悪意は紙に乗って(下)
陽の光が、金色の蛇のように、カーテンの隙間からそっと滑り込む。
滑らかな木の床の上をゆっくりと這い、やがて、ベッドの上へと辿り着くと、眠り続けるシミアに、柔らかな温もりを届けた。
嵐の後の、得難い、静かな朝だった。
シミアは、温かい布団の中で、思いきり、華奢な手足を伸ばす。朦朧とした意識が、久しぶりに、心ゆくまで寝ていられるという、気怠い幸福を味わっていた。
不意に、その金色の光の蛇が、ドアの隙間で、一つの影によって、音もなく断ち切られた。
微かな、紙が床を擦る「さらさら」という音と共に、一通の白い封筒が、まるで蛇が舌を出すように、ドアの下から、するりと滑り込んでくる。
そして、ベッドとドアの間の、陽だまりの中で、ぴたりと止まった。
ドアの隙間の向こうの影が消え、光が再び繋がる。
まるで、何も起こらなかったかのように。
……
シミアが、ようやく目を開けた時、太陽は、もう空の真上にあった。
彼女は、ゆっくりと身を起こし、柔らかなシーツが滑り落ちるのを、されるがままにしていた。
制服に着替え、リボンタイを整え、さあ出かけようとした、その時。
床の上に、ぽつんと置かれた、一通の封筒が、目に留まった。
彼女は、その場にしゃがみ込むと、手紙を拾い上げた。
封は、されていない。
裏返すと、そこには、見覚えのある、カシウスの、あの、整然とした筆跡。
その一文字が、まるで氷水を浴びせられたかのように、彼女の気怠さを、一瞬で消し飛ばし、全身の神経を、ぴんと張り詰めさせた。
震える手で、封筒を開ける。
そこに書かれた一文字一文字が、カシウス独特の、穏やかで、それでいて、冷たい声色となって、脳内で響き始めた。
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我が、最も愛する生徒、シミアへ
その後、息災にしているだろうか。この師は、君と別れて以来、連邦の未来のために、日々奔走し、片時も休む暇がない。君はきっと、平穏で、安逸な学園生活を、満喫していることだろう。
大陸の勢力図さえも覆しかねない君の才能が、偏執狂と無能者が支配する籠の中に閉じ込められ、日々、虚しく時を過ごしているかと思うと、この師は、断腸の思いだよ。
君が、辺境で提出したあの答案は、完璧だった。ただ、残念なことに、君は、最も重要な、ボーナス問題で、間違った答えを書いてしまった。シミア、君は、優しすぎる。その優しさが、君に、無用な感情の絆を断ち切ることも、真の敵に、非情の一撃を加えることも、できなくさせている。戦略家として、優しさとは、許されざる原罪なのだ。
故に、この師が、自ら、その甘ったれた悪癖を、矯正してやることにした。
今日から、君は、別れを学ばねばならない。君が大切に思う、親子の情、友との情、そして、君自身の、その甘っちょろい弱さに、別れを告げるのだ。君は、自ら、周りの人間全てから、距離を置かねばならない。そうして初めて、君は、真に、冷徹な戦略的視点で思考し、遍在する危険を、警戒することを、学ぶだろう。
もし、この師の言う通りにしないのなら、この私が、最も痛みを伴う現実を以て、君に、直接、教鞭を執ってやることになる。
私が、そばにいないからといって、高枕を決め込んでいるがいい。この、小さな王都に、私は、君のための、全く新しい舞台を、とうに用意してある。探すがいい、見つけるがいい。やがて、君は、その全貌を、目にすることになるだろう。
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シミアは、震える手で、便箋を置いた。
脅迫。
これは、単なる脅迫ではない。宣戦布告だ。
カシウスが、彼女の思考パターンを、誰よりも理解している、あの男が。かつて、彼女に、戦争の勝ち方を教えた、あの男が、彼女に、次の戦争を仕掛けてきたのだ。
(全部、私のせい……。私の、この甘さが、この、災いを招くほどの才能が、シャルを、トリンドルを、私が大切に思う全ての人を、敵の手に、人質として差し出してしまったんだ……)
シャル、トリンドル、シメール、ミリエル……。
脳裏をよぎる名前の一つ一つが、カシウスの、次の標的になるかもしれない。
封のされていない手紙が、鍵をかけたはずの部屋に、置かれていた。
それは、学院内に、内通者がいることを意味していた。
領主寮を、自由に出入りできる、内通者が。
一体、誰? ライナス? あの教室で、私を助けてくれた、穏やかな先輩……? クラウディア? 口は悪いけど、裏表のない、真っ直ぐな先輩……?
いや、もう、考えるのはやめよう。
今や、全ての笑顔が、毒を塗った刃に見える。
シミアの顔から、さっと血の気が引いた。
その時だった。
コン、コン、コン、と、ドアをノックする音が響いた。
びくり、とシミアの体が、大きく震えた。
(ドアの向こうにいるのは、敵……?)
「シミア、いる? 私、トリンドルよ」
聞き慣れた声に、張り詰めていた神経が、少しだけ緩む。
だが、次の瞬間、カシウスの、あの冷たい警告が、再び、脳内で警鐘を鳴らした。
(……周りの人間全てから、距離を置け……)
トリンドルを、巻き込んではいけない。絶対に。
「いるわ! 今、開ける!」
声の震えを、無理やり抑え込む。
手紙を封筒に戻し、枕の下に隠した。念のため、外から見えないことを、目で二度、確認してから、ベッドを離れる。
ドアの前で、一旦、立ち止まる。
呼吸を整え、狂ったように鳴り続ける心臓を、必死に宥めた。
そして、一つ、深呼吸をする。
〝いつも通り〟の仮面を被り、自分でも、奇妙に感じるほど、穏やかな微笑みさえ浮かべて。
太陽の光が差す、未知の危険へと通じる、その扉へと、向かった。