壊れた人形の涙
濃密な夜の色が、野営地の四周を覆い尽くしていた。
馬の蹄の音はとうに地平線の彼方へ消えた。ミリィルは伝令が去った方向を凝視しながら、その口元に、ゆっくりと冷たく、そして残忍に近い弧を描いた。
「これは、私の復讐……あなたたちが好き勝手に私たちの運命を弄んだのだから、今度は、私が駒を動かす番よ……」
彼女がそう呟いた瞬間、性急な足音が背後から聞こえてきた。猛然と振り返ると、野営地の火光の中、一つの黒い影が猛スピードで駆けてくるのが見えた。その影は一本の松明の光輪を突き抜け、漆黒の長い髪が風に煽られ、次の瞬間には闇に飛び込み、そして再び光に照らされる。
その足音の主がついにミリィルの前に立ち止まった時、驚きに目を見開いた。
シミアだった。
彼女の胸は、激しい疾走のせいで急速に上下し、汗で濡れた数筋の髪が、蒼白な頬に張り付いている。一言も発さずただ、そのいつもは水面のように穏やかな瞳でミリィルを睨みつけ、一歩、また一歩と、詰め寄ってくる。
その無言の圧迫感に、ミリィルは無意識のうちに後ずさった。
「ミリィル……さん」シミアはようやく口を開いた。その声は、息が上がっているせいで、微かな震えを帯びていた。「あなた……一体、何をなさったのですか?」
その開口一番の詰問に、ミリィルの心は一瞬にして乱れた。だが、虚勢を張り、わざと、軽薄な口調で問い返した。「私は、私がすべきことをしただけよ。そ…それより、あなたこそ、シミアさん。こんな夜更けに、こんな辺鄙な場所で何を?」
シミアは彼女の問い返しを無視し、歩みを止めず、ミリィルを冷たい馬車のそばまで追い詰め、退路を断った。
「ミリィルさん、あなたには、その結果が分かっているはずです」シミアの声は冷静さを取り戻していた。だが、その冷静さは、いかなる怒りの叱責よりも、心を貫く力を持っていた。「あなたが送ったその手紙が王都に届けば、あなたの家族――ルルト家は、即座に女王陛下に対して、反逆の旗を掲げることになる」
ありえない! なぜ、彼女がここまで詳細に知っているの!?
ミリィルの心は狂ったように叫んでいたが、なおも、最後の足掻きを試みた。「何のことか、さっぱり分からないわ。私はただ……無事を知らせる、実家への手紙を送っただけよ」
「そうですか?」シミアの口元に、氷のような弧が描かれた。「我々は今朝、あなたの故郷を通り過ぎたばかりです。それなのに今、あなたは、最も緊急の軍情においてのみ使われる伝令という方法で、『無事を知らせる』手紙を送る必要があると?」一歩前に出て、二人の距離は、互いの呼吸を感じられるほどに近くなった。「ミリィルさん、今回の観摩団の中で、トリンドルさん、シメールさん、そしてあなたを除いて高い継承順位を持つ貴族の子女は、一人もおりません。あなたは本当に、あなた方のその程度の小細工が全ての人の目を欺けるとでもお思いで? ……女王陛下の目を欺けるとでも?」
シミアの一つ一つの分析が、重い槌のように、ミリィルの心を打ち据える。ようやく悟った。自分は初めから「間者」などではなく、表に置かれた、いつでも切り捨てられる「捨て駒」でしかなかったのだと。運命を弄んだ者たちを裏切ったつもりでいた。だがとっくの昔に、悪魔の導きの下、自ら進んで最も深い火の穴へと飛び込んでいたのだ。
「ミリィル」シミアの声が、和らいだ。その鋭さが消え、代わりに、心からの胸が痛むほどの憐れみの響きが加わった。「あなた方の今回の反乱は、決して成功しません。あなたの家族は、それによって滅びるでしょう。そして、あなたご自身は……あなたは、ご自分の未来を考えたことがありますか?」
その心遣いに満ちた叱責が、ミリィルの最後の防衛線を完全に打ち砕いた。目を閉じ、再び開けた時、その顔から全ての偽装は消え失せただ、歪んだ、ヒステリックな狂気だけが残っていた。
「未来ですって?!」猛然と一歩前に出ると、両手で、シミアの細い喉を死に物狂いで締め上げた!そして、彼女を冷たい馬車へと激しく叩きつけた!
