雨中の少女たち
空はどこまでも晴れ渡り、綿菓子のような白雲が青いキャンバスをゆっくりと流れていく。
王都の商業通りは、いつもと変わらず活気に満ちていた。シミアとシャルは手を繋ぎ、賑やかな人波をかき分けて進む。
「シミア様、一晩泊まるだけで銀貨八枚もするこの王都で、こんなに安いお野菜が手に入るなんて、信じられません!」
シャルは、二つの籠にぎっしり詰まった〝戦利品〟を眺め、幸せそうに顔を輝かせた。これらの食材が、シメール様とシミア様の前で美味しい料理に変わるのだと思うと、彼女の足取りは自然と軽やかになる。
「そうね……銀潮連邦の商人が入ってきたのは、民にとっては良いことなのかもしれないわ」
シミアは静かに応えながらも、脳裏に女王ミリエルの苦々しい表情が浮かび、無力感に襲われる。
経済のことはさっぱり分からない。けれど、ミリエルのあの表情の意味は分かる。コルヴィーノの、一見親切そうな提案は、間違いなく王国の心臓に突き立てられた、毒塗りの刃なのだ。
「もちろんですわ、シミア様」
シャルが、不意に足を止め、シミアの前に回り込んで立ちふさがった。
「シミア様、私たち……もう、そろそろいいんじゃないでしょうか? これ以上、危険なことに関わるのは、やめにしませんか?」
突然の言葉に、シミアは虚を突かれた。
「私たちの、最初の夢を覚えていらっしゃいますか?」
シャルはシミアの瞳をじっと見つめる。その表情はどこまでも真剣で、どこか懇願するような色を帯びていた。
「二人で一緒に、小さなパン屋さんを開いて、この王都で暮らすんです。もう、〝シャル厨房〟の稼ぎだけでも、私たち二人なら十分にやっていけます。将来、シミア様が……その、恋人ができたとしても、三人一緒なら、きっと幸せに暮らせますわ」
「だから……」
シャルの瞳に、じわりと涙が滲んだ。
「あの時、辺境で、もう二度と会えないかと思いました……怖かった……シミア様と、離れ離れになるのが……!」
「シャル……」
ぽろぽろと零れ落ちる涙を見て、シミアの心は、まるで陽だまりに置かれた氷のように、あっという間に温かい液体へと溶けていくのを感じた。
頷いてしまいたい。今すぐに、彼女の願いを聞き入れてあげたい。
だが、脳裏に、いくつもの光景が勝手にフラッシュバックする。
自分を〝騎士〟だと信じて疑わない、トリンドルの期待に満ちた眼差し。
「我々を勝利に導いてほしい」という、シメールからの重い託付。
疑念から全幅の信頼へと変わり、指揮権をその手に委ねてくれた、ミラー将軍の確かな言葉。
そして最後に、深夜の図書館で、王国と自分自身の未来を、震える両手で託してきた、ミリエルの姿が。
これらすべてを投げ出して、自分だけの、ささやかな幸せを追い求めてもいいのだろうか?
