女王の悪夢(下)
午後、厚い雲がぎらつく太陽を覆い隠し、王家図書館の光は柔らかさを増していた。
開け放たれたゴシック様式の縦長窓からそよ風が吹き込み、古い紙の香ばしさが、空気中に漂うほのかな紅茶の香りと混じり合う。
すべてが、穏やかで心地よいはずだった。
なのに……。
ミリエルは目の前の光景に、こめかみがぴくぴくと痙攣するのを感じていた。
向かいのソファでは、トリンドル・エグモントが満足げな猫のように、シミアの肩に親しげに頭を預けている。それどころか、その両手はここぞとばかりにシミアの腕に絡みつき、本来なら自分のものであるはずの温もりを、遠慮なく独り占めしていた。
空中で二人の視線が交錯すると、トリンドルの口の端が、隠す気もない、勝利者の笑みを形作った。
ミリエルはティーカップを握る手に力を込める。指の関節が白く浮き上がった。
「ごめんなさい、ミリエル。今日だけ、お願いできないでしょうか? トリンドルも一緒に」
シミアの申し訳なさそうな声が、まるで冷水のように、女王の胸に燃え盛る怒りの火を、ひとまず鎮めてくれた。
「……ええ、もちろんよ」
ミリエルは、しばらく呆然とした後、歯の隙間からようやくその言葉を絞り出した。
トリンドルの体が、さらにシミアに密着するのが見えた。少女の曲線をなぞる制服の胸元が、トリンドルの頭の重みで、わずかに形を変えている。
(この女狐……! 見せつけているのね……!)
ミリエルの怒りが、再び燃え上がった。
「ただ……後ほど賓客がいらっしゃいますから、その時は、くれぐれもTPOを弁えてちょうだい」
「トリンドル……」
シミアが、小声で窘める。
「はいはい、女王陛下」
トリンドルは気だるげに返事をすると、すぐさま、当然といった態度で、シミアの前に置かれていたカップを手に取った。ミリエルが彼女のために、心を込めて淹れた紅茶だ。それを、我が物顔で飲み干していく。
ミリエルの堪忍袋の緒が、ぷつんと切れそうになった、その時。
コーナの声が、扉口で響いた。
「ミリエル様、銀潮連邦のコルヴィーノ様がお見えになりました」
ミリエルは、ふぅ、と深く息を吸い込み、全ての感情を無理やり押し殺す。そして、完璧な、君主としてのポーカーフェイスを貼り付けた。
「お通しして」
華美な絹の長衣をまとい、鼻眼鏡をかけた痩身の男が入ってくる。灰色がかった短髪は、踏みつけられた雑草のように乱れていた。その無頓着な髪型は、手に抱えた、長短様々な付箋がびっしりと貼られた、分厚い帳簿と、鮮やかな対比をなしていた。
「女王陛下、このような時間にお邪魔して、大変申し訳ございません」
男は片膝をつく。だが、その視線は鷹のように鋭く、素早く下から上へと、その場にいる全員を舐めるように見渡した。「もしよろしければ、陛下と二人きりで、お話を伺えればと」
「その必要はありませんわ、コルヴィーーノ殿。ここは玉座の間ではありませんし」ミリエルは、隣で真剣な表情を浮かべるシミアと、まだ寝たふりを続けているトリンドルを一瞥する。「彼女たちは、部外者ではありませんから」
コルヴィーノが立ち上がる。レンズの奥の双眸は、刃のように鋭かった。
「女王陛下。本日より、ローレンス王国と銀潮連邦の間で、〝包括的自由貿易協定〟を締結すること、お許し願えませんでしょうか?」
ほとんど命令に近い口調。ミリエルの胸の内で、ようやく鎮めたはずの炎が、再びちろちろと燃え始めた。
「理由をお聞かせ願えるかしら?」
「では、単刀直入に申し上げます、陛下」
コルヴィーノは帳簿を開いた。乾いた紙が擦れる音が、静かな図書館にやけに大きく響く。
「フラッドの反乱を平定された後、貴国の国庫は……おそらく、もう底をついているのでは?」
女王に反論の機会を一切与えず、彼は、感情の欠片もない、平板な口調で、王国最高機密であるはずの数字を、公開処刑のように読み上げ始めた。
「まず、王宮の経費。今月、王室関係者および侍従への俸給、金貨二百十三枚。食費、灯火、その他消耗品、金貨百八十七枚」
ミリエルの指先が、ぴくりと震えた。数字が、恐ろしいほど正確だ。シミアが心配そうな視線を投げかけてくるのを感じる。そのせいで、頬が微かに熱くなる。君主としての威厳が、強風に煽られた危楼のように、ミシミシと終末の警報を鳴らしていた。
