キッチンは戦場なり
早朝の陽光が、領主学院の庭を柔らかな金色に染め上げていた。
シメールとシャルが共に暮らす、キッチン付きの寮の一室。
そこでは、ささやかな祝宴が賑やかに繰り広げられていた。
バターが高温で溶ける、暴力的なくらいに甘い香りが部屋に満ちている。
シャルはオーブンをじっと見つめていた。
額に滲んだ細やかな汗が、炉の火に照らされてキラキラと光っている。
まるで厨房こそが彼女の世界であるかのように。
生地の弾力と、オーブンの火加減に、全神経を集中させていた。
その背後では、シミアが不器用な手つきでテーブルの片付けを手伝っている。
使い終わった天板を流し台のそばに置こうと、わずかに身をかがめる。
すると、少し窮屈そうなメイドのエプロンが、少女の密やかに成長しつつある、しなやかで美しい曲線を浮かび上がらせた。
レインは息を呑んだ。
「レインさん? どうかしましたか?」
頬を赤らめながら立ち上がったシミアと、呆然としていたレインの視線が、ばっちりとかち合った。
ふわりと香る、彼女の甘い体香。
焼きたてのパンが放つ温かい小麦の香り。
二つが混じり合い、有無を言わさずレインの鼻腔へと飛び込んできた。
(……気のせいか? 国境から戻ってまだそんなに経っていないのに、彼女の体は……また、成長してないか?)
危険な考えが頭をもたげた瞬間、レインは全力でそれを飲み込んだ。
慌てて視線を逸らし、わずかに震える声で答える。
「い、いえ、何でも! シミアさんとシャルさん、なんだかお忙しそうなので。本当に、手伝わなくて大丈夫ですか?」
「え? もちろんですよ」
シミアは困ったように微笑んだ。
「シャルが、調理器具には一切触らせてくれなくて……。だから、実際に忙しいのは、彼女だけなんです」
そうは言いつつも、彼女はすぐに踵を返し、シャルの元へと駆け寄っていく。
〝料理長〟の次なる指令を待つために。
レインの視線が、シミアがたった今置いたばかりのパンの皿に落ちた。
ふっくらと丸く、食欲をそそる艶を放つパンの数々。
なぜだか、脳裏をよぎったばかりの、同じくらい素晴らしい〝何か〟の光景と重なって見えた。
その時だった。
背後から、氷のように冷たい、殺気じみた視線が突き刺さった。
心に芽生えた邪な念は、その一瞥で完全に消し炭にされた。
錆びついたロボットのように、ギギギ、と音を立てんばかりに首を回す。
視線の先には、トリンドルがいた。
その海色の瞳には、「不機嫌」という文字がデカデカと書かれている。
「……御者」
トリンドルの声は小さい。だが、冬の氷柱のように鋭い。
「今、私のシミアに、何か良からぬことを考えていたんじゃないかしら?」
すぐに否定したかった。
だが、小麦の香りをまとったシミアの微笑みが、甘い毒のように脳裏にこびりついて離れない。
レインは、でんでん太鼓みたいに激しく首を横に振ることでしか、その光景を振り払えなかった。
「ふん、最低ね」
トリンドルがレインの前に歩み寄り、二人にしか聞こえない声で警告する。
「もしシミアに、これ以上いやらしい考えを抱いたら……どうなるか、分かっているわよね?」
真っ青になったレインは、ぶんぶんと首を縦に振る。
その様子に満足したのか、トリンドルは軽く鼻を鳴らし、キッチンの方へと向かっていった。
レインは、罪を赦されたかのように安堵のため息を漏らした。
視線を転じると、隅の方で柔らかい布を使い、愛剣の手入れをしていたシメールと目が合った。
シメールの口の端に、楽しんでいるような、いないような、曖昧な笑みが浮かんでいる。
「レイン。トリンドルお嬢様は、本気だと思うわよ」
「……分かってます」
彼は力なく答えるしかなかった。
……。
午後。庭の芝生には柔らかなブランケットが敷かれている。
