シャルズ・キッチンは終わらない
ロスアンの商業通りは今日、かつてないほどの異様な熱気と喧騒に包まれていた。
最も人目を引く中央広場。そこには、濃厚な麦の香りと甘いクリームの匂いを漂わせる一つの屋台が設けられ、すでに狂熱的な群衆によって幾重にも取り囲まれている。焼き上がったばかりの黄金色のパンと、精緻な焼き菓子が織りなす魅惑的な香りが、絶え間なく人々の鼻腔をくすぐっていた。
周囲を畏怖させているのは、眩い銀甲冑に身を包んだ四名の近衛兵たちだ。彼らはまるで彫像のように広場の四隅に直立し、一糸乱れぬ様子で現場の秩序を維持している。
「皆さん、押さないでください! 安全のため、後ろに回って順番に並んでくださいね!」
人だかりの最前列で、よく通る清らかな声が響く。漆黒のボブカットを揺らす一人の少女が、次々と押し寄せる客を慣れた手つきで長い行列へと誘導していた。
奇妙なことに、列に並ぶ人々の視線の半分以上は、屋台に並ぶ魅惑的な焼き菓子ではなく、時折盗み見るように、その黒髪の少女の姿へと注がれていた。
四方八方から突き刺さる好奇の視線や、抑えきれないひそひそ話の波も、少女の真剣な仕事ぶりには一切影響を与えていないようだ。
列の中で、二人の平凡な王都市民が声を潜めて議論を交わしている。
「おい、一体どこの大物がこの中央広場で屋台を出す特許を手に入れたんだ? しかも近衛軍まで護衛につけて……今日は足が棒になっても絶対に食ってやるぞ」
「お前、どんだけ世間知らずなんだよ?」連れの男が声を潜め、畏敬の念を込めて前方を見やる。「あの列の整理をしてる黒髪の少女。あのお方こそが、シミア様だよ! ミリエル女王陛下が直々に指名した『次期王位継承者』だっていう噂だぜ!」
「黒髪? 彼女って元は平民なんだろ……? しかも魔法の才能すら欠片もないとか?」
「シーッ! 声がでかい!」
領主学院の制服を着た男子生徒が突然振り返り、容赦なく二人の会話に割って入った。
男子生徒は鼻眼鏡を押し上げ、その瞳に狂信的な崇拝の光を宿している。
「小柄な女の子だからって舐めない方がいい。彼女は入学早々、名だたる貴族たちが集まる討論会で教師を完膚なきまでに論破したんだ! それに、あの凄惨な辺境の戦いで劣勢を覆し、近衛軍を救ったのも彼女だ!」
男子生徒は、長槍を握りしめて厳粛な面持ちで立つ近衛兵をこっそりと指差した。
「頭を使って考えてみろ。あんなにプライドの高い近衛軍が、嬉々として自ら警備を引き受けるなんて、一体誰の屋台ならあり得ると思う?」
それを聞き、二人の市民は顔を見合わせ、慌てて首をすくめた。
「あの……俺たち、今こうしておとなしく並んでるけど、不敬罪とかで近衛軍にしょっぴかれたりしないよな?」と、心細そうに小声で呟く。
そこへ、もう一人、同じ制服を着た女子生徒が会話に加わった。その声には隠しきれない誇りが滲んでいる。
「あなたたち、今日この列に並べたことを幸運に思いなさい。いい? 『シャルズ・キッチン』のパンは、そう簡単にお口に入る代物じゃないんだから!」
「シャルズ・キッチン?」市民二人が声を揃える。
女子生徒はまるで歴史の叙事詩でも語るかのように、誇り高く胸を張った。
「私が実家から辺境の戦場へ試練に送り出された時のことよ……当時の軍用携帯食料がどれほど味気なくて最悪だったか、あなたたちには想像もつかないでしょうね。シャル料理長はね、あの絶望的な状況下で、現地調達の限られた食材だけを使って、軍全体の食事を奇跡的に美味しく改良してみせたのよ!」
彼女の臨場感あふれる語り口に、二人の市民は目を丸くし、たまらずゴクリと生唾を飲み込んだ。
「というわけだから、並ぶ根気がないならさっさと場所を譲りなさい! これは女王の継承者が直々に管理し、辺境の英雄が自ら焼き上げた絶品パンとスイーツを味わえる、千載一遇のチャンスなんだから!」
「冗談言うな! 誰が並ばないなんて言った!?」
「そうよ! 私の方が前に並んでるんだから、絶対に横入りなんかさせないわよ!」
それは、賑やかな広場のほんのありふれた一幕でありながら、この特別な日における最も活気に満ちた、尊い情景でもあった。
* * *
正午が近づき、太陽が高く昇るにつれて、気温は次第に焼け付くような暑さへと変わっていった。
ようやくレインが手配してくれたメイドたちが応援に駆けつけ、シミアの業務を引き継ぐ。これにより、彼女は屋台の裏手で少しだけ休息を取ることができた。
トリンドルも一通りの忙しさを終えたようで、疲労の色が見えるシミアの姿を見つけると、すぐにふかふかのパンとよく冷えた水を持って歩み寄ってきた。
「お疲れ様、シミア。ほら、少しお水を飲んで」
シミアは感謝して水杯を受け取り、一気に喉の奥へと流し込む。ひび割れていた喉が、ようやく心地よい潤いを取り戻した。
「ふぅ……本当にごめんね。準備は万端のつもりだったのに、まさかここまで人手が足りなくなって、トリンドルまで手伝いに引っ張り出すことになるなんて」
「またそんな水臭いことを言って」
トリンドルは少しだけ恨めしそうにシミアを睨むと、手を伸ばし、シミアの額に浮かんだ細かな汗を優しく拭い去った。
「シミア。シャルはあなたの家族でしょう? なら、当然私の家族でもあるわ。家族が手一杯で困っている時に、どうして私が傍観していられるの?」
