凱旋の花雨と、世界に触れた日
真夏の不快な熱気と息詰まるような陰謀は、まるで一夜にして秋雨がすべてを洗い流してしまったかのようだった。
爽やかな秋風と共に約束通り舞い込んだのは、大陸中を震撼させるほどの勝利の捷報。
王都ロスアンは今、久方ぶりの、そして熱狂的な歓喜の渦に包まれていた。
街の至る所が人波で溢れ返り、とりわけ主幹道である『凱旋大通り』は、押し寄せる群衆によって完全に埋め尽くされている。色とりどりの旗が秋風にはためき、興奮のあまり高価な生花の花びらを両手いっぱいに宙へと放り投げる者までいた。空から降り注ぐ色鮮やかな花雨は、ひとえに帰還する英雄たちを歓迎するためのものだ。
「おい、聞いたか!? 今日はミリエル女王陛下の凱旋日だぞ!」
沿道の群衆から、興奮冷めやらぬ声が次々と沸き起こる。その風雨に耐え抜いた顔のどれもが、死地を脱したような狂喜に満ちていた。
「当たり前だろ! 秋の収穫を放り出してまで、わざわざこんな所まで何しに来たと思ってんだ!」
「信じられねぇよな! 女王陛下が南方の反乱軍を降伏させたどころか、自ら国境に出向いて、あの鋼心連邦の戦争狂どもまで蹴散らしたって話だぜ! やっぱ俺たちの女王こそが真の英雄なんだ。あのシミアとかいう奴が凄いなんて噂、絶対嘘だと思ってたよ。案外、女王が裏で動くための偽名だったんじゃないか?」
「馬鹿、滅多なこと言うな! 近衛軍にいる俺の従兄の話じゃ、今回の最大の功労者はそのシミア様らしいぜ……後方で采配を振るっただけで、銀潮連邦の経済的な締め付けを無血でやり過ごし、国境での伏兵も神算鬼謀の如く的中させたって……」
人々の間で口々に囁かれる、誇張され、尾鰭までついた街の噂話を耳にしながら、シミアは被っていた黒いローブのフードをさらに深く被り直し、自身の姿を路地裏の影へと完全に溶け込ませようとした。
「ねえ、シミア。わざわざ平民の服に着替えてまで群衆に紛れ込むなんて、意味あるのかしら?」
隣で紫色の短髪を揺らすコーナ先生が、やれやれとため息をつきながら小声で窘める。
「どうせ閲兵式が終われば、嫌でも彼女に会うことになるのに」
「いえ、こうして平民の群れに紛れ込み、一人称視点で観察することにこそ最大の意義があるのです」
シミアは真面目腐った顔で大通りの先を見つめ、厳粛なトーンで反論した。
「近衛軍の実際の損害状況、将兵の精神状態、そして装備の消耗具合。これらを最も直感的に把握できるのはこの方法です。王国の次期軍制改革の草案を練る上で、計り知れない参考価値がありますから」
(――この子は本当に、素直じゃないわね)
あの子が無事かどうか、一刻も早く自分の目で確かめたくて堪らないくせに。わざわざ頭を捻って、もっともらしい建前を並べ立てるシミアの姿に、コーナは思わず首を横に振り、その口元には自然と甘やかすような微笑みが浮かんだ。
「はいはい、そうね。あなたの言う通りだわ」
突如、群衆の中から耳を劈くような歓声が爆発した。その騒めきは津波のように主幹道を駆け抜け、瞬く間に熱狂の頂点へと達する。
「来たぞ! 女王陛下のお出ましだ!」
熱狂する視線の先。そこを見た瞬間、シミアは思わず呼吸を忘れていた。
背の高い純白の軍馬に跨るミリエルは、まるで神話の絵巻物から抜け出してきた戦乙女そのものだった。
秋風に微かに舞う純白の長髪は、流れる月光のよう。身体のラインに沿いながらも威厳を損なわない軽量の銀甲冑を身に纏い、片手で風に乱れる髪をそっと押さえ、もう片方の手で熱狂する民衆へ向けて微笑みながら手を振っている。
かつては常に怯えと依存の色を浮かべていたその絶世の美貌からは、もはや幼さは完全に消え失せ、代わりに戦火と鮮血の洗礼を経た者だけが持つ、揺るぎない従容、威厳、そして神聖さが宿っていた。
その傍らを並走するのは、威風堂々たる中年の男――王家近衛軍の将軍、アルヴィンだ。花びらが敷き詰められた凱旋の道にあっても、この百戦錬磨の老兵は依然として長槍を固く握りしめている。布で覆われていない鋭利な矛先が、秋の日差しを反射して容赦ない寒光を放つ。まるで子を護る猛虎のように、女王に潜むあらゆる脅威をいつでも串刺しにする構えだった。
彼らの背後に続くのは、一糸乱れぬ重厚な足音を響かせる近衛兵の『方陣』。
重装長槍兵たちの甲冑には無数の刀剣の傷跡が刻まれ、その身にはいまだ褪せることのない、戦場特有の凄惨な血の匂いが漂っている。沈黙しながらも、まるで鋼鉄の城壁のような威圧感を放つその軍隊を目にしただけで、シミアの胸がチクリと痛んだ。
自分が決して手の届かなかった遠い南方の地で、ミリエルがどれほど残酷な死地を、一人で乗り越えてきたのかを痛感させられたからだ。
シミアが見とれ、無意識のうちに指先を強く握りしめていたその時。悪戯な秋の突風が、人混みで埋め尽くされた通りを吹き抜けた。
ヒュゥゥゥッ――
強風が、シミアの被っていた黒いフードを容赦なく剥ぎ取った。
隠されていた漆黒の髪が、一瞬にして滝のように零れ落ちる。
(しまった!)
