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南方の結末

真夏の暁。本来なら僅かな熱気を帯びているはずの微風は、険しい尾根を吹き抜ける時、なぜか身の毛もよだつような、刺すような冷気を纏っていた。


空の果てに白み始めた暁光が、僅かに残る夜の闇を駆逐していく。


高くそびえる尾根の縁。ミリエルは、鬱蒼とした針葉樹林の中を蛇のようにうねる細い土の道を見下ろしている。真夏であるにもかかわらず、眼下に立ち込める深い朝霧は一向に晴れる気配がなく、ただでさえ険しいけもの道を、さらに陰惨で底知れぬものへと変えていた。


シミアが戦略地図上で推演した通り――ここはまるで袋の鼠を誘い込むための、最も完璧で致命的な伏兵アンブッシュのポイントだ。


「ミリエル陛下。本当は、ご自身でこのような最前線にまで赴く必要はなかったのですよ」


傍らから、粗野でありながらも深い気遣いのこもった声が響く。振り返ると、そこには王家近衛軍の大隊長――ドドリンが立っていた。


百戦錬磨の老騎士は、ずっしりと重い全身甲冑フルプレートを身に纏っている。かつては磨き上げられていたであろう装甲も、今や目を背けたくなるほどの無数の凹みと、黒ずんで乾いた血痕に覆われていた。唯一、固く握りしめられた長槍の穂先だけが、暁光を反射して冷ややかな輝きを放っている。それこそが南方戦線でくぐり抜けてきた、数え切れないほどの凄惨な血戦の証明だった。


「連日の苦戦を乗り越えられたばかりなのですから、今は何より休息が必要。残りの『掃討戦あとしまつ』は、我々のような荒くれ者に任せておいてくださればいいものを」


ドドリンは誠心誠意の言葉で諫める。


「……そうかしら?」


向き直り、人の心の奥底まで見透かすような瞳で忠義の老騎士を静かに見つめ、ゆっくりと首を横に振る。


「ドドリン隊長。私が女王の名において、ローレンス王国のために最後の一滴まで血を流すよう求めたのです。それなのに、私一人だけが安全な後方に隠れて、生き延びるわけにはいきません」


その声は決して大きくはなかったが、いかなる反論も許さない、絶対的な王者の威厳に満ちていた。


「私には戦局を単独で覆すような『圧倒的な暴力ちから』はありません。けれど、最後の瞬間まで全力で戦い抜く義務がある。私は私の戦士たちと共に立ち、私たちの勝利を、この目で最後まで見届けるわ」


言葉を終えた直後、背後から一糸乱れぬ金属鎧の重厚な音が鳴り響いた。


驚いて振り返る。


ドドリン大隊長を筆頭に、尾根に伏せていたすべての近衛兵たちが、冷たく泥濘んだ砂利の上に、一切の躊躇なく片膝をついていた。歓声はない。ただ、狂熱的で揺るぎない眼差しで、生死を共にする若き女王を仰ぎ見ている。


「我らが剣、命の果てまであなたに捧げん――女王陛下!」


ドドリンの掠れた声は、その場にいる全戦士の最も偽りなき真心を代弁していた。


疲弊しきりながらも闘志を燃やす兵士たちの姿に、ミリエルは目頭が熱くなるのを感じ、力強く頷く。


「準備して。シミアの計算によれば……『獲物ターゲット』は間もなく、網に掛かるわ」


「はっ!」


ドドリンのハンドサイン一つで、重甲冑の戦士たちはまるで幽鬼のように素早く斜面を滑り降り、異常な朝霧が立ち込める眼下の密林へと、音もなく姿を消していった。


* * *


尾根の下、狭い森の小道。


三、四十人ほどの精鋭傭兵部隊が、泥濘んだ獣道を騎馬で疾駆していた。高く跳ね上がる泥水が、早朝の森の静寂を容赦なく引き裂いている。


「なあ、カシウスの坊ちゃんよォ。俺たち、こんなに急いで行軍する必要なんかあるのかねェ?」


部隊の中央を行く明耀騎士団の団長・カドスが、馬上から粗野なダミ声を張り上げ、不満げな顔で先頭へと愚痴をこぼす。


小太りな傭兵団長は、刺すように冷たい顔の霧水を乱暴に拭い去り、悪態をついた。


「俺の兄弟きょうだいたちは昨日ドンパチやったばかりで、まともに寝てもいねェんだぜ。夜明け前から叩き起こされて、南方の貴族どもの退路を断つだァ? ハッ、あの貴族の旦那どもに羽が生えてたとしても、こんなに早くここまで逃げてこられるわけがねェだろうがよ」