その言葉に、シミアは微かに目を見張った。常に深く物事を思慮するその漆黒の瞳の奥に、柔らかな光が灯る。
「……そうだね」シミアは目を伏せ、心からの微笑みを浮かべた。「ありがとう、トリンドル。午後もまた、迷惑をかけちゃうけど」
「シミアもね。午後も引き続き、あなたのその『次期王位継承者』っていう大看板で、シャルのお店にじゃんじゃんお客さんを呼び込まなくちゃね」
トリンドルが悪戯っぽくウインクする。
日除けの天幕の下、二人の少女は顔を見合わせて笑い合った。この午後の息の合ったひとときは、ほんの短いものではあったが、手の中にあるパンと同じくらい、甘く温かなものだった。
* * *
橙赤の夕陽が約束通りに空を染め上げ、王都の建築物一つ一つに暖かな『金色の縁取り(ハイライト)』を施す頃。一日中喧騒に包まれていた広場は、ようやく静けさを取り戻しつつあった。
すっかり空になった食材の籠と商品棚を眺め、一日中張り詰めていた神経がとうとう解けたのか、シャルの全身に怒涛のような疲労感がどっと押し寄せる。
「ふぁーっ……やっと、全部売り切れたぁ……」
シャルは淑女の体面などかなぐり捨てて、木箱の上にだらんと座り込んだ。
「まさか、今日これほどまでに繁盛するとは思いませんでしたね」
軽快な足音と共に、シメールが首に白いタオルを掛け、微笑みながら近づいてくる。彼女もまた、後片付けを終えたばかりのようだ。
「そうだね……これは全部、シミア様のおかげだよ。皆、シミア様の顔を見に来たんだから」
空の木箱を何段も抱えて歩いてきたシミアは、シャルの傍で立ち止まると、力を出し尽くしたような声で自嘲気味に呟いた。
「何を馬鹿なこと言ってるの、シャル。これは間違いなく、あなたの見事な腕前に惹かれてやって来たお客さんたちだよ」
シミアは木箱を下ろし、真剣な顔で反論する。
「ええ、そうよ、シャル。あなたは自分のその素晴らしい才能に、もっと自信を持つべきだわ」
そこへ、綺麗に洗い上げられた調理器具を抱えたトリンドルも合流した。
金色の夕陽の下、見慣れた三人が自分の目の前で笑い合い、集っている。その光景を見つめていたシメールの胸の内に、ふと、名状しがたい名残惜しさと感傷が込み上げてきた。
「でも……これが最後、ですよね?」シメールの顔から微かに笑みが引き、静かに呟く。「明日には、皆さんは王都を離れてしまう」
「うん。ヴァンナ会長とはもう約束してあるんだ。明日の早朝の商隊で出発するって」
シミアは視線を落とし、地面に伸びる自分たちの影を見つめた。
(ほぼ一年という月日か……)
無数の思い出が刻まれたこの街を明日には去るのだと思うと、脳裏に走馬灯のように過去の情景がフラッシュバックする。
学院に入学したばかりの頃、シメールと出会ったこと。彼女が自分たちを無私に助けてくれたこと。そして、かつての自分の愚かしい猜疑心……せっかくシメールと何のわだかまりもなく、腹を割って話せるようになったというのに、明日にはもう、未知の旅路へと足を踏み出さなければならない。
「だけど、これが『シャルズ・キッチン』の最後になるとは、私は全く思わないわ」
トリンドルの清らかな声が、シミアの重く沈みかけた思考を優しく遮った。
「最後じゃないんですか? トリンドル様」シャルが顔を上げ、その瞳に微かな期待の色を浮かべる。
シミアもまた顔を上げる。するとトリンドルが微笑みながら歩み寄り、シャルの頭の上にそっと手を乗せて、優しく撫でた。
「当然よ。私たちが銀潮連邦に行ったら、そこでも『シャルズ・キッチン』を開けばいいじゃない。資金を集めて、無事に辺境を奪還できたら、今度は自分の領地で開けばいい。そして、私たちがすべての使命を終えてここに帰ってきたら……また王都で、『シャルズ・キッチン』を開きましょう」
「トリンドル様……」
シャルの目元が、じわりと湿り気を帯びた。
「その時は、私もまた助っ人として参加させてくださいね。手際が悪いからって、嫌わないでくださいよ?」
シメールも一歩前に進み出ると、シャルの肩に手を置き、彼女特有の、人を心底安心させるような魅力的な笑みを浮かべた。
みんなの中心で囲まれているシャルの姿を見て。シミアは突然、ハッと悟った。
彼女が気づかないうちに。共に乗り越えてきたあの幾つもの日夜の中で、自分たち四人はすでに、これほどまでに強烈で、決して切り離すことのできない『絆』を結び上げていたのだと。
シミアは足元の木箱を避け、一歩前へ踏み出す。そして、一日中生地を捏ねてパンを焼き続けたせいで少しばかり荒れたシャルの両手を、しっかりと握りしめた。
「そうだね、シャル。君がいる場所ならどこだって、そこが『シャルズ・キッチン』なんだ」
シミアは傍らに立つトリンドルとシメールを見つめる。その瞳には、かつてないほどの揺るぎない決意が宿っていた。
これから進む果てしない道には、底知れぬ陰謀と過酷な戦火が待ち受けているだろう。自分たちの運命が、一体どれほどの荒波に揉まれることになるのか、今はまだ分からない。
しかし。彼女は心の底から願い、そして確信していた。
目の前にいる、この愛してやまない大切な人たちと共に。自分たちは必ず肩を並べて、あの『未来』という名の彼岸へと辿り着けるのだと。