シミアは心臓を跳ね上がらせ、慌てて両手で頭を覆い、再び群衆の影へと自分を隠そうとした。
だが、彼女は気付いていなかった。周囲の誰もが狂ったように腕を振り回し、飛び跳ねてでも女王の目を引こうと必死になっている中で、一人だけ必死に身を縮こまらせ、あたふたと隠れようとするその不自然な挙動は――高く跨る馬上の視点から見下ろせば、暗闇の中の蛍のごとく、あまりにも目立ちすぎるということに。
反対側の群衆に向かって微笑みかけていたミリエルは、敏腕な狩人のように、即座にその異変を察知した。
振り返り、幾重にも連なる人波を越え、まるで幾千の山河を飛び越えるかのように、その視線は極めて正確にシミアの潜む方角へと突き刺さった。
その瞬間、周囲の喧騒がふっと遠のいたような気がした。
シミアの背中に、じわりと冷や汗が滲む。
(こっちを見ないで……気付かないで……今の私、絶対に間抜けすぎる……!)
女王としての威厳を保ったまま、路地裏に隠れて城門まで出迎えることすらできなかった自分という「臆病者」を、どうか見て見ぬふりをして通り過ぎてほしい。本気でそう祈った。
だが、現実は残酷だった。
少し怯えたように必死に顔を隠そうとしているその人物を視認した瞬間。ミリエルの浮かべていた端正で手の届かない女王の微笑みは、一瞬にして崩壊した。
代わって咲き誇ったのは、太陽の光すらも霞ませるほどに燦爛たる、心の底からの歓喜の笑顔だった。
彼女は一切の躊躇なく手綱を引いた。周囲から信じられないというような驚愕の声が上がる中、純白の戦馬はゆっくりとパレードの中央から外れ、花びらの絨毯を踏みしめながら、シミアのいる沿道へと真っ直ぐに向かってきた。
「シ、シミア!?」
群衆はまるでモーセに海が割られるかの如く、畏敬の念と共に、自然と女王の騎獣のために広い道を譲った。瞬く間に、先ほどまで息苦しいほど密集していた空間が完全に掃き清められ、シミアと、必死に笑いをこらえるコーナの二人だけが、全住民数万の視線が突き刺さるど真ん中へと突如として放り出された。
もう、逃げ場はない。
シミアは顔を引きつらせたまま、ぎこちなく顔を上げ、馬上のミリエルと視線を交わした。
「えっと……その、私……です……」
その気まずく、縮み上がったような挨拶を言い終えるより早く――
タァンッ!
なんとミリエルは、周囲の目など一切気にすることなく、背の高い戦馬から軽々と飛び降りたのだ。
沿道から息を呑むような悲鳴が上がるのも構わず、自身がずっしりと重い甲冑を着込んでいることさえも無視して、数歩でシミアの目の前まで駆け寄る。そして、極度の緊張からすっかり冷たくなってしまったシミアの手を、両手でしっかりと握りしめた。
後方から駆けつけたドドリン隊長は、それを見て文字通り肝を潰した。やれやれと顔をしかめながらも、急いでハンドサインを送り、親衛隊を素早く散開させる。群衆の最前列に強固な『人壁』を築き上げ、突如としてパレードの軌道から脱線した女王陛下を、まるで大敵でも迎えるかのように厳重に警護し始めた。
「シミア。私と一緒に、来てくれる?」
ミリエルは、周囲の困惑や驚きに満ちた視線など一切気にする素振りを見せなかった。宝石のように輝く双眸でシミアを真っ直ぐに見つめ、やがて視線を、先ほどまで自身が乗っていた純白の戦馬へと移す。
その意図を、シミアは瞬時に理解した。
彼女は、自分を同じ馬に乗せようとしているのだ。この、最高の栄誉の象徴たる『凱旋大通り』で、その栄光を分かち合うために。
シミアの心拍数が跳ね上がり、耳元で警鐘のように鳴り響く。無意識に身を縮め、感電したかのように手を引き抜こうとしながら、ゆっくりと首を横に振った。
「だめよ……今日はあなたの凱旋式。最前線で血を流し、戦い抜いたあなたたちの勝利を祝う場なの。私なんて、ただ安全な後方に隠れていただけの……」
「お願い、シミア」
その言葉を遮るように、シミアの手を包み込む両手の力が、さらに強く込められた。
ほんの数分前まで馬上で威風を放ち、万民の敬仰を集めていた女王は、今や目を伏せ、まるで捨てられるのを恐れる迷子のように、悲哀と懇願の表情を浮かべている。
