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ゼロから始める軍神少女  作者:
第二巻 プロローグ:荒れ野の夢
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プロローグ:荒れ野の夢

空が、死んでいた。

雲ひとつない。見渡す限りの鉛色。

無数の灰が、しんしんと降り注ぐ。

まるで神が流す、悲嘆の涙のように。


ミリエル・ローレンスは、その死の荒れ野に素足で佇んでいた。

空気には乾いた匂いが満ちている。骨灰を思わせる、焦げ臭い匂い。

視界のすべてが、分厚い灰に覆い尽くされていた。

純白のネグリジェだけが、この灰色の世界で唯一の色だった。


風が、地上の塵を巻き上げ、その身の回りを渦巻く。

そして、一つの泣き声を運んできた。

絶望に満ちた、胸が張り裂けんばかりの少女の慟哭。


か細い声。

だが、それは見えざる針となり、ミリエルの魂の奥深くに突き刺さる。

その孤独と絶望には覚えがあった。

まるで、どこかに置き忘れてきた自分自身の悲鳴のようだ。


この痛みから逃げ出したい。

なのに、足が動かない。

泣き声に引かれるマリオネットのように。

無意識に、ゆっくりと、一歩を踏み出していた。


声の源に近づくほど、共鳴は冷たい恐怖へと変わっていく。

実体を伴った恐怖だ。

見えない手に、喉をぐっと締め付けられるような。

その声の主に行き着くのが怖い。その先にある真実を見るのが、怖い。


思わず、振り返る。

背後、歩いてきたはずの地面。

そこに刻まれたはずの浅い足跡は、降り積もる灰に次々と掻き消されていく。

この灰の世界で、戻る道など見つけられはしない。


選択肢は、なかった。

勇気を振り絞り、再び前へ。

不安と好奇心が、胸の中で激しくせめぎ合う。

一歩一歩が、まるで刃の上を歩くかのようだ。


泣き声は、どんどん鮮明になっていく。

息が詰まるほどの苦痛が、心臓を握り潰さんばかりに迫ってくる。

空の色も、歩みを進めるにつれて、一層深く沈んでいく気がした。


やがて、足を止めた。


小さな嵐の中心。

灰に侵されていない、孤島のような草原。

そこに、ぼんやりとした輪郭が立っていた。

世界に忘れられたような、孤独な白い輪郭が。


近づいた瞬間、嵐がぴたりと止んだ。

未知の白い物質でできたその人影は、背を向けたまま、絶望の悲鳴を上げていた。


「あなたは誰? ここはどこ? どうして、泣いているの?」

ミリエルは、探るように声をかけた。


慟哭が、ぷっつりと途絶えた。

人影が、ゆっくりと振り返る。

その体の表面から、灰がぱらぱらと剥がれ落ちていく。

だが、灰は瑞々しい草地に着地した途端、跡形もなく消え失せた。

顔には、五感がない。

あるのはただ、深淵のような、不気味に揺らめく二つの緑色の光だけ。


その視線が触れた瞬間、好奇心は完全に砕け散った。

言葉にできない悪寒が、背筋を駆け上る。

――これは、怪物を見ているのじゃない。

深淵を、覗き込んでいるのだ。

恐怖。あの、嫌というほど馴染みのある恐怖が、こちらをじっと見つめている。


本能的に魔力を呼び起こそうとする。

だが、体の中は空っぽだった。

全身の血液が、一瞬で凍りついたかのようだ。


その〝ナニカ〟が、一歩を踏み出した。

こちらへ、向かってくる。

咄嗟に身を翻し、全力で駆け出した。

もう一秒でも長く留まれば、あの影に同化され、喰われてしまう。


背後で、さらに甲高い絶叫が響いた。

灰を巻き込んだ突風が、見えない巨腕となって迫ってくる。

振り返る余裕はない。

肺が焼けるように痛むのも構わず、ただひたすらに走った。


どれだけ走っただろうか。

泣き声は、もう聞こえない。

立ち止まり、大きく息を吸い込む。

振り返った先には、果てしない荒れ野と、しんしんと降る灰があるだけだった。


不意に、冷たい液体が頬を一滴、濡らした。

続いて、二滴、三滴……。


はっとして顔を上げる。

そこに広がっていたのは、生まれて一度も見たことのない光景だった。

――空が、雨を降らせている。

一粒一粒の雨水が、一片の灰をその内に宿している。

それらが砕け、混じり合い、汚れた黒い雨となって、土砂降りに降り注いでいた。


絶望に飲み込まれる、まさにその寸前。

視界の端に、一筋の光明が差した。

――少し離れた場所に、ぽっかりと口を開けた洞窟が!

それはまるで、終末に神が与えたもうた、最後のシェルター。

ミリエルの頭は真っ白になった。

ただ、生きたいという本能だけが、残されたすべての力を両足に注ぎ込む。

唯一の希望へ向かって、がむしゃらに突進した。


洞窟に足を踏み入れた瞬間、世界は黒い豪雨に完全に飲み込まれた。

洞窟の外に広がる地獄絵図を眺め、ミリエルはほっと息をつき、その場にへたり込んだ。


無意識に、自分を庇護してくれた洞窟の奥へと視線を向ける。

底の見えない暗闇。

まるで、巨大な獣がこじ開けた喉笛のようだ。

ぞくり、と心臓が跳ねた。

すぐに顔を背け、再び外の豪雨に目を戻す。

――少なくとも、この既知の恐怖は、未知の闇よりは、奇妙な〝安心〟を与えてくれる。


「見つけた」


唐突な声に、背筋が凍った。

しゃがれた、感情の欠片もない女の声。

洞窟の最も深い場所から、響いてくる。


「ここは……お前を歓迎しない」


その声は、まるで最後の審判。

己の罪を、断じられたかのようだ。

抗いがたい恐怖が、氷の指で心臓を鷲掴みにする。

息が、できない。


ミリエルの意識は、無限の闇へと堕ちていった。


……。


「――陛下! ミリエル陛下! ご無事ですか!」


ミリエルは、はっと目を見開いた。

抑えた悲鳴を上げ、ベッドから飛び起きる。


見慣れた寝室。

ベッドサイドの本棚。柔らかな絨毯。

空気中に漂う、ほのかな紅茶の香り。

すべてが、〝戻ってきた〟のだと告げていた。


「わ、わたくしは……大丈夫です」


慌ててそう答えると、侍女の足音が遠ざかっていく。


体の感覚が、ゆっくりと戻ってくる。

窓の外から聞こえる、途切れることのない「しとしと」という音が、彼女の注意を引いた。

窓辺に歩み寄り、それを押し開ける。

土の匂いを含んだ、湿った冷たい空気が流れ込んできた。


庭には、春の小雨がしとしとと降り注いでいた。


窓の外を落ちていく雨粒。

絶え間なく続く雨音。

その光景が、夢の中で見た、すべてを飲み込んだあの黒い雨と、重なって見えた。

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