トリンドルはシミアの膝枕を心ゆくまで満喫し、この上なく満ち足りた表情を浮かべていた。
一方、料理長であるシャルは、まるで最終審判を待つ芸術家のように居住まいを正し、皆に昼食の感想を求めていた。
「シミア様、本日のパンは、いかがでしたでしょうか?」
「うん……とっても美味しいんだけど」
シミアは、じっくりと味を思い返しながら言う。
「でも、何かが少しだけ足りないような、そんな気がするの」
「シメール様は?」
「今日のパンは、おそらくサンドイッチのような〝融合〟の路線を目指したのでしょう」
シメールは少し考えた後、彼女らしい、明晰な論理で分析した。
「ですが、パンの神髄は純粋さにあり、サンドイッチの魅力は複合的な味わいにあります。それは、剣術と力任せの剛腕が、まったく別のものなのと同じです」
シメールの例えに、シャルの目が輝いた。
彼女はすぐに小さな手帳を取り出し、その言葉を真剣な面持ちで書き留めている。
「レインさんは、どう思われますか?」
シミアが、先ほどから隅の方で読書するふりをしている少年に、話を振った。
レインは本から顔を上げた途端、シミアの膝の上から突き刺さる鋭い視線を感じた。
彼は一つ咳払いをし、慎重に言葉を選ぶ。
「今日のランチは……どれも、すごく美味しかったです」
トリンドルの眉間のしわが、すっと消える。
それを見て、レインは吊り上げられていた心臓がすとんと落ちるのを感じた。
「もしよろしければ、どうかご遠慮なさらず、ご意見をお聞かせください、レインさん」
だが、シャルはノートを胸に抱き、知的好奇心に満ちた、キラキラと輝く瞳で彼を見つめてくる。
「あなたの意見は、私の成長にとって、とても重要なんです!」
「そ、それじゃあ……」
レインはもう一度、トリンドルの様子を盗み見る。
彼女は目を閉じ、シミアに頭を撫でられており、特に〝禁止〟の指令を発する気配はない。
彼は、すぅ、と息を吸った。
その瞬間、レインの雰囲気ががらりと変わる。
おどおどした態度は消え失せ、プロフェッショナル特有の、鋭い眼差しになった。
「クッキーはもっとサクサクした食感の方がいい。バターの配分を見直す必要があるかもしれない。メインのパンは、中の具が多すぎて、中心部と外側で火の通りが均一になっていない。全体の調和を損ねている。スープの風味は単調だ。根菜類を加えて甘みを足せば、もっと味に深みが出るはず。あのパスタに関しては、火加減も味付けも文句なしだった。完璧だ」
シャルは猛スピードでメモを取りながら、感心したように彼を見上げた。
「さすがはエグモント家の専門家ですね、レインさんはお料理にもお詳しい!」
「い、いや、そんな大したことじゃ……」
レインはまた、はにかみ屋の少年に戻ってしまった。
「昔……バセス爺様から、ちょっとした〝特訓〟を受けただけですから」
思い出したくもない訓練の数々が脳裏をよぎり、レインは背筋がぞっとするのを感じた。
「ありがとうございます、レインさん」
シャルは、深々と頭を下げた。
「もしよろしければ、またいつでもいらしてください!」
「ごめんなさい、今度もまた、シャルの手伝いに来てあげてくださいね」
シミアも微笑みながら、レインに感謝を伝えた。
「わたくしは、小さい頃からずっとシャルの料理を食べているので、もうあまり役に立つ助言ができないんです」
彼女が感謝を伝えようと、わずかに身をかがめる。
その誠実な態度に、レインの心はかき乱された。
そして彼の視界の端には、信じられない光景が映っていた。
シミアの膝の上で微睡んでいたはずの金髪の少女が、カッと目を見開き――。
身をかがめたことでシミアの胸元に生まれた、僅かな隙間。
その景色を、強い独占欲を宿した瞳で、凝視している。
言葉にできない憤りが、レインの胸に込み上げてきた。




