講義室は戦場なり
ざあざあと、滝のような雨が世界を叩きつけ、視界の全てを白く煙らせていた。
軍事戦略学の教室には、噂を聞きつけて王都中から駆けつけた貴族の生徒たちが、ぎゅうぎゅうに詰めかけている。
窓の外では、風雨が荒れ狂う。
室内では、密集した人々が発する熱気と、雨の湿気、それから様々な香辛料の匂いが混じり合い、息が詰まるような暑さが立ち込めていた。
「よりによって、なんでこんな日に授業なわけ? 最悪……」
トリンドルは、シミアの体にぐったりと寄りかかりながら、小声で不満を漏らした。
「仕方ないわ。前から決まっていた日なんだもの」
シミアは、そう言って彼女を宥めながら、収穫期の小麦のように美しい金の髪を、優しく撫でてあげる。
その時だった。
教室の入り口が、水を打ったように静まり返った。
ミリエル・ローレンスが、ゆったりとした足取りで、ゆっくりと教室に入ってくる。
まるで彼女を恐れるかのように、雨水はその制服に一滴の染みさえ残していない。
彼女の後ろに続くコーナが、資料の束を教壇に置き、無表情のままその傍らに控えた。
ミリエルの視線が、人垣を抜け、最前列に座るシミアの姿を正確に捉える。
そして、会心の笑みを浮かべた。
ぞくり、と悪寒が走り、トリンドルは、はっと目を開くと、教壇に向けて敵意むき出しの視線を投げつけた。
「さて……」
ミリエルが、口を開こうとした、その時。
びしょ濡れの二つの人影が、人混みをかき分け、転がるように教室へ飛び込んできた。
「すみません……先生……遅れました……っ」
ライナスが、ドアの枠に手をつき、ぜえぜえと肩で息をしている。亜麻色の髪からは、ぽたぽたと水の雫が滴り落ちていた。
すぐ後ろから入ってきたクラウディアも、自慢のウェーブのかかった長髪が、見るも無残に乱れている。
ミリエルは、ただにこやかに頷くと、教室の後方に立つよう、目で示した。
そして、すっと手を持ち上げる。
その掌に、ちろちろと小さな炎が灯った。
彼女が、その炎を、ぱちん、と指で弾き潰した次の瞬間。
芳醇な紅茶の香りをまとった温かい風が、教室の隅々まで吹き抜け、全ての湿気と寒気を、一瞬で運び去っていった。
これほど複雑な魔法を、詠唱もなしに、瞬時に発動させるなんて。シミアは、辺境で見たあの傭兵――ヴォルフの氷壁を思い出していた。彼の魔法は、ミリエルのものより、さらに速く、何の予兆もなかった。だからこそ、あのシメールほどの剣士でさえ、為す術もなく吹き飛ばされたのだ。
女王ミリエルは、シミアがこれまで見てきた中で、ヴォルフに次ぐ、最高の魔法の使い手だった。
そう思うと、シミアの瞳に、心からの期待の光が燃え上がった。
隣に座るトリンドルは、これまでにないほどの危機感を覚えていた。
「皆さんが今見たように、魔法には、様々な便利な使い方があります。そして現代、ほとんどの者が、魔法を使える血脈を受け継いでいます。だからこそ、我々はその力の源泉――神話に語られる、古の十一英雄による巨獣討伐から、目を背けるわけにはいかないのです」
ゆっくりと語り始めたミリエルを見て、シミアはノートを取り出し、神話学の授業のタイトルを書き込んだ。
『十一英雄の巨獣討伐』、と。
「伝説によれば、大陸の中央に巣食う巨獣を討伐するため、世界各国から、それぞれに秀でた十一人もの英雄が選ばれ、討伐の旅に出ました。英雄たちは、巨獣と数ヶ月に渡り死闘を繰り広げ、ついにこれを打ち倒したのです。彼らは巨獣の血を浴び、その亡骸を解体し、骸の上で勝利の宴を開きました。この日こそが、我らが狩神季元年、最初の一日です。英雄たちは、巨獣の骨をそれぞれの国へ持ち帰りました。そして、その子孫たちが英雄の血脈を受け継ぎ、次第に魔法の力に目覚めていったのです。その力は四つ。春を司る水の魔法、夏を司る火の魔法、秋を司る雷の魔法、そして、冬を司る雪の魔法です。ですが、血脈が十数代と受け継がれるうちに、その力は次第に薄れていきました。およそ二百年前から、ローレンス王国では、ごく少数の家系のみが四属性の魔法を継承でき、新たに生まれる血脈のほとんどは、単一属性の魔法しか扱えなくなったのです。……これが、魔法に関する、最も古典的な起源説。そして、神話学において、今日まで最も広く知られている説ですわ」