コルヴィーノは帳簿から顔を上げ、眼鏡を押し上げた。
「次に、軍事費。これが最大の支出です。王都近衛軍への給与、およそ金貨二千枚。辺境戦争における弔慰金、武器の損耗および装備の維持費、約二千五百枚」
「辺境」という言葉に、寝たふりをしていたトリンドルが、ぱちりと目を開いた。
彼女はシミアの腕を離し、すっと背筋を伸ばす。その海色の瞳に、もはや眠気の欠片もない。あるのは、氷のように冷たい警戒心だけだった。
シミアの心も、ずしりと重くなった。財政のことは分からない。だが、戦争の論理は分かる。前線に立つ一人の兵士の背後には、何台もの馬車と、何人もの兵站官がいる。金貨二千五百枚という数字の裏には、無数の兵士の血と、王国のけちな蓄えが隠されている。コルヴィーノは報告しているのではない。数字という凶器で、女王の血塗られた、癒えぬ傷口を抉っているのだ。
「支出の合計は、四千九百枚金貨」
コルヴィーノは帳簿の前半を閉じ、宣告するような口調で言った。
「対して、陛下の収入は? フラッドが失脚した後、南部農耕地帯からの税収は、ほぼ途絶えたと言っていい。辺境に関しては……」彼の視線が、意味ありげにトリンドルをちらりと見た。「エグモント家からの今年の税金も、おそらく期限通りの納付は難しいでしょうな?」
「このような、冷たい数字をお聞きになるのは、お好きではないでしょう」コルヴィーノは帳簿を閉じ、抜け目のない商人の笑みを浮かべた。「協定を結んでいただければ、毎月、我々銀潮連邦から千から千五百枚の金貨が、安定した税収として貴国にもたらされます。お望みであれば、王室に無利子の融資をご提供し、目下の急場を凌いでいただくことも可能です」
シミアは、複雑な帳簿の内容は理解できない。だが、目の前の男が、一見〝親切〟に見えるやり方で、ローレンス王国に〝依存〟という名の見えざる首輪をはめようとしていることだけは、はっきりと感じ取れた。
「……検討します」ミリエルの声は、少し掠れていた。
「結構です。この間、我々は王都に滞在しておりますので」コルヴィーノは帳簿を抱え、ミリエルに深々と頭を下げた。「もちろん、早くご決断いただければ、それだけ早く税収を手にできる。陛下にとって、悪い話ではないと存じますが?」
コルヴィーノは立ち上がり、開かれた扉へと向かった。
去っていく背中を見送りながら、ミリエルは全身から力が抜けていくのを感じた。
「ミリエル、大丈夫?」シミアが、気遣わしげに声をかける。
しかし、その言葉が終わるか終わらないかのうちに、トリンドルが再び、所有権を主張するように、彼女の腕にぎゅっとしがみついた。
シミアの関心は、トリンドルのその行動に、静かに奪われていった。
「……ええ、大丈夫よ」
目の前の光景を前に、ミリエルは苦々しい笑みを、無理やり浮かべた。
「お二人とも、お戻りなさい。この件は、わたくしが何とかしますから」
トリンドルは、ミリエルの強がる様子を見て、勝利者だけが知る微笑を口元に浮かべた。
「シミア、私、少し眠くなっちゃった。帰りましょう」
「でも、ミリエル……」
シミアはまだ何か言いたそうだったが、トリンドルに有無を言わさず腕を引かれ、立ち上がらされた。
ミリエルは、強がって二人を見送った。
図書館の扉が、再び閉ざされる。
彼女は、ゆっくりと机の前へと戻った。
シミアのために用意した紅茶は、トリンドルに飲み干されていた。
そして、自分自身のカップは、とっくに冷え切っている。
残っているのは、淡く、か細い茶の香りだけ。
拳を、固く握りしめた。
三つの悪夢が、脳裏をよぎる。
荒れ野の怪しい夢。
コルヴィーノからの恫喝。
そして、トリンドルの敵意に満ちた挑発。
三つの大山が、彼女の上にのしかかり、息もできないほどだった。
ばっと立ち上がり、図書館の扉へと駆け寄る。扉の前には、心配そうな顔をしたコーナが立っていた。
「ミリエル様……」
「ごめんなさい。午後は、少し休ませていただくわ。公文書は……また明日に」
そう言うと、彼女は、自分自身と全世界を、分厚い氷原木の扉の向こうに、叩きつけるように閉じ込めた。