司書の秘密と、禁断の書
シミアは一つ伸びをすると、領主クラスの生徒専用の寮から一歩踏み出した。鼻をくすぐるのは、雨上がりに香る、湿った土の匂い。見渡せば、寮の区域の雪はほとんどが解け、暖かい陽光が大地を覆い、空にはまばらな白い雲が浮かんでいる。冬が、終わろうとしていた。
校舎の周りには、生徒の姿もちらほらとしかない。休日の閑散とした空気に、シミアは心が休まるのを感じた。最近は悪意のこもった視線は減ったものの、注目されることは逆に増え、普段から大量の視線を浴びる状況には、少し窮屈さを感じていた。
校舎を抜け、シミアは学校の片隅に建つ二階建ての小さな建物へと向かった。ここが、学校の図書館だ。シミアは以前、魔法の練習で気絶した際にここへ運ばれたことがある。週に二回の軍事戦略論の授業で知識を補ってはいるものの、カシウス先生が自分に期待を寄せていた言葉を思い出すと、のんびりしてはいられないという気持ちになった。時間が、シミアを待ってはくれないのだ。
今、ローレンス王国は衰弱期にある。それなのに外敵からの圧力を受けていないのは、決して偶然ではない。輝煌帝国と永遠の烈陽帝国の戦争の行方が、おそらくは大陸全体の運命を左右するだろう。
そして、女王が自分を協力者としたからには、ローレンス王国の現状はもはや楽観視できないということだ。もしかしたら、銀潮連邦と鋼心連邦はすでに行動を起こしており、彼らにとって都合のいい相手は、ローレンス王国しかいないのかもしれない。そのすべてが、シミアに危機感を抱かせていた。週に二回の軍事戦略論だけでは、到底足りない。
シミアは、その美しい二階建ての建物の前に立ち、ドアをノックした。
「少々お待ちください」
中から、女性の声が聞こえた。
しばらくして、ドアが細く開かれ、その隙間からコーナが顔を覗かせた。ふわりと漂う古書の香りと共に、コーナはドアの前に立つシミアの姿を認め、眉をひそめた。
「言ったはずだ。ここは生徒の立ち入りを禁じている、と」
コーナの言葉には警告の色が混じり、そこに宿る力に、シミアは本能的に後ずさりしそうになった。
「コーナ先生、先日は怪我の手当てをしていただき、本当にありがとうございました。今日、図書館に参りましたのは、実は先生にお伺いしたいことがありまして」
シミアは携帯していたノートを取り出し、準備していたページを開いてコーナに差し出した。
「先日、カシウス先生が狩神932年の、ローレンス王国と銀潮連邦との最後の戦争について触れていました。それから現在まで、もう二百年近く経ちますが、なぜその後、両国間で衝突が起きていないのか、知りたくて」
コーナはシミアのノートに視線を落とし、ぱらぱらと数ページをめくった。そして、あるページを見た瞬間、コーナの紫色のショートヘアがぴくりと震え、その瞳が見開かれた。
「あなた、このために来たのね?」
コーナは、あの日シミアが最初の軍事戦略論の授業で取ったノートを、シミアの方に向けて広げた。
「はい。申し訳ありません、コーナ先生」シミアは腰を折り、コーナに頭を下げた。
コーナはため息をつき、ドアが床と擦れる音と共に、扉が開かれた。
「……中に入りなさい」
コーナはシミアを、あの日彼女が横になっていたソファへと案内し、そこに座らせた。
「あなたはここに座って、むやみに動き回らないこと」コーナはソファの隣の小机に積まれた本の山を無造作に指差す。「退屈なら、この本でも読んでいなさい。わかった?」
シミアが頷くと、コーナはその表情を真剣な眼差しで確認してから、図書館の奥へと歩いて行った。
正直なところ、シミアは少し意外だった。まさかコーナ先生が、これほどあっさりと自分を中に入れてくれるとは思ってもみなかったからだ。
図書館の内部は、想像していたよりもずっと広い。ソファに座って奥を見ても、一番奥の景色は一眼では見通せない。シミアの正面には四列の本棚があり、通路を挟んで、窓際にも四列の本棚が並んでいる。どの本棚も、ぎっしりと本で埋め尽くされているようだ。