ミリエルは、一旦言葉を切り、壇下の生徒たちを見渡した。
シミアは、真剣にノートを取っている。他の多くの生徒たちも、真面目なふりをしてはいるが、その実、ほとんどが上の空だ。貴族にとって、この程度の話は、幼い頃に聞かされるおとぎ話に過ぎない。
ミリエルの視線がシミアに戻った時、トリンドルが、ミリエルを睨みつけた。その眼差しは、まるで「そんな話しかしないなら、とっとと授業を終わらせなさいよ」とでも言いたげだった。
「ふふ、今述べた説は、在校生のほとんどが、聞き覚えのあるものでしょう」
ミリエルは、ぱちん、と指を鳴らした。
温かい風が止み、代わりに、ひやりと冷たい風が教室に吹き込んでくる。
さっきまで、うつらうつらと舟を漕いでいた生徒たちが、次の瞬間、ぶるりと身震いした。
「ですが、もし我々が、この神話だけを鵜呑みにするのなら、それは、先人たちが我々に見せたがっていた側面しか、見ていないことになります。これより、この単純な英雄叙事詩を解体し、皆さんに、神話の、もう一つの顔をお見せしましょう」
シミアは、こくりと頷いた。本能的に、あの神話にはどこか、腑に落ちない部分があると感じていたからだ。
彼女は、ノートに書き足した。
『忌み嫌われる巨獣こそが、魔法の力の源泉』
「狩神季十一年、大陸全土で、大規模な魔女狩りが行われました。そのスローガンは、『英雄を守り、流言を絶つべし』。そして、この魔女狩りが標的としたのが、神話には登場しない、十二人目の英雄。十一英雄によって、意図的にその存在を抹消された英雄、リリアです」
ミリエルは、一瞬だけ間を置き、教室をぐるりと見渡した。
数多の鋭い視線が、まるで剣のように彼女に突き刺さる。
だが、彼女は、ただ微笑むだけで、話を続けた。
「リリアは、各国から選ばれた十二人の英雄の一人でした。彼女の存在は十一英雄によって隠蔽されましたが、彼らの影響力をもってしても、しばらくの間、多くの人々を騙すことはできても、あるいは、短い間、少数の人々を騙すことはできても、永遠に、全ての人を騙し続けることは、不可能でした」
「リリアは、大陸の至る所で説いて回りました。巨獣は心優しき神獣であり、それを殺めた十一英雄こそが罪人なのだ、と。これが、十一英雄の逆鱗に触れました。彼らは、リリアの側近を買収してその居場所を突き止め、彼女を捕らえ、拷問の末に殺害したのです」
「全ては、十二英雄が、瀕死の巨獣を前にした、あの時に遡ります。リリアは、十一英雄の前に立ちはだかり、背後の巨獣を見逃してくれるよう懇願しました。ですが、彼女は、仲間であったはずの英雄たちによって、追放されてしまったのです。その直後、十一英雄は巨獣の血を浴び、その亡骸を分け合い、それぞれの国へと帰還しました。巨獣を狩ったことで得られる利益を享受し、自らを神格化していったのです」
教室は、しんと静まり返っていた。
聞こえるのは、窓の外の風雨の音と、シミアがノートにペンを走らせる、さらさらという音だけだ。
冷たい風はとっくに止んでいたが、貴族の生徒たちは、背筋に、ぞくりとした寒気を感じていた。
トリンドルは、教壇に立つミリエルを睨みつけ、彼女の語る理論の綻びを必死に探していた。
シミアの前で、彼女の化けの皮を剥がしてやりたい。その一心だった。
その時、教室の隅にいた一人の貴族の女生徒が、すっと手を挙げた。
