過去の後悔と彼女の決意
少女は病床に横たわっていた。
窓の外には、鉛色の空が広がっている。いつもと同じ、何も変わらない景色。
空気に満ちる消毒液の匂い。生命維持装置が刻む、規則正しい電子音だけが、彼女の話し相手だった。
ピッ、ピッ、と。
言うことを聞かないこの体から抜け出して、あの空の下へ帰りたい。普通の生活に。
その時、激しい痛みが全身を襲った。
視界に映る空が、ぐにゃりと歪む。
意識が、深い闇へと沈んでいった。
……
次に目覚めた時、病室の外に両親の姿が見えた。医師と、声を潜めて何かを話している。
母は、ただ泣いていた。父は、苦渋に満ちた顔で俯いている。
「……ペットが媒介となったウイルスが主な原因かと。大人であれば軽い症状で済みますが、彼女のように体の弱いお子さんには……」
「先生、どうか娘を助けてください!どんな代償を払っても構いません!お願いします……!」
医師の声は同情的だったが、そこには無力感が滲んでいた。何か慰めの言葉を口にして、踵を返した。
両親が、面会用の窓に張り付く。涙に濡れた瞳で、病室の中の彼女を見つめ、声にならない声で、その名を呼んでいた。
大丈夫だよ、と手を振りたかった。
だが、呼吸が、苦しくなっていく。
意識が、また遠のいていく。
……
ふと、意識が浮上する。
そこは、自分の部屋だった。
ふわふわで、温かい子犬が、ぺろぺろと顔を舐めてくる。
「小丸!」
彼女は夢中で小丸を抱きしめ、柔らかい絨毯の上でじゃれ合った。たった一人の遊び相手。来る日も来る日も、ずっと一緒だった。
遊んでいるうちに、なぜか、涙が勝手に零れ落ちてきた。
小丸は不思議そうに小首を傾げ、純粋な瞳で彼女を見つめている。
彼女は、腕の中から小丸を放した。
「小丸、ごめんね……私の、せいで……」
温かい感触が、意識と共に、薄れていく。
……
再び目を開けると、そこは、あの殺風景な病室だった。
窓の外を見る。
お父さんとお母さんが、小丸を抱き上げ、冷たいガラスに押し付けていた。
お父さんの声が、微かに聞こえてくる。
「小丸を見てごらん。君がいないと、この子も寂しいんだ。だから、早く良くなるんだよ」
お母さんは、ただ、恨めしそうに小丸を見つめ、何も言わなかった。
彼女は口を開き、ありったけの力で、心の中で叫んだ。
(小丸を連れて行かないで……安楽死させないで……お願い……)
けれど、その声は、ガラスの向こう側には届かない。
そもそも、声にさえ、なっていなかった。
声を発したのは、もう一人のミリエルだった。
華やかなドレスを纏い、ベッドの傍らに立って、無力な自分を見下ろしている。
彼女もまた、窓に張り付き、外を見ていた。両親の姿が、遠ざかっていく。
「あなたのせいよ!あんなペットを飼うなんて言うから!これで満足した!?娘がこんなことになって!」
母親のヒステリックな叫び。父親は、一言も言い返さなかった。
ただ、長いため息をつき、沈黙に身を任せている。
「……安楽死させよう」。
長い、長い沈黙の末に、父親が、絞り出した結論だった。
ベッドの上の彼女と、窓の外の小丸の視線が、交わった。
小丸は前脚を上げ、父親の腕の中から抜け出すと、窓枠へと飛び乗った。二本の前脚をガラスにつけ、その澄んだ瞳で、じっと彼女を見つめている。
まるで、最後の別れを告げるかのように。
そして、すぐに、追いかけてきた父親に、再び抱きかかえられてしまった。
「小丸を連れて行かないで……お父さん……お父さん!」
その声は、やはり、誰にも届かなかった……。
辺りは、しんと静まり返っている。
聞こえるのは、医療機器の冷たい機械音だけ。
女王ミリエルは、窓の外を見つめる。鉛色の空は、相も変わらず、そこにあった。
その時だった。
幼い彼女の声が、がらんとした病室に響いた。
「あの人たちは、悪くない。悪いのは、私。私が、あの病気になったから、小丸は……」
眠りに落ちたはずの彼女が、ゆっくりと、体を起こす。
その虚ろな瞳で、今の自分を、まっすぐに見つめていた。
「私には、小丸を守る力はなかった。あなたには?」
「私は……」
過去の自分からの問いに、ミリエルは、思わず二、三歩後ずさった。
「私は今、女王よ。この国の統治者!守りたいものは、何だって守れる力がある!もう……昔の私とは、違う……!」
「そう?」
幼い彼女の表情に、何の揺らぎもなかった。
「なら、必ず守ってあげて……私の代わりに。あなたが今……一番、大切にしている、その人を」
そう言うと、幼い彼女は再び横になり、視線を窓の外の、鉛色の空へと戻した。
周りの景色が、黒く、黒く、塗り潰されていく。
ぐらり、と世界が揺れた。
ミリエルは無意識に手を伸ばし、何かを掴もうとする。だが、指先に触れたのは、ざらついた、冷たい石の壁だけだった。
はっ、はっ、と息を吸い込む。
鼻腔に流れ込んできたのは、嗅ぎ覚えのある、骨灰のような、焦げ臭い匂い。
目を開ける。
鉛色の空の下、一片、また一片と、灰が舞い落ちていた。
