豪雨の盤面――開戦のティアドロップ
窓の外は、滝のような豪雨だった。
王都ロースアンに渦巻く罪と絶望のすべてを、根こそぎ洗い流そうとするかのように。
ヴァンナは豪奢なフランス窓の前に立ち、すべてを呑み込もうとする雨幕を見つめていた。その瞳に信じられないといった色をわずかに閃かせ、振り返って背後にいる娘に再び問い詰める。
「シミアは……本当にそう言ったのね?」
「ええ」リアンドラは静かにその場に佇んでいる。「シミアは言ったわ。『これは私たちの盤面です。あなたが席に着くのを、お待ちしていますよ』って」
リアンドラは、シミアがその言葉を口にした時の語気を、できる限り忠実に再現した。
それは一切の軟弱さと迷いを削ぎ落とし、絶対的な自信と鋭い切っ先だけを残したような声。まるで、研ぎ澄まされたばかりの絶世の宝剣が、静かに相手の喉元に突きつけられているかのような――そんな響きだった。
常に怯えてばかりいる臆病な娘の口から発せられた言葉でありながら、ヴァンナの瞳孔は無意識のうちにわずかに収縮した。極めて稀な、微かな冷気が彼女の背筋を這い上がっていく。
「……ふん。随分と大口を叩く小娘ね」
ヴァンナは胸の内に生じたその異物感をねじ伏せ、冷く笑った。「いいわ。絶対的な死局を前にして、あの娘が一体どんな悪あがきを見せてくれるのか、この目で特と見せてもらおうじゃないの」
彼女はリアンドラの机からベルベットの背もたれ椅子を引き出し、窓際で優雅に腰を下ろすと、鋭い隼のような視線を窓の外へと向けた。
「ママ?」リアンドラは少し躊躇いを見せる。
「私がここで見ていると、能力を使いにくいかしら?」ヴァンナは振り返らず、淡々と告げた。「行きなさい。邪魔にならないよう、なるべく音は立てないから」
リアンドラは無言で頷いた。
ベッドへと歩み寄り、純白のネグリジェの裾を丁寧に整え、ゆっくりとベッドに横たわる。
そっと目を閉じると、室内の灯りも、母親の微かな衣擦れの音も、瞬時に意識から剥がれ落ちた。代わりに、窓を打つ鼓膜を破らんばかりの激しい雨音が巨大な高波のように押し寄せ、彼女の意識のすべてを急速に支配していく。
再び意識がはっきりした時、周囲はすでに、どれほど目を凝らしても見通せない灰白色の濃霧に包まれていた。
現実と夢境の狭間にあるこの空間。そこには、かつて彼女の『荒野の夢』に現れた無数の立ち塞がる者たちが、霧の奥でぼんやりと群れを成している。顔を覆って泣く女、深遠な眼差しを向ける老人、そして……彼女がかつて恐怖を抱いた、スーツ姿の中年男。
「あなたたちは……私がこの能力を使うのを、止めようとしているの?」
かつて自分の前に立ちはだかった『存在』たちに向かって、リアンドラは低い声で問いかけた。
「いいや」
群衆の中から、低く落ち着いた、聞き覚えのある男の声が響く。
この世界にはひどく不釣り合いな高級スーツを着こなし、完璧なウィンザーノットのネクタイを締めた中年男が、霧の中から歩み出てきた。彼は目の前の小柄な白髪の少女を見つめ、引き留めるどころか、わずかに腰を折り、非の打ち所がない紳士の礼をとった。
「今回、君は自らの意志で選択を下した。ならば、我々が君の道を阻むことはない」
男の言葉が終わると同時に、彼は静かに身を引いた。それに呼応するかのように、霧の中の群衆も何らかの指令を受けたかのように無音で左右に分かれ、彼女の前に広々とした一本の道を開け渡す。
「ただ、これだけはどうか覚えておいてほしい」スーツの男は顔を上げ、深い眼差しで彼女を見つめた。「君は決して、盲目的な傍観者ではない。どのような選択を下そうとも、君はその選択に見合った重さを、自ら背負わなければならないということを」
リアンドラは答えなかった。だが、その瞳には一切の揺らぎもなかった。
男の忠告に足を止めることなく、彼女はこの機を逃さず、群衆の間を一切の躊躇なく通り抜けていく。
今の彼女にとって、そんな謎めいた言葉などどうでもよかった。重要なのは、シミアが自分の注視を期待し、ママが自分の伝言を待っているということ。
『友達』として、『娘』として、ここで躊躇して立ち止まるわけにはいかないのだ。
彼女の強靭な意志に呼応し、霧が徐々に晴れていく。
やかましい雨音、水溜まりを轢いていく馬車の車輪、軒下で雨宿りをする人々のひそひそ話……ロースアン城内に満ちる千万の音が、千万の雨粒と共に、混沌とした奔流となって彼女の意識へとなだれ込んでくる。決して全知全能ではない、それでも雨が繋ぐ広大な『知覚の網目』の中で、王都の輪郭が次第に浮かび上がっていった。
「……聞いたか? 南方の補給線が絶たれたらしいぞ……」
「どうしよう!? 南方戦線まで崩壊したら、王都に残っている俺たちは死を待つしかないじゃないか!」
――恐慌と絶望に満ちた声。シミアじゃない。
「ママ、昨日食べたみたいな、甘い綿菓子が食べたい!」
「駄目よ! 今日はもう甘いものは食べないって約束したでしょう。それに……今の物価じゃ、ママにはもう買えないわ……」
――生活の重圧と無力感に満ちた声。シミアじゃない。
「あなた……本当にこんなことをするつもりなの? これは、王国の国運そのものを天秤にかけるようなものよ!」
「はい。私がすべての責任を負います。コーナ先生」
シミアの声だ!
