暁の旅立ち
朝露の湿り気を帯びた微風が、頬をひんやりと撫でていく。
白み始めた暁光が王都上空の薄靄を切り裂き、普段は人影もまばらなこの通りを、冷たく透き通るような白銀の光で包み込んでいた。
だが、通りの反対側はまったくの別世界だった。シミアを見送るために集まった群衆が幾重にも重なり、交差点をすき間なく埋め尽くしているのだ。
「シミア……」平素は冷静果断なダミルの瞳にも、今は深い憂いの色が浮かんでいる。「もしこの先、我々の予想を上回る事態が起きたら、どうすればいい?」
「心配ないよ。その時は手紙で連絡を取り合おう。もし手紙を書く余裕さえないほどの緊急事態なら、皆の独自の判断に委ねる」シミアは目の前の同伴たちを見渡し、力強く断言した。「これだけの日数をかけて議論と推演を重ねてきたんだ。君たちなら、絶対に最も正しい決断を下せると信じているからね」
その言葉を引き継ぐように、クラウディアが華麗な扇で口元を半ば隠し、くすくすとからかう。
「どうしたの、ダミル? あなたはママのお世話がないと怖くて泣いちゃう赤ちゃんかしら? シミアがほんの少し席を外すだけで、もう泣きそうじゃないの」
「クラウディア、お前のその口は本当に……」傍らに立つライナスが、頭を掻きむしりながら深く、長いため息をついた。
「安心して行ってきてください、シミア」
シメールが一歩前に進み出ると、シミアの肩をそっと叩き、太陽のように眩しく、そして安心感に満ちた笑顔を向けた。
「私たちは、あなたのような圧倒的な戦略頭脳は持っていないかもしれない。でも、ここにはこんなにたくさんの仲間がいる。王都と辺境のことは、どうか私たちに任せてください」
「うん、シメール。騎士団のことは頼んだよ」
シミアは安堵して、シメールから視線を外した。
ぐるりと取り囲む貴族の生徒たちへ視線を巡らせる。と、背の高い数名の生徒の影に隠れるようにして、おずおずと様子を窺っているデイヴィッド・ロスアンの姿を鋭く捉えた。
シミアが自ら彼の方へと歩み寄る。密集していた群衆はまるで潮が引くかのように、この王国の英雄のために広々とした道を自発的に開け渡した。
「よっ、シミア」目の前に歩み寄ってきた少女を見て、デイヴィッドは極度の緊張の面持ちで片手を上げる。
「久しぶりだね、デイヴィッドくん」
「あ、あぁ……俺は……」
デイヴィッドの頬が瞬く間に真っ赤に染まり上がる。彼は手持ち無沙汰にその場に立ち尽くした。心の中で何度も何度もリハーサルを重ねてきたはずの華麗な別れの挨拶が、いざ本人の前に立つと、これほどまでに脆く、空回りしてしまうとは思いもよらなかったのだ。
「最近、実家の方はどう? 大丈夫?」
シミアの温かな気遣いが、彼の緊張を優しく解きほぐす。
顔に集まった熱を振り払うかのように、デイヴィッドは強く首を振り、それから力強く頷いた。
「ああ! 家族全員で死に物狂いで頑張って……ようやく、借金をすべて完済することができたんだ」
その報告を聞き、胸にずっとつかえていた重い石がようやく取り払われたかのように、長く安堵の息を吐き出す。
「それは本当によかった。これでデイヴィッドくんも、もう実家のことを心配せずに済むね」
きびすを返し、立ち去ろうとしたまさにその時。
デイヴィッドが突然弾かれたように数歩前に踏み出し、大声で呼び止めた。
「シミア! 俺、決めたんだ! お前の『焔火騎士団』に入団する! お前のために、もっともっと強くなって、絶対に役に立つ男になってみせるからな!」
少年の不器用で、しかし底抜けに真摯な誓いの言葉が、早朝の通りに反響する。
「本当!?」驚きに目を丸くし、直後、心からの燦爛たる笑顔を咲かせた。「ありがとう、デイヴィッド。君みたいに優秀な人が入ってくれたら、シメールも絶対に大喜びするよ」
未来の同伴へ向けて。微かに腰を折り、深々と、真心を込めた一礼を捧げた。
* * *
生徒たち一人一人に別れを告げた後。振り返り、通りの突き当たりに停車しているエグモント家の馬車へと歩き出す。
「シミアぁぁぁ――っ!」
細く、しかし必死に声を張り上げたせいでひどく鮮明な呼び声が、朝風に乗って耳に届いた。
振り返り、声のした方角を見る。
そこには、分厚い一冊の本を胸に抱き抱えたコーナが、息を乱しながらこちらへ向かって全速力で駆け寄ってくる姿があった。
「はぁっ……はぁっ……」
普段はデスクの前に座りきりで、運動など滅多にしない彼女は、目の前で立ち止まると、両手で膝をついて激しく肩で息をしている。
目の下に色濃く落ちたクマ。そして、度重なる徹夜によって刻まれた数本の疲労の皺。それを見た瞬間、胸が締め付けられ、言葉を失った。
「シミア……よかった、どうにか間に合ったわ」
コーナは身を起こし、ずっと胸に抱き抱えていたその本を、壊れ物でも扱うかのように大切に差し出した。
両手で受け取る。
表紙に記された『軍神少女奇譚』という流麗な題字が、瞬時に目に飛び込んできた。その見慣れた美しい筆致に、得も言われぬ親近感と衝撃が胸の奥で弾ける。
