女王の休息
ミリエルは、あの、さほど目立たない、秘密の通路へと通じる扉をそっと押し開け、学院の図書館へと足を踏み入れた。
ここは王立図書館のような壮大さや広々しさはない。高くそびえ立つ書架はまるで密林のように、陽の光を細かく砕き、ほんのわずかな光線だけが、その隙間を通り抜け、空気中を緩やかに舞う、蒲公英の種のような、細かな塵を照らし出していた。
彼女は手慣れた様子で、沈黙する書架の一列一列を抜け、図書館の入り口へと向かった。
唯一、陽光が注がれるその書斎机の前で、コーナが、一冊の、広げられた大判の本の上に突っ伏して、熟睡していた。紫色の短い髪が、少し乱れている。ひっくり返ったペン立ての傍らには、数本の羽根ペンが、ばらばらに散らばり、そのうちの一本のペン先は、書きかけの本の原稿まで、あと数ミリの距離だった。
ミリエルの口元に、気づかれにくいほどの、微笑みが浮かんだ。
彼女は、できるだけ音を立てないように歩き、あの、かつてシミアが座っていたソファの前まで来ると、膨らんだスカートの裾を持ち上げ、ゆっくりと腰を下ろした。学院のソファは、やはり、王宮のものほど柔らかくはない。体を完全に預けると、内側の、硬い木製の骨組みが、かすかに感じられた。
彼女は、何気なく、テーブルの上の本を一冊手に取った。表紙のタイトルは――『カルル・ローレンス伝』。
本の頁を開くと、インクと古い紙が混じり合った、独特の香りが、ふわりと鼻をかすめた。目に映るのは、一列一列、秀麗で繊細な筆跡。それは、カルル・ローレンスの、あの、抗争と甘美に満ちた恋愛物語を、語っていた。物語が進むにつれて、悪役令嬢エミールは、あらゆる手段を尽くし、横暴に、平民の侍女タリンとカルルの恋を、阻んでいく。そしてカルルもまた、まさにこの、一度一度の抗争の中で、勇気を奮い起こし、最終的に、自らのものであるべき継承権を、奪い返した。
物語の結末、カルルは宴会の席で、公にエミールの悪行を暴き、婚約を破棄した。まさにエミールが、衆人に裏切られ、全ての人に見捨てられた、その絶望の瞬間に、あの、かつて彼女に、最も深く傷つけられた、心優しきタリンが、しかし、敢然と立ち上がり、彼女を、自らの背後へと、庇ったのだった。
物語は、そこで、唐突に終わりを告げていた。
「……本当に、優しい物語ね」ミリエルは、小声で呟き、本を閉じた。
「うぅ……」
あるいは、その軽やかな囁きが、眠れる人を、驚かせてしまったのかもしれない。コーナが、ゆっくりと目を開けた。彼女が、ひっくり返ったペン立てと、四散した羽根ペンを見た時、瞬時に、慌てふためいた。彼女は急いで、自らが創作している原稿を点検し、インクの染みが一つもないことを確認した後、ようやく、安堵のため息を、長く一つ、吐き出した。
突然、彼女の耳元で、すぐ近くから、笑みを含んだ声が聞こえた。
「こんにちは、コーナ。どうやら、とても良い夢を見ていたようね」
コーナは猛然と顔を上げ、ソファに座り、微笑みながら自分を見ている、女王陛下の姿を見た。
「あ! ミ、ミリエル様!」彼女は、「噌」と音を立てて椅子から飛び上がり、慌てふためいて叫んだ。「わ、わたくし、すぐにお茶をお淹れします!」
「構わないわ」ミリエルは手を振り、彼女の、その少しばかり不器用な動きを、制止した。
「は、はい!」
「言ったでしょう? 私的な場では、ミリエルと、直接呼んでくれて構わないと」彼女は、興味深そうに、コーナの、その慌てふためいた様子を見ていた。ほとんど毎日、顔を合わせている彼女にとって、これもまた、得難い、新鮮な光景だった。
「そういえば、普段、シミアは、ここに座って本を読んでいるのかしら?」ミリエルは、自分の下のソファを、そっと叩いた。
「は……はい、ミリエル」コーナは彼女の前に歩み寄り、隣のテーブルを指差した。「普段、彼女は、調べる必要のある資料を、全てそこに積み上げ、そして、あなた様が今座っておられる、その場所で、目を通しておられます」
彼女の視線は、それに倣うようにミリエルへと移り、突然、彼女は、何か、この上なく恐ろしいものを見たかのように、その瞳を、猛然と収縮させた。
