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ゼロから始める軍神少女  作者:
第二巻 プロローグ:荒れ野の夢
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空の教室と鋭い視線

歴史学の教室を出る。

なのに、シミアの足は、まるで自身の意志を持ったかのように、勝手知ったる廊下を進んでいく。

そして、止まった。

目の前には、かつてあれほど親しんだ扉。今では、逃げ出したくて仕方ない場所だ。

――軍事戦略学の教室。


辺境から帰還して以来、シミアは、軍事戦略学の授業の時間になると、いつも無意識にこの教室へ足を向けてしまっていた。もちろん、カシウスの裏切り以降、この授業に教師はいない。

ただ、この教室が、カシウスとの記憶を嫌でも思い出させるのだ。


厚い雲に覆われた空が、教室を一層静かで、薄暗いものにしていた。

扉を見つめていると、初めてこの教室に足を踏み入れた日の記憶が蘇る。あの頃はまだ、クラスメイトたちの侮蔑の視線から逃れられずにいた。そんな中で、カシウス先生の授業だけが、数少ない、不安を感じずに学習に集中できる時間だった。

なのに、今、この扉を見つめていると、肌を刺すような寒気しか感じない。

カシウスの策略。大切なものを奪われることへの恐怖。

あの頃は素晴らしいと感じた記憶が、今ではただ、不気味で恐ろしいものにしか思えなかった。


すぐに踵を返そうとした、その時。

何の気取りもない、若い男女の話し声が、扉の隙間から漏れ聞こえてきた。


「……マジな話、ライナス。あんたが来週会うっていうカミル嬢って、クソつまんないって評判よ」

「クラウディア、一応、幼馴染なんだから、陰で悪く言うのはやめてやれよ」


聞き覚えのある声に、シミアの足は、まるで床に釘付けにされたように動かなくなった。

クラウディアと、ライナス。

覚えている。授業ではいつも、ひときわ輝いていた二人だ。

カシウス先生の〝特別〟な寵愛を受けていた自分は、彼らとまともに言葉を交わす機会さえ、ほとんどなかった。


懐かしさと、ちりちりとした痛みが入り混じった、複雑な感情が胸に込み上げてくる。

まるで何かに引き寄せられるように、シミアは、おそるおそる、扉の陰から半分だけ顔を覗かせた。


教室の中央、兵棋演習盤サンドテーブルの傍らで、ローズゴールドのウェーブのかかった長髪の少女が、口元を覆ってくすくすと笑っている。その向かいでは、亜麻色の短髪の少年が、やれやれといった様子で額を揉んでいた。


高い窓から差し込む光が、見慣れた演習盤の上に、まだらな光の模様を落としている。

まるで、カシウス先生がそこに立って、「君には驚くべき才能がある」と微笑みかけてくれた、あの光景が蘇るようだった。

かつては、あれほど温かく感じた承認の言葉が、今では、毒塗りの刃のように、心を抉ってくる。


「あら、今日はどなたかと思えば」


クラウディアの視線が、まるで敏腕な鷹のように、瞬時に戸口の気配を捉えた。彼女は立ち上がると、どこか面白がるような笑みを浮かべて、シミアの方へと歩み寄ってくる。


シミアの体が、びくりと硬直した。

無意識に後ずさろうとするが、足が言うことを聞かない。

「クラウディア先輩、ライナス先輩」

声が、少し掠れているのを感じた。ぎこちなく、一礼する。


「あんた、辺境で大活躍して、我らが〝尊敬すべき〟先生をこてんぱんにやっつけたって聞いたけど?」

クラウディアの口調は、尋問というよりは、探りを入れているようだった。「正直、あたしはあの男、前から気に食わなかったのよね。いっつも何でも知ってるみたいな顔しちゃってさ。一発殴ってやりたかったわ」


「いえ……私では」

シミアは、慌てて首を横に振った。用意していた、教科書通りの模範解答を口にする。

「アルヴィン将軍の指揮が的確だったお陰で、逆境を覆し、勝利を収めることができたのです」


「へぇ?」

クラウディアの口の端が、氷のように冷たい弧を描いた。彼女はシミアの目の前に立つと、すっと身を屈める。その美しい瞳の奥が、全てを見透かすように、きらりと光った。

「そうかしら? でも、あたしが聞いた話じゃ、アルヴィン将軍は、曲がったことが大嫌いな猪武者タイプ。あの人の戦術なんて、あたしでもお見通しよ。そんな単純な手で、あのカシウスを出し抜けるわけないじゃない。……それどころか、類まれなる天才が、あのカシウスが特別目をかけていた逸材が、学生観摩団の中にいた、って話だけど?」