シミアは、彼女に見覚えがあった。以前、魔法実践の授業で、ミリエルと同じ班だった生徒だ。
「何か質問かしら?」
「女王陛下。あなたは、我々貴族の正当性を、否定なさるおつもりですか?」
女生徒の発言に、教室の温度が、一瞬で、さらに数度下がった。
「ローレンス先生、とお呼びなさい。この授業では、神話学に関することだけを議論します。ここにいる大多数の生徒の体内に、そして、私の体内にも、十二英雄の血が流れています。たとえ、我々の祖先が過ちを犯したのだとしても、我々がその子孫であるからといって、その過ちを庇う理由にはなりません。……あなたに尋ねるけれど、あなたの親友は、数ヶ月前、ローレンス王家に対する反逆に加わりましたわね。では、あなたも、彼女の親友であるというだけで、同罪になるのかしら?」
「それは……」
女生徒は、ミリエルの言葉に、ぐっと詰まってしまった。
その時、トリンドルが、さっと、高く手を挙げた。
「エグモントの小娘。何かね」
「ローレンス先生。私のことは、トリンドルとお呼びください」
「よろしい、トリンドルさん」
「先生のお話は、大変興味深く拝聴いたしました。神話の真偽について、ここで異を唱えるつもりはありません。ですが、先生の説によれば、英雄リリアは、魔法の血脈の伝播には関与していないはず。ならば、リリアの行動が、現在の我々の世界に、一体何の影響を与えたというのですか?」
トリンドルの質問は、極めて鋭かった。
ミリエルは、数秒間、考え込む。
その、困ったような表情を見て、トリンドルは、勝利の笑みを浮かべた。
ミリエルは、前世の記憶の断片を思い出していた。
かつて読んだ、ある神話の解釈を。
「神話とは、我々の祖先が、後世の者を教育し、その叡智を保存するために用いた、寓話です。リリアの物語は、今なお、民の間に語り継がれています。それは、十一英雄の叙事詩と同じように、我らが王国の、独特な国民性を形作ってきました。彼女の物語は、我々に教えてくれるのです。――たとえ、最も暗い時代にあっても、常に、いわゆる〝正統〟や〝権威〟に、敢然と異を唱える者がいた、ということを。そして、強きを恐れぬリリアの勇気もまた、現在のローレンス王国における、国民性の一部なのです」
ミリエルは、トリンドルに、にこりと微笑みかけた。
「この答えで、ご満足いただけたかしら? トリンドルさん」
ちょうどその時、授業の終わりを告げる鐘が鳴り響いた。
ミリエルが、教壇の上の資料を片付け始める。
生徒たちは、まだ、彼女の語った、あまりにも常識を覆す理論の、巨大な衝撃から抜け出せずにいた。
「シミア、この後、シメールの所に行かない?」
トリンドルが、すぐさまシミアに寄り添って、声をかける。
シミアが頷こうとした、その時。
ミリエルが、資料の山を抱えて、彼女の机の前までやってきた。
「シミアさん。あなたは、とても熱心にノートを取っていましたね。本日より、あなたを、この神話学の学級委員に任命します」
彼女は、ずしりと重い資料の束をシミアの机に置くと、断ることを許さない、〝先生〟の口調で言った。
「学級委員として、これらの資料を、私の臨時執務室まで運ぶのを、手伝ってくださるかしら?」
シミアは、トリンドルの方を見て、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「ごめんなさい、トリンドル。戻ったら、すぐにあなたの所へ行くから」
「はい、ローレンス先生」
彼女は、鞄を背負うと、資料の山を抱え上げ、ミリエルとコーナの後に続いた。
トリンドルは、目を大きく見開いて、信じられないという顔で、三人の去っていく後ろ姿を見つめていた。
教室の出口に差し掛かった時。
ミリエルは、くるりと振り返ると、まだ呆然と立ち尽くすトリンドルに向かって、完璧な、勝利者の微笑みを、浮かべてみせた。