あの……あの、彼女が二日もかけて書き上げた、小説の第一巻が、本来なら、ちゃんとしまっておいたはずの、あの恋愛小説が、まさに、女王陛下によって、無造作に、膝の上に置かれている。
コーナは、まるで何か強烈な精神的打撃を受けたかのように、制御不能に、後ずさりを、数歩、続けた。
「あ、あの本……あ、あなた様は、お読みになられましたか?!」
「ん?」ミリエルは、合点がいかない様子で、手の中の本に目を落とした。「あなたが、もう少し長く休めるようにと思って、机の上で、一番上にあった、この本を、手に取ってみたの。なかなか、良く書けているわ」彼女は、その、手触りの良い表紙を、そっと撫で、柔和な表情を浮かべた。
「分かるわ。この本の作者は、きっと、カルル・ローレンスに対して、純粋な、傾倒の心を抱いている。人物の描写が、とても繊細で、心を動かされる。でも……」彼女は話の矛先を変え、その目に、一筋の、「読者」としての、鋭い、批評の光が閃いた。「物語の最後で、作者の重点が、変わってしまったように思うの。『愛情』から、『救済』へと。筆の墨を、タリンと、悪役令嬢エミールの関係に、より多く費やしている……それも、とても感動的ではあるけれど、やはり、どこか、主題から、逸れてしまったような気がするわね」
女王陛下の、その、まるで手術刀のように精密な評論を聞き、コーナの顔は、「サッ」と音を立てるかのように、耳の根から、首筋まで、真っ赤に染まった。
「そうだわ」ミリエルは、まるで、本来の用事を思い出したかのように、顔を上げた。「コーナ、カメル・フル先生を、私のために呼んできてくれるかしら? 彼に、カシウス先生に対する、彼の見解を、尋ねてみたいの」
「は! はい! どうか、ここで、少々お待ちください。わ、わたくし、すぐに行って参ります!」
コーナは、まるで救いの藁を掴んだかのように、一目散に、図書館から走り去った。
「もう……コーナは、今日、どうしてしまったのかしら」ミリエルは、彼女の、あの、慌てふためいて逃げていく背中を見て、小声で呟いた。その口元は、しかし、抑えきれずに、微かに、上へと吊り上がっていた。
時の流れと共に、窓の外の陽光もまた、コーナの書斎机から、ゆっくりと、ミリエルがいるソファの上へと、移動していった。彼女は体を弛緩させ、自分を、完全にソファの中へと、沈み込ませた。
あの日、自分の腕の中で、シミアの体から香った、あの、淡く、心地よい清らかな香りが、まるで、このソファの上に、まだ残留しているかのようだ。今、まさに、優しく、彼女を包み込んでいる。
彼女は、自分の前で、誓いを立てた時の、シミアの、あの、炎が燃え盛るような、この上なく真剣な瞳を、思い出した。
彼女が、自分に「奇襲」された後、あの、茫然自失で、頬を緋色に染めた、可愛らしい姿を、思い出した。
一つの、誰にも気づかれぬ、心の底からの笑みが、静かに、静かに、あの、いつも王国全体を背負う、孤独な女王の顔に、綻んだ。
読者の皆様、ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
これにて第七章は幕引きとなり、物語はついに、二つの戦場、二人の将軍が織りなすクライマックスへと向かいます。間諜の疑いがあるカシウスと対峙するシミア、そして、二人の共通の計画のために道を切り拓く女王ミリエルの一戦。
ペンを執る(キーボードに指を置く)たび、私の心の中では、まるでキャラクターたちが目の前で演じ、リハーサルを繰り返しているかのようです。私はこの物語の作者であると同時に、最初の読者でもあります。
そして、読者の皆様もまた、ただの読者ではありません。皆様も、心の中でご自身の《軍神少女》を演出し、創り上げてくださっているのだと、そう信じております。
どうか、共に、この第一巻のこれからの物語を、見届けてください。
もちろん、もしよろしければ、物語へのご感想をぜひお聞かせください。皆様からの叱咤激励が、私の前へ進む力となります!