手元の石壁に目をやり、そして、振り返る。
そこには、底の見えない、深い闇が広がっていた。
あの、洞窟だ。
『――また、入ってきたな』
あの冷たい、何の感情も宿らない声が、再び、脳内に響いた。
「入ってきて、何が悪いの!?」
ミリエルは胸中の恐怖を無理やりねじ伏せ、全力で、その闇へと叫び返した。
「私はローレンス王国の女王、ミリエル・ローレンス!あなたは!?あなたこそ、何者なの!」
『……出て行け』
声は、ただ淡々と、最終審判を下した。
『二度と、戻ってくるな』
ぷつり、と視界が途切れる。
意識が、完全に、奈落の底へと堕ちていった。
……
王家図書館。
強い陽光が天窓を突き抜け、一階の書斎机を照らしている。だが、その光も、ミリエルの心に巣食う、夢から生まれた刺すような寒気を、追い払うことはできなかった。
悪夢から、冷や汗と共に飛び起きた。
あの鉛色の空。骨灰のような焦げ臭い匂い。
まだ、五感にこびりついているかのようだ。
窓辺に歩み寄る。
雨に洗われ、生まれ変わったかのような王都の街並み。目に痛いほどに、明るい陽光。
それを見れば見るほど、胸の内の不安は、ますます強く、大きくなっていく。
「コーナ」
「はっ。ミリエル様」
「直ちに、アルヴィン将軍に連絡を」
ミリエルの声は、何の揺らぎもなく、冷静だった。昨夜、悪夢に魘されていた少女は、もうどこにもいない。
「本日より、王都への入城検問を強化せよ、と。全ての出入りする者に対し、目的、滞在時間、市内の滞在先を詳細に記録すること。同時に、巡回衛兵の数を倍増させよ。一昨日のような『サプライズ』は、もう見たくない」
コーナの顔に、憂慮の色が浮かんだ。
「ミリエル様、それは……少々、過剰反応と見なされませんか?敵は、あなた様を暴君に仕立て上げようとしています。今、警備を強化すれば、それこそ彼らの思う壺では?」
「そうかもしれぬな」
ミリエルの視線が、部屋の中、陽光に追いやられた影へと落ちる。
「だが、影が既にそこに在る以上、逃げても何の意味もない」
彼女は振り返り、睡眠不足で僅かに疲労の色を浮かべながらも、なお鋭い輝きを放つ銀色の瞳で、コーナを射抜いた。
「ヴラドは地下牢から忽然と姿を消し、悪意に満ちた貼り紙が、一夜にして王都中に貼られた。それは、見えざる力が、我々の心臓部で、好き勝手に振る舞っているということだ。まずは、この網を、きつく締めねばならぬ。少なくとも、これ以上、彼らが容易く出入りできぬようにな」
コーナは、頷いた。
「承知いたしました。直ちに、ご命令を伝達いたします。他にはございますか?」
「それから」
ミリエルの視線が、窓の外、陽光を浴びる王都の庭園へと向けられる。
「播種季の警備についても、検討を始めるよう伝えよ。適任者がいるかどうかも、尋ねておけ」
コーナは命を受けると、早足で部屋を後にした。
図書館には、ミリエル一人が残された。
暖かい陽光を感じながら、部屋の中の影を見る。これほど強い光でさえ、届かぬ場所がある。
あの荒唐無稽な荒れ野の夢。脅迫されるように結んだ貿易条約。悪意に満ちた貼り紙……。
胸の内の不安と苛立ちが、潮のように、押し寄せてくる。
ミゲの失踪、鋼心連合の脅威、そして、南方の農業領で、いつ噴火してもおかしくない火山……。
数々の危機が、降り止まぬ雨のように、この王国と、自分自身を、飲み込もうとしていた。
彼女は手を伸ばし、暖かい陽光を、その掌に受けた。
(……否。もう、待ってなどおれぬ)
夢の中の、幼い自分の、最後の問いが蘇る。
(……私の代わりに。あなたが今……一番、大切にしている、その人を)
ぎゅっ、と拳を握りしめる。
まるで、その光と、己の決意を、共に掴み取るかのように。
書斎机へと歩み寄り、羽根ペンを手に取る。
そして、とうに用意してあった、王家の紋章が刻まれた便箋の上に、全ての影に対する、宣戦布告を綴っていった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
王国全ての、忠実なる臣民たちへ告ぐ。
近日、陰謀という名の毒蛇が、我らが愛する王都に潜み、偽りという名の毒液を、好き放題に撒き散らしている。これに対し、余は、深く心を痛めている。
彼らは、今日、功臣を貶める貼り紙を街頭に貼り、明日には、諸君の家に押し入り、その大切な財産を奪い、愛する家族を攫うだろう。彼らは、今日、王権に挑み、明日には、諸君の尊厳を踏み躙るだろう!
諸君の女王として、余は、いかなる影であろうとも、この陽光に照らされし土地を、汚すことを断じて許さぬ。
本日より、王都の防衛は、近衛軍と城防軍が共同で管理する。これは、戒厳ではない。守護である。これこそが、余の、そして王室の、諸君の安寧を守るという、決意の証である!
余は、我が君主の名において、ここに誓う。
余は、一切の陰謀を打ち砕き、王都に、安寧を取り戻すことを。
――諸君らの女王、ミリエル・ローレンス