巣立ちの刻
静まり返った教師のオフィス。歴史教師アウグストは、手元に提出されたばかりの申請書を静かに見つめていた。
そこには、シミアが領主学院の早期卒業を志願するに至ったすべての理由と、今後の計画が詳細に記されている。
最後の文字までを目で追い終え、ゆっくりと顔を上げた。
まぶしい夕陽が窓枠をすり抜け、彼の横顔を容赦なく照らし出す。金赤に染まる光と影の交錯の中、長年の深夜に及ぶ研究で刻まれた目尻の深い皺が、やけに鮮明に浮かび上がっていた。いつも快活で精力的なこの老教師が、まるで一瞬にして十歳も老け込んでしまったかのように見える。
「本当に残念だよ。君が皆と一緒に、無事に卒業の日を迎える姿をこの目で見られると、心から楽しみにしていたんだがね」
傍らに立つ魔法実践教師のカメルが、シミアを見つめながら、隠しきれない名残惜しさを声に滲ませた。
「申し訳ありません、カメル先生、アウグスト先生……ご期待に沿えず」
シミアは深く申し訳なさそうに頭を下げた。その声にも、微かな未練が揺れている。
「いや、謝る必要はない」カメルは首を横に振り、深みのある眼差しを向けた。「早期卒業。これはシミア、君自身が熟考を重ねた末に、己の意志で下した決断なんだろう?」
「はい」
顔を上げる。その瞳に一切の迷いはない。
普段は厳格なカメルの顔に、ついに安堵と喜びの入り混じった笑みが浮かんだ。
「なら、何も問題はない。自分で選んだ道ならば、胸を張って堂々と進みなさい。だが、これだけは絶対に忘れないでくれ――これから先、君がどこへ向かおうと、どんな人生を歩もうと、そしていかなる『身分』になろうとも。君は永遠に、我々の誇り高き教え子だ」
「……はい。ありがとうございます、先生」
胸の奥に温かなものが込み上げる。ふと、シミアは何かを思い出したように懐から精緻なベルベットの化粧箱を取り出し、両手で恭しくカメルの前へと差し出した。
「カメル先生。あの……以前、私に貸してくださったこの贈り物、本当に感謝しています。ですが、今の私にはあまりにも高価すぎるものですから。学院を去るこの機に……どうか、お返しさせてください」
カメルは無言のまま化粧箱を受け取り、そっと蓋を開けた。
中に収められているのは、極めて精巧な『炎』の意匠が施された髪飾り。純金製の豪奢な台座には、混じり気のない大粒の火炎ルビー(フレイム・ルビー)が嵌め込まれている。深い暗色のベルベットの上で静かに横たわり、己の運命を決める主の言葉を待っていた。
カメルはその髪飾りを手に取ると、夕陽の光に透かすようにして宙に掲げ、じっくりと観察した。
陽射しはすでに正午のそれほどの強さはない。だが、瑕疵一つない純潔なルビーを透過した光は、見る者の心を奪うほどに妖艶な暗赤色の輝きを放っていた。金色の縁は新品同様に磨き上げられ、戦場の泥や埃など微塵も付着していない。持ち主がどれほどこれを大切に扱ってきたかが、痛いほどに伝わってくる。
「シミア。目を閉じなさい」
カメルが唐突に命じた。
その少しばかり突飛な要求に一瞬だけ戸惑ったが、シミアは素直に指示に従い、そっと両目を閉じた。
(ん……?)
