空の教室と鋭い視線
歴史学の教室を出る。
なのに、シミアの足は、まるで自身の意志を持ったかのように、勝手知ったる廊下を進んでいく。
そして、止まった。
目の前には、かつてあれほど親しんだ扉。今では、逃げ出したくて仕方ない場所だ。
――軍事戦略学の教室。
辺境から帰還して以来、シミアは、軍事戦略学の授業の時間になると、いつも無意識にこの教室へ足を向けてしまっていた。もちろん、カシウスの裏切り以降、この授業に教師はいない。
ただ、この教室が、カシウスとの記憶を嫌でも思い出させるのだ。
厚い雲に覆われた空が、教室を一層静かで、薄暗いものにしていた。
扉を見つめていると、初めてこの教室に足を踏み入れた日の記憶が蘇る。あの頃はまだ、クラスメイトたちの侮蔑の視線から逃れられずにいた。そんな中で、カシウス先生の授業だけが、数少ない、不安を感じずに学習に集中できる時間だった。
なのに、今、この扉を見つめていると、肌を刺すような寒気しか感じない。
カシウスの策略。大切なものを奪われることへの恐怖。
あの頃は素晴らしいと感じた記憶が、今ではただ、不気味で恐ろしいものにしか思えなかった。
すぐに踵を返そうとした、その時。
何の気取りもない、若い男女の話し声が、扉の隙間から漏れ聞こえてきた。
「……マジな話、ライナス。あんたが来週会うっていうカミル嬢って、クソつまんないって評判よ」
「クラウディア、一応、幼馴染なんだから、陰で悪く言うのはやめてやれよ」
聞き覚えのある声に、シミアの足は、まるで床に釘付けにされたように動かなくなった。
クラウディアと、ライナス。
覚えている。授業ではいつも、ひときわ輝いていた二人だ。
カシウス先生の〝特別〟な寵愛を受けていた自分は、彼らとまともに言葉を交わす機会さえ、ほとんどなかった。
懐かしさと、ちりちりとした痛みが入り混じった、複雑な感情が胸に込み上げてくる。
まるで何かに引き寄せられるように、シミアは、おそるおそる、扉の陰から半分だけ顔を覗かせた。
教室の中央、兵棋演習盤の傍らで、ローズゴールドのウェーブのかかった長髪の少女が、口元を覆ってくすくすと笑っている。その向かいでは、亜麻色の短髪の少年が、やれやれといった様子で額を揉んでいた。
高い窓から差し込む光が、見慣れた演習盤の上に、まだらな光の模様を落としている。
まるで、カシウス先生がそこに立って、「君には驚くべき才能がある」と微笑みかけてくれた、あの光景が蘇るようだった。
かつては、あれほど温かく感じた承認の言葉が、今では、毒塗りの刃のように、心を抉ってくる。
「あら、今日はどなたかと思えば」
クラウディアの視線が、まるで敏腕な鷹のように、瞬時に戸口の気配を捉えた。彼女は立ち上がると、どこか面白がるような笑みを浮かべて、シミアの方へと歩み寄ってくる。
シミアの体が、びくりと硬直した。
無意識に後ずさろうとするが、足が言うことを聞かない。
「クラウディア先輩、ライナス先輩」
声が、少し掠れているのを感じた。ぎこちなく、一礼する。
「あんた、辺境で大活躍して、我らが〝尊敬すべき〟先生をこてんぱんにやっつけたって聞いたけど?」
クラウディアの口調は、尋問というよりは、探りを入れているようだった。「正直、あたしはあの男、前から気に食わなかったのよね。いっつも何でも知ってるみたいな顔しちゃってさ。一発殴ってやりたかったわ」
「いえ……私では」
シミアは、慌てて首を横に振った。用意していた、教科書通りの模範解答を口にする。
「アルヴィン将軍の指揮が的確だったお陰で、逆境を覆し、勝利を収めることができたのです」
「へぇ?」
クラウディアの口の端が、氷のように冷たい弧を描いた。彼女はシミアの目の前に立つと、すっと身を屈める。その美しい瞳の奥が、全てを見透かすように、きらりと光った。