彼女は、すっと細い指を伸ばし、シミアの胸を、とん、と軽く突いた。

ひやりとした感触に、心臓が一つ、大きく跳ねる。


「それに、もっと気になることがあるんだけど。あの我儘なミラー・エグモント、鼠みたいに臆病なエリアス・フォークナー、それから、馬鹿力しかないストレイド・ケント……アルヴィン将軍は、一体どんな魔法を使ったら、一晩で、性格も違えば腹の中も真っ黒なあの三人を、一つにまとめることができたのかしらね?」


クラウディアの言葉の一つ一つが、まるで鋭いメスのように、シミアが嘘で塗り固めた脆い防御を、一枚、また一枚と切り裂いていく。

息が詰まる。肺の中の空気が、全て吸い出されてしまったようだ。手のひらに、じっとりと冷たい汗が滲む。

まるで、カシウスに裏切られたあの瞬間に、引き戻されたかのようだった。最も信頼していた人間に、全ての弱点を見抜かれてしまった、あの、裸にされたような無力感。

「どう考えたって、戦力では鋼心連邦が圧倒的有利。おまけに、カシウスっていう内通者までいて……」


「クラウディア!」

ライナスが、ついに口を開いた。彼女の、相手を追い詰めるような分析を、ぴしゃりと遮る。

彼はシミアの隣に歩み寄ると、申し訳なさそうな顔で、穏やかだが、はっきりとした声で言った。

「ブルームさん、誤解しないでほしい。俺たちに悪意はない」


彼は、一呼吸置いて、シミアを深く理解するような眼差しで見つめ、静かに付け加えた。

「最も信頼していた師に裏切られた痛みは、俺たちには想像もできない。俺だって、同じ立場なら、今すぐ他人を信じるなんて無理だ」


ライナスの言葉は、まるで温かい盾のように、シミアの前に立ちはだかった。張り詰めていた神経が、ようやく、少しだけ息をつく。

だが、その唐突な優しさが、かえって彼女を戸惑わせた。

ミリィル・ルルトの手紙の言葉が、脳裏をよぎる。

――かつてあなたを侮っていた者たちが、あなたに笑顔を見せ始めた時こそ、あなたが最も警戒すべき時よ。

(この二人こそ、ミリィルが言っていた、警戒すべき相手じゃないかしら?)

その思いが、シミアの二人を見る目に、新たな警戒心を宿らせた。


「でも……」

彼の口調が、不意に変わる。その顔には、真摯な笑みが浮かんでいた。

「ブルームさん、君には俺たちにはない、常識を打ち破る視野がある。そして、俺たちには、君に欠けているものがある――王都に張り巡らされた情報網と、人脈がな。もし、いつか、貴族たちのカードゲームを読み解く『眼』と、影で交わされる密談を聞き分ける『耳』が必要になったら、いつでもこの教室に来てくれ」


目の前の二人を見る。一人は、抜き身の剣のように鋭く。もう一人は、堅牢な盾のように頼もしい。

ライナスの言葉は、まるで一本の救いの藁だった。裏切りによって溺れかけている、深い淵の上から、垂らされた一本の。

手を伸ばしたい。けれど、その藁の先が、さらに深い罠へと繋がっているのではないかと、恐ろしくてたまらない。


希望と恐怖が、胸の中で激しくせめぎ合う。

頭の中が、真っ白になった。

シミアは、こくりと頷くと、深々と二人に頭を下げ、そして、慌てて踵を返した。

ほとんど、逃げるようにして、その教室を後にした。


少し慌てたようなその後ろ姿を、クラウディアは、ようやく攻撃的な態度を収めて、ふん、と鼻を鳴らして見送った。

「まったく、意地っ張りな後輩ちゃんだこと」

「だが、認めざるを得ないだろう」

ライナスは、誰もいなくなった扉を見つめ、その瞳に知性の光を宿していた。

「彼女は、強い。そうじゃないか?」

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