視界を閉ざされた暗闇の中。まず鼻腔をくすぐったのは、上品な高級香水と、清潔なリネンが混ざり合ったような極めて淡い香り。直後、頭頂部の髪に、ひどく優しく、微かにくすぐったい感触が走った。まるで、温もりを持った『何か』が、壊れ物を扱うかのような慎重さでそこに留められたかのように。
やがて、その淡い香りはゆっくりと遠ざかっていく。
「よし、目を開けていいぞ」
目を開けたシミアの視界に最初に飛び込んできたのは、極上の芸術品でも鑑賞するかのように、この上なく誇らしげな眼差しで自分を見つめるカメルの顔だった。
「私の見立てに狂いはなかったな」満足げに頷く。「やはりそれは、君にこそ一番よく似合う」
シミアは困惑しながら手を伸ばし、自身の頭を探る。普段から髪飾りをつけていたその定位置に指先が触れると、そこには硬く冷やりとした感触と、カメルの掌から移った微かな温もりが残されていた。
あの、炎の髪飾りだ。
「持っていきなさい、シミア。一度贈った物を突き返す道理がどこにある?」カメルは豪快に笑い飛ばした。「君ももう無事に回復したことだし、今度はこれを、私からの唯一無二の『餞別』として受け取ってくれ!」
言い終えるや否や、その分厚く大きな手がシミアの肩をバシンと力強く叩く。そして大声で笑いながらきびすを返し、豪快な足取りでオフィスを出ていった。残された二人のために、静かな空間を譲るように。
廊下に響くカメルの重々しい足音が完全に聞こえなくなるのを待って。ずっと沈黙を保っていた歴史教師アウグストが、やれやれと苦笑いを浮かべ、モノクルを押し上げながら感嘆の息を漏らした。
「カメルの奴め。贈り物のセンスが良いだけでなく、美味しいところを掻っ攫うタイミングまで完璧とは。まったく、狡猾な男だよ」
「シミアくん」
「はい」
呼ばれて、即座に向き直る。
アウグストは机の上に置かれていた早期卒業の申請書を手に取り、スッと差し出した。
シミアは両手で受け取り、視線を落とす。承認欄のスペースには、極めて『流麗な飾り文字』で『アウグスト・バイロン』という署名がすでに記されていた。
「たとえ学院を離れても、決して学ぶことを忘れてはいけないよ、シミアくん。歴史の歯車というものは、永遠にその歩みを止めることはないのだからね」
アウグストは、諭すように深く語りかける。
「肝に銘じておきます、先生」
アウグストは振り返り、山のように資料が積まれた自身のデスクをゴソゴソと漁り始めた。しばらくして、彼が探し出してきたのは一冊の分厚いノートだった。表紙は暗赤色で、縁はひどく擦り切れ、無数の付箋が挟み込まれている。それを極めて厳粛な手つきでシミアへと手渡した。
「これは私が半生をかけて歴史を研究し、記録し続けてきた私的なノートだ。少しばかり古臭いし、書かれている見解がすべて正しいとは限らないが……君のこれからの果てしない旅路において、ほんの少しでも役に立ってくれることを願っているよ」
シミアは恐縮しながらそのずっしりと重い手稿を受け取り、壊れ物を扱うようにそっとページを捲った。
びっしりと書き込まれた文字が、目にも鮮やかなほど整然としたレイアウトで紙面を埋め尽くしている。その力強くも端正な筆致は、普段のアウグストの板書そのものだった。そこに記された深淵なる歴史的見解と緻密な史料の数々をほんの少し見開いただけで、シミアは悟った。自分が今手にしているのは単なるノートなどではなく、膨大な時間と叡智の結晶たる『無価の芸術品』なのだと。
「さてさて。君はこの後もまだ忙しい用事が控えているのだろう? さっさと行きなさい。こんな狭い部屋で、貴重な時間を無駄にするんじゃない」
少しばかり早口になったアウグストの催促に、知識の海へと沈みかけていたシミアの意識が引き戻される。
驚いて顔を上げると、思いがけない光景を目にした。平素は常に冷静沈着で、厳格なはずのこの老学者の頬が、今や極めて珍しく、ほんのりと緋色に染まっていたのだ。
照れ隠しをする恩師のその微笑ましい姿を見て、シミアはたまらず吹き出し、ふわりと会心の笑みをこぼした。
「それでは……さようなら、アウグスト先生」
シミアは半歩後ろへ下がり、この上なく荘重な動作で深く腰を折った。己に数え切れないほどの叡智を授けてくれた恩師へ向けた、領主学院での最後の別れの挨拶。
「行きなさい。さようなら、シミアくん」アウグストはいつもの温和な笑みを取り戻し、優しく語りかけた。「もし外の世界で疲れ果てた時や、何か古い文献を調べたくなった時は、いつでも私の領地を訪ねてきなさい」
「……必ず」
暖かな夕陽の残照に包まれながら。
二人の恩師から授かった、形は違えど等しく重みのある『宝物』を胸に抱き。
シミアはきびすを返し、無数の思い出が刻まれた学び舎を、一切の迷いのない足取りで後にした。