「これは女王としての命令じゃないの。一人の同伴としての、お願い。あなたがいてくれなかったら、私は決して帰ってくることなんてできなかった……この勝利を、あなたと分かち合いたいの、シミア。お願い、今日だけでいいから。一緒に、乗ってくれる?」
あまりにも熱を帯びた視線から逃れようと、シミアは言葉を詰まらせて視線を逸らした。だがその先で、旧知の仲である老将アルヴィンの視線と真正面からぶつかった。
百戦錬磨の将軍は、微笑みながらシミアに向かって深く頷いた。その瞳には、この栄光を受け入れろという強い励ましの色が満ちている。
目の前で縋るように懇願するミリエルの姿を見て。シミアの心の中に築き上げられていた『理性の防壁』と『自卑の壁』は、たった一瞬で音を立てて崩れ去り、煙のように消え失せた。
観念したように小さくため息をつき、無意識のうちに、彼女はこくりと頷いていた。
「道を開けろ!」
近衛兵たちの手を借りながら、シミアは半ば強引に、ミリエルに抱き抱えられるようにしてその立派な純白の戦馬へと引き上げられた。
シミアが前に座り、ミリエルがその後ろに跨る。女王の両腕がシミアの細い腰をすり抜け、前方の手綱をしっかりと握りしめる。それはまるで、シミアの全身をすっぽりと自身の腕の中に閉じ込めるような体勢だった。
戦馬が再び力強く、そして穏やかな歩みを進め始める。
世界が、一瞬にして高く引き上げられたような感覚。
馬の背から伝わるゆっくりとしたリズミカルな揺れを感じ、天をひっくり返すほどの巨大な歓声に包まれながら、シミアは理由のない目眩を覚え、呼吸すらも苦しくなるのを感じた。
「馬に乗るの、慣れてない? 大丈夫だよ」
背後から、笑みを帯びたミリエルの優しい声が鼓膜をくすぐる。
直後、ミリエルがわずかに身を屈め、布越しに冷たい甲冑の感触が、シミアの背中へとそっと押し当てられた。
「しっかり抱きしめているから。私がいる限り、絶対に落としたりしない」
背中から伝わる確かな体温と、鼻をくすぐる、シミアにとって最も馴染み深い、安心感に満ちた『紅茶の香り』。
平素は冷静沈着な軍神の少女も、さすがにどうしていいか分からなくなり、その色白な耳の裏までがほんのりと朱に染まった。
激しく動揺する心を誤魔化すように、シミアは無理やり視線を逸らし、顔を上げて周囲に沸き立つ人波を見渡した。
この異世界に転生してきてから、これほどの高さから、これほどの視点で世界を見下ろすのは初めてのことだった。
馬上の揺れの中で、宙を飛び交う無数の視線と交差する。
顔に深い皺を刻んだ老農夫が流す熱い涙を見た。それは、来年こそは戦火に怯えずに済むという、純朴な祈り。
若い娘たちの熱狂的で崇拝に満ちた歓声を見た。それは、英雄に対する最も純粋な憧憬。
群衆の奥深くに身を潜める一部の貴族たちの、虚偽の笑顔の裏に隠された僅かな不満と畏敬の念。
そして、戦争で家族を失いながらも、手にした花を握りしめ、目に悲哀の涙を浮かべながらも、平和をもたらした女王のために声を限りに叫ぶ人々の姿を……
あの薄暗い軍事戦略の教室で、あるいは明るい王立図書館の片隅で。
シミアにとって、ローレンス王国という存在は、羊皮紙の上に描かれた複雑な線に過ぎなかった。帳簿に記された氷のように冷たく無味乾燥な負債の数字であり、砂盤の上に置かれた、戦力を意味する数個の黒い『駒』でしかなかった。
しかし今。
何万もの生きた顔が、何万もの偽りない喜怒哀楽が、一切のフィルターを通さずに彼女の網膜へと焼き付けられた時。
ずっしりと重い何かが、彼女の胸の奥底へと激しく突き刺さった。
(これが、ローレンス王国の民)
(これこそが、私とミリエルがこの数ヶ月間、すべてを投げ打ち、身を削り、命すらも賭して、幾度も死の淵に立たされながら守り抜こうとした――本物の、生きた『国家』なんだ)
秋風の優しい撫でるような感触と、背中から伝わる温もりを感じながら。
「異世界のゲーム」と「現実の残酷さ」の間でずっと宙に浮き、揺れ動いていたシミアの心は、今この瞬間、確かな重みを持って、現実の大地へとしっかりと根を下ろした。
この世界で初めて。
彼女は、何にも代えがたいほどの『生きた実感』を抱きしめていた。