シミアの頭に、ふとある考えが浮かんだ。――もしかしたら、一番手前の列に、私が読みたい本があるかもしれない。瞬間、シミアの心臓がどきりと高鳴った。
彼女はぶんぶんと首を振り、頭に浮かんだ邪念を追い払う。
気を紛らわすために、彼女はコーナ先生が許可した本の山に視線を移した。
シミアは無造作に一冊を手に取る。表紙には『カルル・ローレンス伝』と書かれていた。シミアはその名前に聞き覚えがある。歴史の先生が授業で話していた、ローレンス王国の有名な将軍だ。
シミアは、その本を開いた。
――この本は、カルル・ローレンスと、彼の侍女タリンの恋物語である。カルル・ローレンスは血筋の濃い貴族の一員であり、一方のメイドであるタリンは、魔法の血を持たないただの侍女であった。幼い頃から、カルル・ローレンスは膨大な学業に追われていたが、侍女のタリンはいつも彼のそばで彼を慰め、二人の間には知らず知らずのうちに恋の種が芽生えていった。しかし、カルル・ローレンスの家は早くから彼の婚約者を決めており、タリンの父親もまた、タリンのために婚約者を見つけていた。二通の婚約書が、二人が結ばれることを困難にしていた。
ついに、タリンが去る日がやってきた。カルル・ローレンスはいてもたってもいられなかった。タリンが一度去ってしまえば、二度と会うことはできないだろう。そこで彼はタリンに、夜、自分の部屋に来てほしいと頼んだ。夜、ローレンスの求めに応じて、タリンは部屋を訪れた。暗い部屋に、タリンは少し寂しさを感じた。もしかして、カルルは自分のことを忘れてしまったのだろうか。そう思って帰ろうとした時、一筋の蝋燭の光が闇の中に灯り、カルル・ローレンスが燭台を手にタリンへと歩み寄ってきた。
かすかな光の中で、カルル・ローレンスはタリンに大胆な求婚をし、タリンはカルルに心を動かされ、それを受け入れた。しかし、タリンの家の馬車は翌日には彼女を迎えに来てしまう。芽生えたばかりのこの想いは、すぐに終わりを告げようとしていた。カルル・ローレンスは一つの方法を思いつく。タリンを連れて駆け落ちするのだ! 二人は夜陰に紛れて急いで荷物をまとめ、夜が明ける前に出発することを決めた。しかし、二人の計画は、カルル・ローレンスの婚約者エミールが抱き込んでいたメイドによって、見破られてしまうのだった。
……
胸が、ひどく重苦しい……。
「もし、シミア・ブレン」
体が激しく揺さぶられるのを感じ、シミアはぼんやりとした目を開けた。
コーナの不満げな表情に、シミアは一気に覚醒した。
「申し訳ありません、コーナ先生! 私……」
シミアは慌てて謝った。
「もう、眠いならここで寝てはいけないと言ったでしょう。こんな天気で風邪を引いたらどうするの?」
コーナがさらに続けようとした時、彼女の視線がシミアの胸元に向けられた。見慣れた真っ赤な表紙の本が、彼女の目に飛び込んできたのだ。
「コーナ先生?」
「シミア・ブレン?」
「は、はい?」
「あなた、その本を読んだの?」
「はい。コーナ先生が、ここの本は読んでもいいと……」シミアは先ほど本が置かれていた場所を指差した。
コーナの表情が、驚きと後悔と好奇心の間で目まぐるしく変わっていく。彼女は顔を真っ赤にすると、シミアの手から素早くその本を奪い取り、他の数冊とまとめて脇に置いた。
「コーナ先生?」シミアは少し戸惑った。なぜ、この本のことだけを尋ねるのだろう?
「そ、そうだったわ。あなた、これからは学校が休みの日に、図書館に来てもいいわよ。この件は、すでに『あの方』の許可も得ているから」
「あの方……? 本当ですか!?」
図書館を使えるという許可に、シミアの心は高鳴った。
「ええ。ただし、他の生徒や先生に見つからないように、注意すること」
「はい、コーナ先生!」
シミアは躍るような心地で、視線を一番近くの本棚に向けた。
「今日は……私、まだ少し用事があるから。あなたは早く寮に戻りなさい」
こうして、シミアは顔を真っ赤にしたコーナ先生に、図書館から追い出されるのだった。