「うっ!」シミアの背中に激痛が走り、抑えきれずに、悲鳴が漏れた。
「あなたに、私の未来を語る資格があるとでもいうの! この……全てを持っているあなたが!」ミリィルの力はシミアの想像を遥かに超え、その顔は怒りで真っ赤に染まり、目からは、抑えきれない涙が溢れていた。「あなたに、この痛みが分かる!? 全ての人があなたの名前を口にする時、真っ先に思い浮かべるのが、別の誰かなんていう、その痛みが! あなたが全力を尽くして成果を上げた時、高みにいる女王と比較されてようやく、どうでもいいような賛辞を一つもらえるだけなんていう、その屈辱が! あなたのような、生まれながらにして太陽の下にいる人間に、この影に喰われる絶望が、分かってたまるもんですか!」
手を離し、シミアの体が、糸の切れた凧のように滑り落ちるのをなすがままにした。だが次の瞬間、膝が横暴にシミアの両脚の間に割り込む。両手で、地面に落ちる寸前の頭を支えた。
二人の顔が、極限の距離で見つめ合う。ミリィルの温かい呼吸が、涙の塩辛い味と混じり合い、シミアの頬に吹き付けられた。
「私……」シミアの唇が動いたが、何も言葉にはならなかった。これまでずっと、ブルン家の唯一の娘であり、シャルの唯一の支えだった。前世でさえ、ずっと、クラスで最も輝く存在だったのだ。あの日までは……
「誰もが、あなたのように、簡単に全てを手に入れられると思うな!」ミリィルの言葉が、鋭い刃のように、シミアの心臓に突き刺さった。「ほんの少しの注目を得るために、私がどれほどの努力を払わなければならないか、あなたに分かる!? あなたに、私の人生をとやかく言う資格があるとでもいうの! 人を見下すのも、大概にしなさい!」
左手は荒々しくシミアの髪を掴み、右手は固く拳を握りしめる。シミアの横顔の傍らで、力のあまり微かに震えていたた。
「今ここで、魔法を使わずとも、あなたを永遠に消し去ることだってできるのよ。分かってる!?」
宙に浮いた拳を前に、シミアはしかし、ゆっくりと目を閉じ、全ての抵抗を放棄した。
「……では、どうぞ、お好きになさってください。ミリィルさん」彼女の声はとても軽かったがはっきりと、ミリィルの耳に届いた。「あの日、剣術の訓練場で、武器を持たない私に、木剣を投げてくださったのは、あなたです。あなたは、私を救ってくださった。ですから、今……あなたが、私をどうなさろうと、構いません」
その言葉は、まるで氷の欠片が入った雪水のように、ミリィルの燃え盛る怒りの炎の上に、頭から浴びせられた。
彼女の目の前に、制御不能に、数日前の光景が閃いた。あの黒髪の少女が、熱いスープを手に、自分の天幕の入り口に立っていた、少し不器用な姿が。
……まさか本当に、私が彼女を救うために、あんなことをしたとでも思っているの?
……私は、この手で……この世界で唯一、私を理解しようとし、私に歩み寄ろうとしてくれた人を殺すというの?
固く握りしめられた拳が、力なく、開かれた。髪を掴んでいた手も、力を失う。まるで、全ての骨を抜かれた砂袋のように、猛然と前に倒れ込み、その頭をシミアの首筋に埋めた。鼻腔に満ちるのは、相手の体から香る、淡く、心地よい清らかな香りだった。
「どうして? どうして、一人で会いに来たの……」ミリィルの声は、抑えきれない、崩れ落ちるような、泣き声に変わっていた。
腕の中から、か細い返事が聞こえる。シミアの呼吸が生み出す温もりが、一点一点、彼女のとうに凍てついた心を溶かしていく。
「ミリィルさんのこと、誰にも、話していませんから」
「……お願いだから、もう、間違いを重ねないで。私が、何とかしますから……私が必ず、あなたが安全に生きていける方法を見つけます。あなたの人生は、まだ、これから長いのですから」
『あなたの人生は、まだ、これから長い』
その言葉に、ミリィルはさらに声を上げて泣いた。家族に冷遇された子供時代を思い出した。誰かが、ちゃんと自分のことを見てくれるのを待ち望んでいた、幾夜もの夜を。しかし、目の前のこの少女は、自分を女王と比較などしなかった。彼女の目には、ミリィルは、ただのミリィルとして映っていた。
かつてないほどの名を「貪欲」という感情が、彼女の心の中から湧き出てきた。一つの……生き続けたいと願う、渇望が。
両腕をシミアの背中に回し、自分よりもさらに華奢なその体を強く、強く抱きしめた。
良久、泣き声が次第に収まっていった。ミリィルの頭脳は、感情の廃墟の上で、かつてないほどに明晰になっていた。ゆっくりと、慎重に、ここ数日の経験を思い返す。恐ろしい考えが、彼女の脳裏で、急速に根を張り、芽吹いていった。
「シミア……」顔を上げ、その泣き腫らした瞳で、シミアを凝視した。「気をつけて……カシウス先生に、気をつけて」
「彼が、最初に、私の目的を指摘したの」ミリィルは、背後を吹き抜ける風が、異常に冷たいのを感じた。「そして、彼が、私に、『復讐』の方法を教えてくれた」
それが、彼女が、この瞬間、シミアのためにできる、唯一のそして最後の償いだった。




