星は泥濘の姫君へと堕ちる
伽藍とした部屋に座り、窓の外で残血のように沈みゆく橙赤の夕陽を見つめながら、トリンドルは深く、重い溜め息をついた。
連日の葬儀や、崩壊寸前の家督を引き継ぐ激務からくる極度の疲労が、その溜め息と共に抑えきれないほど胸の奥から込み上げてくる。
脳裏に、無意識のうちにあの黒髪の少女の凛とした背中が浮かび上がった。名状しがたい苦渋が、まるで清水に垂らされた一滴の濃墨のように、瞬く間に心の中で滲み、広がっていく。
(もう……これ以上、シミアに依存してはいけない)
苦しげに両目を閉じる。南方の反乱軍を退けた今、シミアは王国中で最も熱狂的に支持される英雄であり、さらには『次期王位継承者』に指名されるという噂までがまことしやかに囁かれていることを知っていた。
翻って、自分はどうだ?
パパもお爺様も失い、領地は陥落し、今や『抜け殻』のような家名だけが残された、ただの没落貴族でしかない。
(今の私じゃ……もう、彼女の隣に立つ資格なんてない)
必死に自分自身を言い聞かせ、血が滲むほど唇を噛み締める。胸の奥で暴れ狂う、あの少女への狂おしいほどの渇望と愛着を、再び光の差さない牢獄へと閉じ込めようと踠いていた。
――コンコンコン。
突然、少しばかり急かすようなノックの音が部屋に響いた。
「誰っ!?」
トリンドルは怯えた小鹿のように背筋を跳ね上がらせた。強く首を振ると、豊穣の麦のような金髪が宙で美しい弧を描き、金色の残像を残す。それはまるで、脳裏に渦巻く非現実的な妄想のすべてを、その動作一つで強引に振り払おうとするかのようだった。
「はい、今開けます」
深呼吸を一つして衣服の乱れを整え、ドアノブに手を掛ける。
扉が開いた瞬間。
彼女がずっと夢にまで見て、魂を焦がし続けていたそのシルエットが、何の前触れもなく目の前に立っていた。
「シ……シミア?」
トリンドルはその場に釘付けになった。脳内で沸騰する感情を極限まで押し殺し、なんとか普段通りの平静な声を取り繕おうと必死になる。
扉の外に立つシミアの顔には健康的な紅潮が浮かび、激しく走ってきたせいで、その胸元は微かに上下に波打っていた。明らかに、どこかから大急ぎでここまで駆けつけてきたのだと分かる。
「はぁ……はぁ……トリンドル。一つ、すごく重要なことで、今すぐ君に伝えておきたいことがあってね」
シミアは小さく息を整え、真っ直ぐで力強い瞳でトリンドルを見つめた。
トリンドルの心臓が、ギリッと音を立てて締め付けられる。
彼女は強張った首を縦に振り、視線を逸らして、瞳の奥の不安と狼狽を懸命に隠した。
「ど、どうぞ。入って」
部屋に招き入れると、トリンドルはシミアを柔らかなベッドに座らせ、自分は来客用の小さな木製のスツールを引っ張り出してきて、少し畏まるように向かい合って座った。
「シミア……そんなに急いで私に会いに来るなんて、一体何のお話なの?」
「トリンドル。君はこれから先の身の振り方について、何か計画はあるかい?」
シミアは一切の遠回しな言い方を避け、単刀直入に切り出した。
『これから先』。
その言葉は、まるで巨大な重槌のように、トリンドルの心臓を容赦なく打ち据えた。
「私は……」
トリンドルの脳裏に、土気色の顔で病床に横たわるパパの痛々しい姿が閃く。そして、無惨に折れた槍を握りしめたバセスお爺様。さらにはここ数日、雪崩のように舞い込んでくる、エグモント家の辺境領土が完全に陥落したという凄惨な戦報の数々が。
瞳の奥に耐え難い苦痛がよぎる。しかし次の瞬間、それは燃え上がるような意地と強さによって塗り替えられた。
「悔しいの、シミア。エグモント家を、私の代でこのまま没落させたくなんかない。今の私にはまだその力が足りないかもしれないけれど……それでも、すべてを投げ打ってでも、絶対に家門を復興させて、私から奪われた領地を取り戻してみせるわ」
脆弱でありながらも、決して折れることのない強さを秘めたトリンドルの回答を聞き。
シミアの瞳に、深い賞賛の光が宿った。それはまるで、ずっと胸につかえていた重い石をようやく下ろせたかのように、安堵を込めて深く頷く。
「分かった。それじゃあ、私の方の『決定』も教えよう」
シミアはすうっと深く息を吸い込み、トリンドルの瞳を真っ直ぐに捉えた。
「すでにミリエルとも話をつけてきたんだ。私……領主学院を卒業することにしたよ」
「……!」
カチカチと、自身の上下の歯が微かに震え、ぶつかり合う音がトリンドルの耳に届いた。
頭の中が一瞬真っ白になり、その直後、あまりにも残酷で、それでいて至極当然な『結論』が導き出される。
(あぁ……そうなんだ)
(彼女は卒業するんだ。完全に学院を離れて、女王陛下からの正式な冊封を受け、あの雲の上の存在である『次期王位継承者』になるんだ。私が家門の復興を決意したように、彼女もまた、自分自身の眩い未来へ向けて『選択』をしたんだわ)
トリンドルは必死に目を見開き、目頭に込み上げてくる酸の海を力ずくで押し留め、涙腺が完全に決壊してしまう前に、泣き顔よりも不格好な微笑みを絞り出した。
「そう……それは、本当によかった。シミアはあれほど優秀なんだもの……ようやく、自分のやりたいことを成し遂げられるステージに立てるのね。あなたの幸せを、心から祈っているわ……武運長久を」
慌ててうつむく。
かつて経験したことのないほどの底知れぬ寂寥感と、世界から完全に見捨てられたような絶望感が、瞬く間に心の隙間という隙間をどす黒く埋め尽くしていく。
シミアと離れ離れになんて、絶対になりたくない……
だけど。それがシミア自身が選び取った栄光の道であるならば。すでにすべての光輪を失い、泥に塗れた没落令嬢に成り下がった自分に、この空虚で無力な祝福を贈る以外、一体何ができるというのだろう?