「そうかしら? でも、あたしが聞いた話じゃ、アルヴィン将軍は、曲がったことが大嫌いな猪武者タイプ。あの人の戦術なんて、あたしでもお見通しよ。そんな単純な手で、あのカシウスを出し抜けるわけないじゃない。……それどころか、類まれなる天才が、あのカシウスが特別目をかけていた逸材が、学生観摩団の中にいた、って話だけど?」
彼女は、すっと細い指を伸ばし、シミアの胸を、とん、と軽く突いた。
ひやりとした感触に、心臓が一つ、大きく跳ねる。
「それに、もっと気になることがあるんだけど。あの我儘なミラー・エグモント、鼠みたいに臆病なエリアス・フォークナー、それから、馬鹿力しかないストレイド・ケント……アルヴィン将軍は、一体どんな魔法を使ったら、一晩で、性格も違えば腹の中も真っ黒なあの三人を、一つにまとめることができたのかしらね?」
クラウディアの言葉の一つ一つが、まるで鋭いメスのように、シミアが嘘で塗り固めた脆い防御を、一枚、また一枚と切り裂いていく。
息が詰まる。肺の中の空気が、全て吸い出されてしまったようだ。手のひらに、じっとりと冷たい汗が滲む。
まるで、カシウスに裏切られたあの瞬間に、引き戻されたかのようだった。最も信頼していた人間に、全ての弱点を見抜かれてしまった、あの、裸にされたような無力感。
「どう考えたって、戦力では鋼心連邦が圧倒的有利。おまけに、カシウスっていう内通者までいて……」
「クラウディア!」
ライナスが、ついに口を開いた。彼女の、相手を追い詰めるような分析を、ぴしゃりと遮る。
彼はシミアの隣に歩み寄ると、申し訳なさそうな顔で、穏やかだが、はっきりとした声で言った。
「ブルームさん、誤解しないでほしい。俺たちに悪意はない」
彼は、一呼吸置いて、シミアを深く理解するような眼差しで見つめ、静かに付け加えた。
「最も信頼していた師に裏切られた痛みは、俺たちには想像もできない。俺だって、同じ立場なら、今すぐ他人を信じるなんて無理だ」
ライナスの言葉は、まるで温かい盾のように、シミアの前に立ちはだかった。張り詰めていた神経が、ようやく、少しだけ息をつく。
だが、その唐突な優しさが、かえって彼女を戸惑わせた。
ミリィル・ルルトの手紙の言葉が、脳裏をよぎる。
――かつてあなたを侮っていた者たちが、あなたに笑顔を見せ始めた時こそ、あなたが最も警戒すべき時よ。
(この二人こそ、ミリィルが言っていた、警戒すべき相手じゃないかしら?)
その思いが、シミアの二人を見る目に、新たな警戒心を宿らせた。
「でも……」
彼の口調が、不意に変わる。その顔には、真摯な笑みが浮かんでいた。
「ブルームさん、君には俺たちにはない、常識を打ち破る視野がある。そして、俺たちには、君に欠けているものがある――王都に張り巡らされた情報網と、人脈がな。もし、いつか、貴族たちのカードゲームを読み解く『眼』と、影で交わされる密談を聞き分ける『耳』が必要になったら、いつでもこの教室に来てくれ」
目の前の二人を見る。一人は、抜き身の剣のように鋭く。もう一人は、堅牢な盾のように頼もしい。
ライナスの言葉は、まるで一本の救いの藁だった。裏切りによって溺れかけている、深い淵の上から、垂らされた一本の。
手を伸ばしたい。けれど、その藁の先が、さらに深い罠へと繋がっているのではないかと、恐ろしくてたまらない。
希望と恐怖が、胸の中で激しくせめぎ合う。
頭の中が、真っ白になった。
シミアは、こくりと頷くと、深々と二人に頭を下げ、そして、慌てて踵を返した。
ほとんど、逃げるようにして、その教室を後にした。
少し慌てたようなその後ろ姿を、クラウディアは、ようやく攻撃的な態度を収めて、ふん、と鼻を鳴らして見送った。
「まったく、意地っ張りな後輩ちゃんだこと」
「だが、認めざるを得ないだろう」
ライナスは、誰もいなくなった扉を見つめ、その瞳に知性の光を宿していた。
「彼女は、強い。そうじゃないか?」