女王の悪夢(上)
王家図書館。
春の陽光が、巨大なドーム天井を通り抜け、光の柱となって降り注いでいる。
無数の細かな塵が、その光の中でゆっくりと舞っていた。
ミリエルは、コーナが淹れてくれた新しい紅茶を味わっていた。
繊細な香りと柔らかな味わいが、書類仕事で疲弊した精神を、束の間癒してくれる。
向かいの席では、コーナが決済の終わった報告書を静かに分類し、ファイリングしていた。
それは、二人にとってごくありふれた日常の一コマだった。
ミリエルはティーカップを置き、何気なく次の一通を手に取った。
しかし。
報告書のタイトルに目を通した瞬間、指先からすっと温もりが奪われ、氷のように冷たくなった。
『辺境の灰の荒れ野における、近期の異常拡大に関する研究報告書』
心臓が、どくん、と大きく脈打ちを一つ飛ばす。
古書の匂いと紅茶の香りが混じり合った、この馴染み深い空気。
それが今、何か不吉なものに汚されたかのようだ。
――骨灰のような乾いた焦げ臭い匂いが、報告書の紙の間から、じわりじわりと滲み出してくる。
鼻腔へと、流れ込んでくる。
息が、止まった。
無理やり視線を下へと動かす。
綴られた一文字一文字が、赤熱した烙印のように、網膜に焼き付いていく。
……辺境戦争終結後の三日間で、灰の荒れ野は外部へ向かって十一歩拡大した。内訳は、〝白王〟ヴォルフが戦略級魔法を行使した初日に四歩。その後二日間で……。
……過去の記録によれば、荒れ野の拡大は戦略級魔法の使用頻度と正の相関関係にある……。
……直近一年間で、荒れ野はアム村の遺跡を完全に飲み込んだ。このまま抑制しなければ、二百年以内に、辺境地域全域がその領域に覆い尽くされるだろう……。
「十一歩」「飲み込んだ」「覆い尽くされる」……。
冷たい単語が、脳内で溶け合い、再び組み合わさっていく。
動き出す、灰色の地獄絵図となって。
気づけば、またあの生温かい灰の上に素足で立っているような感覚に陥っていた。
死の領域が、ゆっくりと、しかし確実に、こちらへ這い寄ってくるのを、ただ呆然と見ていることしかできない。
「どうかなさいましたか、ミリエル様?」
コーナが、その異変に気づき、心配そうに問いかけた。
ミリエルは答えず、ただ報告書を彼女に差し出した。
真っ青になった頬が、内心の恐怖を隠しきれていない。
注意深く読み終えたコーナも、考え込むように頷き、眉をひそめた。
「父のメモによりますと、荒れ野に関する報告書は、毎年届けられていたようです。ただ……ここ十数年の拡大速度は、確かに異常なほど速まっていますね」
ミリエルが顔を上げると、一片の雲が太陽を覆い隠した。
まるで、あの鉛色の空のように。
灰の中心にいた、あの人影。
そして、拡大を続けるあの荒れ野は、自らの力でこちらへ向かって歩いてきている。
そう思うと、ミリエルは骨の髄から震え上がるような戦慄を覚えた。
「荒れ野の中央にあるのは、本当に……巨獣の遺骸なのでしょうか?」
声が、ひどく乾燥していた。紙やすりで擦ったようにざらついて、不快だった。
「神話によれば、遺骸の大部分は、十一英雄がそれぞれの国へ持ち帰ったはずです」
コーナは、静かに首を横に振った。
ミリエルは、テーブルの隅から例の鹵獲品――〝砕魔の短剣〟を手に取った。
ゆっくりと鞘から引き抜くと、冷たい刃の表面が、憂いに満ちた彼女の銀色の瞳を映し出す。
(この短剣にも、あの化け物の骨が……)
幽緑の光を放つ目。
絶えず灰を零していた、あの怪物。
その姿が、脳裏に鮮やかに蘇る。
ミリエルは、短剣を勢いよく鞘へと押し戻した。
夢の中、洞窟の奥深くで響いたあの言葉が、再び頭の中でこだまする。
最後の審判のように。
「ここは……お前を歓迎しない」
あの冷たい声が、夢と現実の境界を突き破ってくるようだ。
世界中から拒絶されるような、身を切るほどの孤独。
ミリエルは激しく首を振り、この不吉な幻聴を追い払おうとした。
「この件は……シミアの〝黄金の回廊〟計画にも影響を及ぼすかもしれません。時間を見つけて、彼女に伝えなければ」
彼女は小さく呟いた。
自分自身を飲み込もうとする恐怖に、別の誰かの名前を盾にして、必死に抗っているかのようだった。
「では、この報告書は、どのように処理いたしましょうか、ミリエル様?」
ミリエルは報告書に目を落とした。
世界が〝崩壊〟へと向かっていると告げる一行一行を眺めていると、今までに感じたことのない無力感に襲われる。
彼女は、長い間黙り込んでいた。
コーナが、自分の質問を忘れられてしまったのではないかと思うほど、長く。
やがて、彼女はゆっくりと口を開いた。
その声には、自分でも気づかないほどの疲労が滲んでいた。
「……保留に、しておいてください」
コーナは、驚いて彼女を見つめた。
今年に入ってから、彼女の女王が、報告書の決裁を保留にしたのは、これが初めてだった。
午前中、王家図書館は不安な静寂に包まれていた。
ミリエルはそれ以上、どの公文書にも手をつけようとしなかった。
ただ静かに、冷たい指先で座っているだけ。
荒れ野の灰が、まるで夢を突き抜け、現実の世界にまで舞い込んできたかのようだ。
骨の髄まで冷え切っていくような、無力感が全身を支配していた。
コーナは、ただ心配そうに、しかし何も言えずに、その傍らに佇んでいた。
午後になろうかという頃、一人の近衛兵が来訪を告げた。
銀潮連邦の特使、コルヴィーノが謁見を求めている、と。
ミリエルの思考が、中断される。
その名には聞き覚えがあった。
以前、何かの謁見の際に、主席特使の後ろに影のように控えていた、あの寡黙な男。
なぜ、彼が一人で?
どう応対すべきか、考えを巡らせていた、その時だった。
一つの考えが、まるで一筋の陽光のように、心の中の暗雲を突き抜けた。
(……そうだわ。外国の使節と会うのであれば、シミアに同席してもらうのも、当然のことでしょう?)
あの人に会える。
この、終末の予言に覆われた孤独から、一時だけでも逃れられる。
そう思っただけで、ミリエリルの気分は不思議なほど好転した。
彼女には、彼女の騎士が必要だった。
これから始まるであろう舌戦のためだけではない。
自分を再び奮い立たせるための温もりを、得るために。
「コーナ」
その声には、女王としての活気が、ほんの少しだけ戻っていた。
「すぐに学院へ。シミア・ブルームをこちらへお連れしなさい」
コーナが命を受けて去った後、ミリエルは自らティーセットの前へと歩み寄った。
そして、心を込めて、これから訪れるであろう、彼女の唯一の騎士のために。
慰めをもたらしてくれる、一杯の紅茶を淹れ始めた。