迫り来る嵐
歴史の授業が終わると、戦略課の教室には少しずつ日常の喧騒が戻り始めた。
席に座ったまま、机上のノートや筆記用具を黙々と鞄の中にしまっていく。周囲に陣取っていた銀潮連邦の留学生たちも次々と立ち上がり、談笑しながら連れ立って教室を出ていく。
その時、トリンドルが身を乗り出し、服の袖をちょんと引っ張った。
透き通るような水色の瞳に気遣いの色を浮かべ、彼女は声を潜めて囁く。
「シミア。シャルが朝言ってたんだけど……今日の放課後、まずは寮に寄ってほしいって。コーナ先生と一緒に食べられるように、特製のお菓子を焼いておいたそうよ」
一瞬ぽかんとした後、なるほどと合点がいったように小さく頷く。
ここ数日、窮地を脱する手掛かりを見つけるため、山積みの書物の海で目を真っ赤にして資料と格闘するコーナ先生の姿が脳裏に浮かんだ。先生への感謝をどう伝えようかと悩んでいた矢先だっただけに、シャルのその細やかな気配りは、まさに干天の慈雨だった。
「分かった、寄ってから行くわ。伝えてくれてありがとう」
するとトリンドルはジト目を向け、『水臭いこと言わないでよね』とでも言いたげな不満の視線をよこした。
鞄を背負い、教室を出ようと一歩を踏み出したその時。
突如として、上質なスーツを着こなした長身が、まるで『嘆きの壁』のように、一切の前触れなく眼前に立ちはだかった。
アレクシスだった。
「シミア」アレクシスは見下ろすように視線を注ぐ。その目には、複雑な値踏みの色と、すでに勝負あったと言わんばかりの余裕が同居していた。「たった今、本国から至急の密書が届いた。コルヴィノが――明後日、このローレンス王国に到着する」
彼は一拍置き、一文字一文字を噛み締めるように宣告した。
「彼が自ら、君と面会することに同意したよ」
その報せを聞いた瞬間、瞳孔がわずかに収縮する。
明後日。
それはすなわち、首に掛けられた見えない経済の絞首縄が、完全に引き絞られることを意味していた。ローレンス王国に――いや、破局を回避する手段を探すシミアに――残された時間は、わずか四十八時間。
無情なるカウントダウンは、すでに始まっていた。
だが、その重圧に満ちた最後通牒を突きつけられてなお、一歩も退きはしなかった。わずかに腰を折り、非の打ち所がない、しかし一切の温度を持たない完璧な礼儀作法で、目の前の男に感謝を述べる。
「この度の面会を取り計らっていただき、感謝いたします。アレクシス様」
顔を上げる。その端正な顔立ちには、好機を得た喜びなど微塵もなく、ただ分厚い氷で覆われたかのような、凄絶なまでの重圧と決意だけが張り付いていた。
一切の妥協を許さない漆黒の瞳を真っ直ぐに見つめ返され、アレクシスは口を半開きにした。さらに何かを説得しようとしたようだったが、結局その言葉は喉の奥へと飲み込まれる。
彼はそれ以上一言も発することなく、踵を返して自分の席へと戻り、用意されていた鞄を手に取ると、逃げるように教室を後にした。
* * *
澄み切ったガラス窓を通り抜けた午後の陽光が、寮の居間を斜めに照らし出している。
空気には、まだパンと麦の甘い香りが微かに残っていた。
ここはシャルとシメールの部屋だ。シメールは剣の鍛錬に出かけているため、今は二人きりである。真っ白な布巾を手に、シャルと肩を並べて、使い終わったばかりのダイニングテーブルを丁寧に拭き上げていた。
黙々と作業に没頭する華奢な背中に黄金色の陽光が降り注ぎ、この重苦しい午後に、ほんの少しだけ得難い温もりをもたらしている。
「シミア様、ここのテーブルは私に任せて、今日はもう出発されてはいかがですか?」隣から、いつも変わらぬ包容力と優しさに満ちたシャルの声が響く。「図書館で、とても大事な調べ物があるのですよね?」
その言葉に、テーブルを拭く手がピタリと止まった。木目の模様をぼんやりと見つめたまま数秒が過ぎ、やがて再び布巾を動かし始める。
小さく、首を横に振った。
「いいの、シャル。こうして体を動かして機械的な作業をこなしている方が、かえって思考に集中できるから」
「そうですか……」
張り詰めた横顔を見つめ、シャルは唇を噛む。少しの躊躇いの後、探るように小さな声で尋ねた。
「シミア様、最近……リアンドラ様とは、ご連絡を取っていらっしゃいますか?」
その聞き慣れた名前に、無意識のうちに布巾を握る指先に力がこもる。
「……取っていないわ」伏し目がちに、極力感情を交えない平坦な声で答える。「ヴァンナ会長が今回の経済戦争で敵対的な役割を担っている可能性が高い以上、私からリアンドラに接触するわけにはいかない」
声はひどく静かだったが、そこには決して溶かすことのできない重苦しい響きがあった。
「彼女はヴァンナ会長の娘。私が接触すれば、母親と友人の間で彼女を板挟みにし、苦しめるだけよ。それに……私はもう、最後の最後まで抗い抜く覚悟を決めているのだから」
それこそがシミアの優しさであり――同時に、彼女特有の残酷さでもあった。
彼女はいつも、全ての責任と苦痛を自分一人で抱え込もうとする。大切な友人を板挟みの窮地に陥れるくらいなら、自ら孤軍奮闘する道を選ぶ。一度決断したなら、不屈の戦士のように歯を食いしばり、最後の最後まで一人で戦い抜くのだ。
その言葉を聞き、シャルは掃除の手を完全に止めた。
「シミア様、もしかすると……これは私の単なる思い込みなのかもしれません」
どこか執拗ささえ感じさせるシャルの声に、ゆっくりと顔を上げる。そこには、葛藤に塗れながらも、異常なほどの決意を宿したシャルの顔があった。
シャルは深く息を吸い込み、シミアの目を真っ直ぐに見つめた。
「シミア様のその頑張りも、お友達を思いやるその優しさも……絶対に、無駄になんてなりません! シミア様、どうかリアンドラ様を信じてあげてください……! 彼女は、彼女だけは絶対に、シミア様のお気持ちを裏切ったりしませんから!」
四面楚歌となり、未来への道筋すら見えないこの王都にあって。
シャルのその言葉は、まるで一筋の温かい奔流となって、思考を重ねすぎて冷え切っていたシミアの心を優しく包み込んだ。
虚を突かれたように目を見開く。やがて、極限まで強張っていた口元がようやく柔らかく解け、微弱ながらも、確かな本音の微笑みがこぼれた。
「……そう、かもしれないわね」
顔を伏せ、再び目の前のテーブルを拭き始める。だが今度は、その動きが先ほどよりも少しだけ軽やかになっていた。
しばらくして、二人がかりで磨き上げた居間は、チリ一つないほどに綺麗になった。
手を洗い、シャルが美しい紙箱に丁寧に詰めてくれたお菓子を、両手でしっかりと受け取る。
深く息を吸い込んだ。それはまるで、これから死地へと赴く騎士が、最後の補給物資を受け取るかのように――そして背筋を伸ばし、真っ直ぐに学校の図書館へと歩き出した。