瞳に浮かんだ涙をシミアに見られないよう、トリンドルは強引に顔を背け、背後にある窓へと視線を逃がした。
鮮血のように惨烈な夕陽の赤き光が、窓枠をすり抜けて部屋に降り注ぎ、シミアのトレードマークである炎の髪飾りを真っ赤に照らし出している。
逆光の中、深く愛する己の騎士はあまりにも眩しかった。そこに座っているだけで、まるで果てしない夜を切り裂く太陽のように、温かく、それでいて直視できないほどの眩い光を放っている。
その圧倒的な光の前で。トリンドルが完全に塵芥となって地に伏そうとした、まさにその時。
馴染み深い、温かな体温を持った掌が不意に伸ばされ、トリンドルの氷のように冷たい手の甲を、しっかりと包み込んだ。
トリンドルは驚愕して顔を上げる。
すでに涙が溢、ぼやけた視界の先で。シミアの透き通るような、それでいてひどく真剣な瞳と真正面からぶつかった。
「一体、何を一人で思い詰めてるのさ、トリンドル」
シミアは小さくため息をつき、トリンドルの手を強く握り返した。
「私の決定はね。領主学院を早期卒業して、それから、全力であなたの家門の復興を手伝うことだよ。私たち二人で一緒に、本来あなたに属するはずの領地を奪い返しに行くんだ」
「……え?」
まったく予想すらしていなかったその言葉は。幾重にも重なる分厚い暗雲を一直線に撃ち抜く最初の一筋の光のように、あまりにも覇道的で、拒絶を許さないほどの強さで、トリンドルの死に絶えた心臓の奥底へと突き刺さった。
「計画はもう緻密に練ってある」シミアの口角に、絶対的な自信に満ちた笑みが浮かぶ。「まず、ライナスとクラウディアの力を借りて、大義名分のもと正式な『私兵』を組織する。私兵の訓練が完了するまでの間、私たち二人は銀潮連邦へ向かい、そこで資金と政治的な後ろ盾を獲得するんだ。すべての準備が整い次第、軍を率いて南下し、占領された辺境の領土を一緒に奪還する。もちろん、この過程には数え切れないほどの困難が待ち受けているだろうけれど……」
シミアはまだ、その先の壮大で眩い未来のビジョンを語り続けていたが、トリンドルの耳にはもう何も入っていなかった。
これまで死に物狂いで抑え込んできた感情。
シミアへの淡い期待。
そして、シミアのためなら己のすべてを犠牲にしても構わないとすら思っていた、あの深すぎる想い……
自分はもう、泥沼の底から手の届かない星空を見上げることしかできないのだとばかり思っていた。シミアが遠く空高くへ飛び去っていく結末を、受け入れるしかないのだとばかり。
けれど。
(星のほうから……ずっと、私のために堕ちてきてくれていたんだ)
ガタンッ!!
トリンドルは勢いよく立ち上がった。その反動で、座っていた小さな木製のスツールが床に蹴倒され、大きな音を立てて転がる。
シミアが反応するより早く。
ひどく熱を帯びた、強烈な体当たりがシミアの胸の中へと激しく飛び込んできた。
視界がぐるりと反転し、シミアの後頭部が、柔らかなベッドのシーツへと深く沈み込む。
「うぅ……うわああああんっ……シミアぁ……っ!」
胸元から、もはや一切の我慢を放棄した大号泣が響き渡る。
トリンドルは、迷子になってようやく自分の『帰る場所』を見つけた子供のように、死に物狂いでシミアに抱きつき、その顔を胸の奥深くに埋め続けた。少女の体温はまるで真冬の暖炉のように、何の保留もなく、シミアの体へ驚くほどの熱量を伝えてくる。
「大好き……っ! ずっと、ずっと一緒にいたかった……でも、あなたはもう手の届かない英雄になっちゃったから……うぅ……っ!」
途切れ途切れの、くぐもった泣き声がシミアの胸の谷間で反響し、溢れ出る涙は瞬く間にシミアの襟元をぐっしょりと濡らしていく。
「分かってる……分かってるの……私なんかのために、あなたがこんな選択をする価値なんてないことくらい……! ミリエルの傍にいれば、もっとたくさんのものが手に入るのに……権力も、地位も……どうして……どうして私を選んでくれたの……っ!」
支離滅裂な泣き言をこぼしながら、胸の中で激しく小刻みに震え続ける少女を感じて。
シミアの眼差しは、底なしの優しさを帯びていた。
彼女はトリンドルを突き放すことはせず、そっと両手を少女の肩の奥へと回し、細く、それでいてあまりにも多くのものを背負いすぎたその背中を、何度も何度も、優しく撫でさすった。
「馬鹿だな。価値があるとかないとか、そんなの問題じゃないよ」
シミアはふふっと小さく笑い。
半分冗談めかしたような、それでいて、絶対の誓いのように真剣な響きを帯びた声で。トリンドルの真っ赤に染まった耳元へ、そっと囁いた。
「だって、君は私の『お姫様』だからね」