心が激しく揺れ動き、答えを口にしかけた、その瞬間だった。
ぽつり、と。
冷たい水の雫が、何の兆候もなく、彼女の頬を滑り落ちた。
シミアが不思議に思って空を見上げると、さっきまで一点の曇りもなかったはずの青空が、いつの間にか分厚い薄灰色の雲に覆い尽くされている。
次の瞬間、大粒の雨が、ぱらぱらと音を立てて降り注いできた。
「シミア様、こちらへ!」
シャルが彼女の手を引き、まだ開店前の店の軒下へと駆け込む。二人がその〝安全地帯〟に足を踏み入れた途端、滝のような豪雨が通り全体を叩き、街は阿鼻叫喚の渦に包まれた。
シャルからハンカチを受け取り、濡れた頬と黒髪を拭いながら、同じように身なりを整えるシャルに目をやる。お互いのずぶ濡れの姿に、思わず顔を見合わせて苦笑した。
その時だった。
シミアの視界の端が、信じられない光景を捉えた。
雨が世界を叩きつけ、視界を白く煙らせる中、幼い少女が、たった一人で通りの真ん中に立っていた。
目を閉じ、両腕を広げ、天を仰いでいる。
まるで、雨に打たれているのではない。この唐突な豪雨を、全身で抱きしめ、享受しているかのようだ。
滝のように流れる、純白の長い髪は、すっかり雨に濡れそぼり、その小さな体にぴったりと張り付いていた。
「あの子……!」
シミアは、考えるより先に体が動いていた。躊躇いなく、土砂降りの中へと飛び出していく。
雨水が、あっという間に髪を濡らし、裾の長い制服がずしりと重くなる。
構わず少女の元へと駆け寄り、その氷のように冷たい手首を掴んだ。
少女が、驚いて目を開く。
それは、雨上がりの空のように澄んだ、淡い灰青色の瞳だった。
「待って……」
か細い声は、囂しい雨音に、掻き消されてしまった。
シミアが少女を軒下まで引き戻すと、シャルがすぐにハンカチを持って駆け寄ってきた。
「もう、シミア様ったら! いつも後先考えずに、こういうことをなさるんですから!」
シャルは、心底心配そうに文句を言いながらも、まずはシミアの頬の雨粒を拭ってから、そのハンカチを手渡した。
シミアはハンカチを受け取ると、静かに自分を見つめる白髪の少女へと向き直った。
びしょ濡れの自分の髪はそのままに、まずは屈み込み、シャルの体温が残るハンカチで、少女の頬と前髪を、優しく、丁寧に拭ってあげる。
「ごめんね、シャル」
頬を膨らませる家族に謝ってから、白髪の少女に向き直り、柔らかな声で尋ねた。
「大丈夫? そんな風に雨の中に立っていたら、風邪をひいてしまうわ」
「雨は……リアンドラを傷つけない」
少女は無表情のまま答え、その灰青色の瞳で、心配そうに自分を見下ろすシミアの顔を静かに映した。
「リアンドラちゃん、お母さんは?」
シャルが尋ねる。
「お母様は、雨が止んだら、迎えに来てくれるって」
「雨が止んだら?」
シミアは空を見上げた。春の雨は、しとしとと降り続き、止む気配はまるでない。
「この雨、すぐには止みそうにないわ。お家はどこ? お姉さんが送っていってあげましょうか?」
リアンドラは答えず、ただくるりと背を向け、再び雨の幕を見つめた。
まるで、無言の号令を受け取ったかのように。
さっきまで衰える気配のなかった豪雨が、次第に勢いを弱めていく。
一分も経たないうちに。
まるで奇跡のように、雨が、ぴたりと止んだ。
華やかな紫色のドレスをまとった一人の女性が、雨に濡れた石畳を踏みしめ、優雅にこちらへ歩いてくる。
そのドレスの裾も、結い上げた髪も、一滴の水気さえ帯びていない。まるで、先ほどの豪雨が、彼女の登場を彩るための、ただの舞台装置であったかのようだ。
ごく普通の母親にしか見えないのに、そのドレスの着こなしや、優雅な立ち居振る舞いは、シミアに、完璧な作法を教える学院の礼儀作法の教師を思い出させた。
「リアンドラ」
「お母様」
女性はリアンドラのそばに歩み寄ると、心配そうに娘の様子を確かめてから、ようやくシミアとシャルに視線を向けた。
その顔には、完璧で、非の打ちどころのない笑みが浮かんでいる。
だが、その笑みは、まったく瞳に届いていなかった。
「申し訳ございません、娘がご迷惑をおかけしたようで。本来であれば、きちんとお礼を差し上げるべきなのですが、あいにく私ども、王都に着いたばかりで、まだ仮の住まいも探している最中でして……」
彼女は、少しだけ考える素振りを見せた後、何かを思いついたように言った。
「そうだわ。もし機会がございましたら、ぜひ〝深海商会〟へいらしてください。私の名前、ヴァンナ・クロウェルと伝えていただければ、誰かがお二人をご案内いたしますわ」
シミアとシャルは、謎めいた母娘が手を繋ぎ、通りの向こうへと消えていくのを、ただ黙って見送った。
そして、ようやく、ゆっくりと帰路についたのだった。