先頭を行くカシウスは手綱を引き絞り、冷ややかな視線を背後へと投げつけた。


「急ぐ必要はない、だと? 君たちが昨夜、村々で下劣な金品の略奪にかまけていたせいで、私の貴重な時間をどれほど無駄にしたと思っているのかね!」


カシウスの声には、平素の彼には決して見られない焦燥感が滲み出ていた。


カドスが不満を漏らす本当の理由など、百も承知だ。要するに、傭兵どもに戦利品を漁る十分な時間を与えなかったことへの当てつけに過ぎない。現在の局勢から見れば、鋼心連邦の計画は極めて順調に推移している。ローレンス王国の辺境主力はすでに完全に瓦解しており、孤軍奮闘するこの南方部隊が強力な反撃を組織することなど、理屈から言えば絶対にあり得ない。南方腹地まで攻め入るのは、もはや時間の問題に思えた。


理性が、この懸念は単なる杞憂に過ぎないと告げている。


しかし……


なぜかここ数日、理由もなくあの黒髪の少女――シミアの姿が脳裏をちらつくのだ。かつての戦略の授業で、ただ一目見ただけで大陸の地政学的な構図のすべてを見透かした、あの忌まわしい少女が。


(もし指揮官が、あの『怪物バケモノ』だとしたら……奴なら必ずやり遂げる。盤面をひっくり返すいかなる『盲点ブラインドスポット』も、絶対に見逃しはしないはずだ)


前に向き直り、誰にも聞こえぬ声で呟く。


直後。


「無駄口を叩くな! 全体、行軍速度を上げたまえ! 夜が完全に明ける前に、この森を抜けるのだ!」


鋭く号令を下し、馬鞭を振り上げようとした。


その瞬間、傍らで沈黙を保っていたウォルフが、ひどく張り詰めた声で短く吠えた。


「待て!」


「どうした、ウォルフ?」カシウスの神経が即座に張り詰める。


フードの奥に隠された狼のような双眸が、前方の濃霧に閉ざされた森を死に物狂いで睨みつけていた。わずかに口を開くと、そこから真っ白な寒気が吐き出される――この炎熱の真夏において、絶対に起こり得ない現象だった。


「カシウス。静かすぎる」


ウォルフは内なる強烈な違和感を口にした。


「辺境が荒らされてるってのに、避難民の影すらねぇ。撤退や補給の要所なら、この地形に見張りもいないのは異常だ……俺の直感が告げている。この森、臭うぜ」


その言葉を聞き、カドスが嘲るように鼻で嗤う。


「臭うだァ? おおかた、あの神経質な坊ちゃんの傍に長く居すぎて、てめェの頭まで過敏になっちまったんじゃねェか、ウォルフ? 今は夏だぜ。こんな薄汚い場所に、木と霧の他になんの……」


だが、その傲慢な嘲笑が終わらぬうちに――死の罠が、一瞬にして牙を剥いた!


ヒヒィーンッ!


隊列の最前列から、軍馬の凄絶な嘶きが突如として響き渡る。


本能的に剣を抜こうとした瞬間、カシウスの乗っていた馬が前のめりに激しくつんのめった。重心がコントロールを失い、前方へと投げ出される。


泥水の中に巧妙に隠されていた罠――『馬伏トラップワイアー』。


それが、先頭部隊の突撃の勢いを的確に刈り取ったのだ!


落馬し、全身を泥濘に打ちつけられたカシウスは、飛び散る泥の向こう側に驚駭の光景を見た。


死に絶えていたはずの両側の茂みの中から、雨後の筍のように、長槍を構え重装甲に身を固めたローレンスの近衛兵たちが無音で次々と立ち上がったのだ。それは氷のように冷たく、決して砕かれることのない鋼鉄の防衛線となり、狭い土の道を完全に塞ぎきっていた。


「てっ、敵襲! 敵襲だァ! 兄弟きょうだいたち、陣形を組めッ!」


先ほどまで我が物顔でふんぞり返っていたカドスが、豚が屠殺される時のようなパニックに満ちた悲鳴を上げた。


激痛に構う余裕もなく、泥まみれになって這い上がる。号令を発しようと、無意識にウォルフの姿を探した。


傭兵の頭上には、いつの間にか、身の毛もよだつような凄絶な冷気を放つ巨大な氷岩が凝結している。


ドゴォォォォンッ!!