「これは……?」
「シミア。これは私が最近、夜通しで書き上げた小説よ。今はまだ、開かないで……旅の途中で、ゆっくりと読んでちょうだいね」
「コーナ先生が自分で書かれた本……? そういえば……」
ふと、以前図書館で読んだある小説の記憶が、脳裏を掠める。
「シミア」コーナの優しい声が、その回想を遮った。「私、昨夜は本当に怖かったの。あなたのお見送りに間に合わないんじゃないかって。どうしても、直接私の口から伝えたかった。この数ヶ月間、あなたと一緒に政治や戦略について議論し合った時間は、私にとって本当に、本当に楽しくて幸せな日々だったわ。王都のほとんどの人間は、真実を知らないかもしれない。でも……ありがとう。この国を救ってくれて、本当にありがとう」
その言葉に、鼻の奥がツンと熱くなった。
幾つもの静かな午後。図書館でコーナと共に過ごしたあの平穏な時間が、スライドショーのように脳裏を駆け巡る。
「コーナ先生……私……」
心の底に必死に押し込めていた未練が、乾燥した藁に落ちた火の粉のように、一瞬にして燃え上がり、感情の炎となって溢れ出そうになる。
「行きなさい、シミア」
コーナは微かに背伸びをし、今日は髪飾りのつけられていない漆黒の髪を、ひどく愛おしそうに優しく撫でた。
「絶対に、無事で帰ってくるのよ。あなたは私が書いたこの作品の『第一号の読者』なんだから。感想を聞くまでは、絶対に逃がさないわよ。その時は、包み隠さずすべて教えてちょうだいね」
確かな体温が残るその本を、胸の奥にきつく抱きしめる。強く頷き、この上ない肯定の返事を返した。
「はい、コーナ先生! 約束します!」
* * *
万人の真摯な祝福と祈りを背に受け、ついに、エグモント家の重厚で落ち着いた意匠の馬車へと歩み寄る。
執事見習いのレインが馬車の傍らに真っ直ぐに立ち、乗降用の木製の踏み台をすでに完璧にセットしていた。
「シミア様……そろそろお時間です。どうぞご乗車を」
寸分の狂いもない完璧な貴族の礼儀で、純白の手袋に包まれた右手を差し出し、恭しくエスコートの姿勢をとる。
御者席へ視線を向ければ、二人のメイドがすでに手綱を握り、出発の準備を整えていた。
ハッとすべてを悟ったように頷く。
「そうか……レインさんは今回、私たちと一緒に連邦へは行かないんですね?」
レインの身体が微かに強張り、その眼底に複雑な光が閃いた。しかしそれはほんの一瞬のことで、この若く完璧な執事は、胸の内に渦巻く激情を極めて慎重に、そして完全に隠し通した。
「はい、シミア様。私はトリンドル様の代理人としてこの王都に残り、エグモント家のあらゆる事務を管理し、皆様の背後(後方)を死守いたします。その代わり……トリンドル様の安全は、どうかシミア様に託させてください」
再び平穏を取り戻し、一切の不要な感情を削ぎ落としたレインの端正な顔立ちを見て。
深く、真剣に頷いた。
「もちろん。私は『お姫様』の『専属騎士』だからね……」一呼吸置き、優しい声で付け加える。「レインさんも、一人で王都に残るんだ。どうか無理はせず、お身体を大切にね」
背後から突き刺さる熱を帯びた視線を感じながら。
スカートの裾を軽く持ち上げ、迷いのない足取りで馬車へと乗り込んだ。
カーテンをくぐり抜けると、車内にはすでに待ちわびていた二人の姿があった。
秋の最も絢爛な主題色そのもののような、豊穣の麦穂の如き金髪と海のように澄み切った青い瞳を持つトリンドル。そして、常に静かに寄り添ってくれる、何にも代えがたい唯一の家族――シャル。
二人はすでに、ベルベットの柔らかな座席に深々と腰を下ろしていた。
「シミア、皆にちゃんとお別れは言えた?」
微笑みながら尋ねるトリンドル。
「シミア様、お目々が真っ赤ですよ……泣かれたんですか?」
心配そうに身を乗り出し、清潔なハンカチを差し出すシャル。
「うん」
ハンカチを受け取り、そっと鼻先を拭う。
車外に広がる、あの一面の温かな見送りの景色から離れた今、車内を満たす、さらに馴染み深く圧倒的な安心感を与えてくれる温もりに、身も心もしっかりと包み込まれていた。
三人の少女が小声で他愛のない言葉を交わしていると、やがて、御者との連絡用の小窓から、見知らぬメイドの声が響いた。
「トリンドル様。商隊の方から、最終準備を整えるようにとの伝達がございました。まもなく出発いたします」
トリンドル、シミア、シャルの三人は、阿吽の呼吸で視線を交わし合う。
トリンドルは立ち上がり、優雅な足取りで小窓に近づくと、一切の迷いのない澄み切った声で答えた。
「ええ。こちらはいつでも出発できると伝えてちょうだい」
そう言い残し。ゆっくりと、しかし断固たる決意を持って、外界とを繋ぐその小さな窓をピシャリと閉ざした。
ガタゴトと、微かな揺れと振動が車内に伝わる。
馬車の重厚な車輪が、ロスアンの平石の舗装路を力強く削り始めた。昇りゆく朝日に照らされながら、少女たちの夢と決して断ち切れぬ絆を乗せた馬車は、未だ見ぬ果てしない未来へ向かって、確かな轍を刻み出していく。