もはや聞き分ける必要すらない。ほんの一瞬で、リアンドラは千万の音の波の中から、あの背筋が凍るほどに静かな声の糸を正確に掴み取った。
即座に、声のする方角へとすべての意識を集中させる。
一瞬にして視点が急降下し、見慣れた光景が王宮の分厚い石壁をすり抜け、リアンドラの眼前に飛び込んできた。
荘厳な建築物の輪郭を雨水が滑り落ち、外界の視界を歪ませている。だが、その室内では――
雨幕の向こう側で、シミアは窓際の椅子に深く腰掛け、完全にリラックスした姿勢をとっていた。
手元には、まだ湯気を立てている紅茶のカップ。そのあまりにも自然な余裕は、風雨に晒され崩壊寸前にある外界の王都とは、あまりにも強烈なコントラストを描いていた。
その向かい側で、コーナが微かに震える手で、封蝋の押された一通の手紙をシミアへと差し出している。
手紙を受け取り、それを大切にしまい込むと、シミアの口角が温かくも絶対的な支配力を孕んだ笑みの形に釣り上がった。
「コーナ先生、ありがとうございます。開戦を前にして、あなたが果たすべき役割はすべて完璧にこなしてくれました。これより先の戦場は――私にお任せください」
シミアは目を閉じ、広々とした執務机の上を、何かざらざらとした感触を確かめるように指先でゆっくりと撫でている。
微かな好奇心に駆られ、リアンドラは宙に浮く視点を少しだけ引き上げ、シミアの指先がなぞる軌跡を見下ろした。
そこで、彼女は震えるほどの衝撃を受けた。シミアの目の前にある巨大な執務机。そこに広げられていたのは、無数の細かいマーキングがびっしりと書き込まれた、巨大な『ローレンス王国全土の地図』だったのだ!
そこに記されているのは、単なる地形情報ではない。王都の政治的なパワーバランス、南方の膠着した戦線、そして辺境における絶望的な防衛線。その巨大な地図そのものが、まるで一つの巨大な『盤面』と化しており、その上にはありとあらゆる陣営の『駒』がひしめき合っている。
「シミア、本当に……あなた一人に任せてしまっていいの?」コーナは焦燥感に駆られたように机の傍を行ったり来たりしている。その乱れた足取りと、手紙を握りしめていた手の震えが、この宮廷教師の極限の不安を雄弁に物語っていた。「相手はあの銀潮連邦なのよ! 王国全体の命運が、今、あなたのその細い肩にすべて懸かっているのよ!」
恩師の焦りなどどこ吹く風と、黒髪の少女は手元の紅茶を優雅に持ち上げ、小さく一口含んだ。
「私を信じてください、コーナ先生」
顔を上げたシミアの、その深く漆黒の瞳の奥には、絶対的な理知と不敗の信念だけが燃え盛っていた。
「私が必ず、このローレンス王国に勝利をもたらしてみせます」
コン、コン、コン。
その時、重く、それでいてひどく抑制されたノックの音が室内の空気を切り裂いた。
「女王代理陛下」扉の向こうから、必死に取り繕いながらも緊張を隠しきれない近衛兵の声が、分厚い氷原木の扉越しに響いてきた。「銀潮連邦代表、コルヴィノ様が……ご到着されました」
その名を聞いた瞬間、コーナの呼吸がぴたりと止まる。
しかし、椅子に腰掛けるシミアは、ただ静かにティーカップをソーサーへと下ろした。白磁のカップとソーサーが触れ合う澄んだ『チンッ』という音が、まるで開戦を告げる審判の笛のように、室内に高く鳴り響く。
「通してください、コーナ先生」
シミアはゆっくりと立ち上がり、スカートの皺を優雅に払い落とすと、間もなく開かれるであろう重厚な扉を真っ直ぐに見据えた。
「そして、どうか扉の外で……私の良い報せをお待ちください」
コーナは深く息を吸い込んだ。シミアの全身から放たれる、その目に見えない圧倒的な統帥のオーラに完全に呑み込まれ、心服させられたかのように。彼女は力強く頷くと、扉へと歩み寄り、両手でその分厚い氷原木の扉を力いっぱい押し開いた。
外からは、狂ったような風と湿った雨の匂いが吹き込んでくる。
だが、この部屋の中では――
すべてがすでに、整っていた。