耳を劈く轟音。馬車をも粉砕する巨大な氷岩が、突っ込んでくる最前列の重装歩兵たちへと一切の躊躇なく叩きつけられる。衝突の瞬間に無数の鋭利な氷柱つららと化して砕け散った氷塊は、這い上がろうとしていた周囲の味方の傭兵たちをも容赦なく貫いた。


鮮血が、瞬く間に早朝の泥濘を赤黒く染め上げる。


初撃は桁外れの破壊力を見せつけた。しかし、固く結ばれたウォルフの眉間と荒い息遣いを見れば、敵の包囲網がいかに緻密であり、決して容易に払いのけられる烏合の衆ではないことは明白だ。


「カシウス! 狭すぎる。長槍陣は騎兵を完全に殺しにきている!」


眼前で分厚い氷壁を隆起させ、飛来する矢を防ぎながら声を荒らげる。


「全員を守り切るのは不可能だ!」


「ならば剣を抜きたまえ! 傭兵の生死など構うものか!」カシウスは腰の長剣を抜き放ち、血走った目で怒吼する。


「無理だ」


極めて冷徹な拒絶。あろうことか手中の攻撃魔法すら完全に停止させる。斜面から唸りを上げて飛来する巨大な火球が、後列に残された数名の騎兵の頭上へと容赦なく直撃するのを黙って見過ごした。


爆炎の轟音。数名の傭兵が人馬もろとも一瞬にして紅蓮の炎に飲み込まれ、肺を裂くような断末魔の絶叫を上げる。


「俺の契約は、『お前の命を守ること』だけだ」


惨死した傭兵たちに一瞥もくれず、召喚した氷の如く冷酷な声で告げる。


「他の選択肢はねぇ。お前だけを連れて離脱する」


そのわずかな隙を突き、側面の死角から伸びた鋭利な槍の穂先が、毒蛇の如くカシウスの背中へと迫る!


だが、ウォルフがわずかに首を後方へ傾けた瞬間、分厚い半透明の氷壁が地面から急激に突き出し、背後を完全に遮断した。


ガキンッ!


氷壁に激突した槍は木柄から真っ二つに折れ、奇襲をかけた兵士もその反動で数メートル後方へと弾き飛ばされる。


「拒否権はねぇ。行くぞ」


強引にカシウスの肩を掴む。


カシウスは歯を食いしばり、悔しげに顔を上げた。火球が飛んできた方角――高くそびえる尾根の上に、戦乙女ヴァルキリーの如く毅然と立ち塞がる一つの人影が見えた。


純白の髪が、朝の風に荒々しく舞っている。その手の中には、破壊の匂いを漂わせる二発目の灼熱の火球が、驚異的な速度で凝縮されつつあった。


その美しくも致命的な姿を一目で認識する。


「忌々しい……! ローレンスの女王、ミリエルか!」


絶望の悪態をついた瞬間、ウォルフの腕から一切の反抗を許さない莫大な膂力が爆発した。主を失って立ちすくんでいた傍らの軍馬の上へと、カシウスの身体を乱暴に引きずり上げる。胃の腑を突き上げる強烈な衝撃に、昨夜の夕食をすべて吐き戻しそうになる。


「飛ぶぞ。舌を噛むなよ」


ウォルフ自身も馬に飛び乗り、背後にまたがる。直後、ずっと素顔を隠していたボロボロのフードを引き剥がした。


剥き出しになった灰白色の双眸に、神明の如く無慈悲で、絶対的な冷徹さが閃く。


顕現けんげんしろ」


感情の欠片もないその宣告。ウォルフは体内の奥底で圧縮し続けていた膨大な魔力を、火薬庫を起爆させるかのように、一滴残らず世界へと解き放った!


真夏の季節が、今この瞬間、強制的に反転する。


周囲の気温が一瞬にして氷点下へと急降下した。ただ漂っていただけの朝霧が一斉に凍りつき、刃のように鋭利な無数の氷晶へと変貌を遂げる。狂風が吹き荒れ、自然の法則を完全にねじ曲げる『災厄級の大吹雪ブリザード』が、ウォルフを中心として、この狭い森の小道で大音響と共に爆裂する!


魔法の力は、まさに神の奇跡と見紛うほどの暴力で、瞬時に世界のことわりを塗り替えた。


視界を覆い尽くす猛烈な吹雪は、高所から降り注ぐ矢や火球を物理的に遮断したのみならず、近衛兵たちの視界を奪い、その甲冑と関節を完全に凍結させる。


天を遮り、夏を凍らせるこの大吹雪を完全なる隠れ蓑とし、ウォルフは馬鞭を激しく叩きつけた。嘶きを上げた軍馬は二人を乗せた灰色の稲妻となり、すべてをかなぐり捨てて包囲網の最も薄い縁を強行突破し、森の深奥へと狂ったように駆け抜けていく。


猛烈な風雪の中、カシウスは馬のたてがみに必死にしがみつきながら背後を振り返った。


極寒の白い暴風に次第に呑み込まれていく視界の先。逃げ遅れたカドスと傭兵たちが、己らを置き去りにして遠ざかっていく馬の背を、底なしの絶望の表情で見送っているのが見えた。


風雪に混じって聞こえてくる阿鼻叫喚の惨叫。


カシウスは重く目を閉じた。


自身の完璧な計画が、かつては無敵を誇った傭兵団もろとも、ついに完全なる破綻を迎えたのだと悟る。


空を覆い尽くすこの季節外れの異常な吹雪こそが――あまりにも凄惨な、完全敗北の証明であった。

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