々は双方の軍によって蹂躙され、農民たちのけして豊かとは言えない蓄えは、根こそぎ奪われた。そして、ついに、王国全土を巻き込む、大飢饉へと発展したのだ」
シミアの瞳が、じっと、教壇を見据えている。
だが、その脳裏には、全く別の光景が、勝手に浮かび上がっていた。
故郷の市場で、シャルと共に、小さな露店を出していた頃の記憶。
自分たちで作った、ささやかな装飾品を売る。
人波が引いた後、人の好い大人たちと、売れ残った品物を、笑いながら交換し合う。
あの、温かく、素朴な日常。
それは、彼女が、この世界で、何よりも大切にしている宝物だった。
もし、戦争が、始まったら……。
私たちは、あんな風に、生きていられるのだろうか?
そこまで考えて、シミアは、ふっと息が詰まるのを感じた。羽根ペンを握る指に、無意識に、力が籠る。
「……絶えず、態度の定まらぬ小貴族たちが、国王派と反王派の間を行き来し、そして、飲み込まれ、ある者は、一族ごと、歴史の闇に葬り去られた。これは、王国史上、二度目となる、貴族社会の大粛清である。数多の名のある家が、こうして、歴史から、その名を消した」
そこまで語ると、アウグスト先生の視線が、意味ありげに、後部座席へと流れた。
クラウディアは、はっと顔を上げる。
その視線が、まるで全てを見透かすかのような、教師の瞳と、空中で、ぴたりと交差した。
アウグストの口元に、ごく僅かな笑みが浮かぶ。
彼は、ぱたん、と教科書を閉じた。
「ここまで話せば、ここにいる諸君の中にも、理解した者がいるだろう。常に、こう考える者がいる。『王国の中立派など、所詮は、日和見主義者だ』と。国王が優勢となれば国王に付き、反対派が優勢となれば、またそちらに靡く、と」
アウグストは、彼の言葉で、一斉に顔を上げた貴族たちを見回した。
「だが、覚えておくがいい。軽率な鞍替えは、諸君自身を滅ぼすだけでなく、その一族郎党、全てを破滅へと導くことになるのだ」
その言葉は、まるで、土砂降りの雨だった。
微睡んでいた貴族の子弟たちを、一瞬にして、現実に引き戻す。
「最近の、ルルト家の反乱が、何よりの好例だ。ルルト家の令嬢は、少し前まで、この教室の生徒だった。彼らは、南方農業領の大家族でありながら、ヴラド家の駒となる道を選び、そして、家は断絶し、一族は離散した。これは、我々全てにとって、最良の教訓だ。くれぐれも、目先の利益に目が眩み、分不相応な選択をすることのないように。この教室から、大家族の盤上、その駒として、使い捨てられる犠牲者が出ることを、私は望まない」
授業の終わりを告げる鐘の音が鳴り響く。
貴族の生徒たちは、まるで、息の詰まるような政治説教から逃げ出すかのように、そそくさと教室を後にしていった。
クラウディアは立ち上がり、アウグスト先生と視線を交わす。二人は、示し合わせたように、ふっと微笑み合った。