宣戦布告は教壇から
領主寮のホールでは、授業を終えたばかりの貴族の子女たちが三々五々集まり、あちこちで騒がしい話し声が上がっていた。
だが、〝その人影〟が教壇の前に現れた途端、全てのざわめきは、まるで見えざる手に喉を締め付けられたかのように、ぴたりと止んだ。
外から戻ったばかりのシミアとトリンドルは、その異常なまでの静けさにすぐに気づいた。自然と開かれていく人垣を抜け、教壇の上に立つ人物の姿を認めた瞬間、二人は揃って驚きの表情を浮かべる。
白い長髪。人形のように精巧な顔立ち。
そして、周囲の生徒たちと何ら変わらない、質素な領主学院の制服。
――ローレンス王国の女王、ミリエルが、そこに静かに佇んでいた。
背後には、資料の束を抱えたコーナが、無表情で控えている。
ミリエルの視線が、人混みを突き抜け、正確にシミアの姿を捉えた。
その口元に、優しく、それでいてどこか不思議な戦意を宿した微笑みが浮かぶ。
トリンドルの体が一瞬で強張り、無意識に、シミアの腕を一層強く抱きしめた。
「皆さんが、なぜ私がここにいるのか、不思議に思っていることでしょう」
ミリエルの声は、冷たく澄んでいながらも柔らかく、ホールにいる一人一人の耳に、はっきりと届いた。彼女は、畏敬と好奇に満ちた眼差しを向ける生徒たちを、ゆっくりと見渡す。
「ご存知の通り、今、王国は未曾有の危機に直面しています。《灰の荒野》の拡大は、我々の信仰の礎を揺るがす警鐘です。皆さんの君主として、私は、我々がもはや過去の栄光に浸るべきではないと判断しました。むしろ、我々の力の源泉――かの十一英雄から受け継がれし、偉大なる血脈を、今一度見つめ直すべきなのです」
彼女は、まるで出来の悪い我が子に向き合うかのように、どこか包容力のある仕草で、両腕を広げた。
「故に、本日より、私は客員教授として、この学院に新たな講座を開設します。その名も――〝神話学〟。皆さんと共に、神話の根源を探り、我々の血脈に秘められた、真の力と秘密を解き明かしていきたいのです」
その言葉に、壇下の貴族の生徒たちが、どっと沸き立った。
彼らの瞳には、貪欲な光が、あるいは驚愕の色が閃く。だが誰もが、これを好機と捉えたのは同じだった。学院での活躍が、一族内での己の地位を大きく左右する、またとない機会になるかもしれない、と。
ミリエルの視線が、再びシミアの上に注がれる。
それは、決して断ることのできない、招待状のようだった。
「皆さん、どうか、奮って私の講座に申し込んでください」
一瞬の静寂の後、ホールは、割れんばかりの拍手に包まれた。
「シミア、行くの?」
トリンドルが、警戒心を滲ませた声で、シミアの袖を引いた。
シミアは少し考えた後、真剣な顔でこくりと頷いた。
あの夜、ミリエルの寝室で見た数々の神話学の書物。そして、あの戦場で、あらゆる攻撃を無効化した魔術師〝ヴォルフ〟。あの魔法を打ち破る術を、必ず見つけ出さなくてはならない。辺境から帰還して以来、シミアが日夜考え続けていることだった。
「ええ、多分行くと思うわ」
「……なら、私も行く」
トリンドルは、小さく付け加えた。それは、まるで自分自身に言い聞かせるような響きだった。「負けてなんかやらないんだから!」と。
ミリエルは、周囲の生徒たちと二、三言挨拶を交わした後、何気ない素振りを装って、コーナを連れてシミアとトリンドルの元へと歩み寄ってきた。
「シミアさん、トリンドルさん」
「女王陛下」
シミアは、完璧な礼儀作法で挨拶を返した。対照的に、トリンドルの顔には、あからさまな不満が浮かんでいる。
「これからは学院内で、私のことを『ローレンス先生』と呼びなさい」
ミリエルは、にこやかに言った。
「誰があんたの授業なんかに出るもんですか」
トリンドルが、ミリエルの作り上げた和やかな雰囲気を、容赦なく断ち切った。
「あら? 来ないのかしら、トリンドルさん?」
ミリエルの視線が、トリンドルを通り越し、シミアへと注がれる。その瞳には、〝獲物〟を前にした狩人のような、確信に満ちた光が宿っていた。
「構いませんわ。シミアさんは、必ず来てくれるわよね? あなたのために、特別に魔法の根源についての講義を用意したの。この世界の真実を理解する上で、きっと、まったく新しい視点を提供できるはずよ」
トリンドルには何のことかさっぱりだったが、シミアは完全に理解したようにこくこくと頷いている。それが、トリンドルを無性に苛立たせた。
「はい、とても興味があります」
その時だった。ミリエルが、勝利を宣言するかのような視線を、ちらりとトリンドルへ向けたのを、彼女は見逃さなかった。
トリンドルは、忌々しげに眉をひそめ、すぐさま反撃に出る。
「シミア! 今晩、時間ある? 新しく見つけた魔法のコツ、見せてあげたいんだけど!」
「ええ、いいわよ」
シミアは、間髪入れずに頷いた。
ミリエルの得意げな表情に、さっと影が差した。
「では、今日はこの辺で」
彼女は、早々に会話を打ち切った。「神話学の授業で、またお会いしましょう」
こうして、二人の少女の、火花散る無言の対峙の中、後に学院全体を席巻することになる〝神話学〟は、その幕を開けたのだった。