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原罪の授業と臆病な共犯者――嵐へ向かう背中

連日の豪雨のせいか、神話学の教室にはどこか重苦しい空気が淀んでいた。


中列の席に座るリアンドラは、最前列にある見慣れた背中――シミアを食い入るように見つめていた。机の下で両手をきつく握り合わせ、その胸中は不安と焦燥に激しく苛まれている。


以前受けた肉体的な苦痛はすでに消え失せていたが、あの男の冷酷な声が、錆びた鉄釘のように心臓の奥深くまで無慈悲に打ち込まれていた。


『彼女の保護など虚飾に過ぎない。シミアが幸せかどうかなんて、彼女はどうでもいいんだ』


深海商会を牛耳る絶対的な権力者である母。その恐るべき真意を暴く言葉が、頭の中で何度も反響する。


『彼女が恐れているのは、強大なる銀潮連邦が、「不安定な」ローレンス王国を飲み込むこと。そのためにシミアは人質であり、使い勝手のいい道具であり――彼女の新たな傀儡くぐつに過ぎないのさ』


「……仮に、十二英雄リリアが予示よじしたように、巨獣の殺戮そのものが一種の原初の罪だとすれば、平和を享受している我々後世の人間もまた、その罪を背負って生きていくべきなのでしょうか?」


教壇に立つコーナ先生は、分厚い古書を手にしている。その声は決して大きくなく、語り口もいつも通り平坦なものだったが、リアンドラの耳には、鼓膜を突き破り、千瘡百孔の心に直接響いてくるように感じられた。


「この古き問いに対し、著者は本書の中で深い探求を行っています」コーナ先生は教室全体をゆっくりと見渡した。「彼の結論はこうです。現代を生きる我々は、直接巨獣に危害を加えたわけではない。ゆえに、行為としての直接的な責任は負わない、と」


その言葉を聞いて、微かに安堵の息を漏らした。


(そうよ……もしママがシミアを傀儡にしようとしているのが事実だとしても、それはママの罪。私がそうならなければいい、私がシミアを傷つけさえしなければ……)


しかし、コーナ先生の言葉の矛先が突如として反転する。


「しかし――」パタンと本を閉じ、射貫くような視線を放った。「もしこの時代に生きる我々が、利益のために巨獣を屠った『英雄』たちを称賛し、あまつさえその罪によってもたらされた果実を平然と貪るとするならば……魂の次元において、我々はその虐殺の共犯者なのです!」


その一言は、落雷のように脳内を激しく打ち据えた。


いつかの日、シャルから突きつけられた非難の言葉が、再びフラッシュバックする。


(駄目……私が……私自身の口から、すべてをシミアに打ち明けなきゃ)


(でも、ずっと隠し事をしていたと知ったら、ママのやったことを知ったら……シミアは私を許してくれるの?)


苦痛に顔を歪め、ぎゅっと目を閉じる。いっそ頭の中が真っ白になればいい。こんな息が詰まるほど重い問題など、何も考えずに済めばいいのに。だが、残酷な理性が絶えず警鐘を鳴らし続ける。今この瞬間こそ、シミアが最も情報を、最も味方を必要としている時なのだと。


「先ほど触れたのは、『幸福主義』を批判する一つの観点です」コーナ先生の声が教室に響き渡る。「幸福主義者は往々にして、『今、私たちが幸福で安穏に暮らしている』という現状を論理の起点とし、そこから逆算して『過去の殺戮は正しく、無罪であった』と結論づけたがります。しかし、このような原因と結果をすり替える論理は、到底擁護できるものではありません」


一拍置き、先生はさらに語気を強めた。「もしかすると、こうした偽善的な弁明は、短期的には既得権益者からの支持を得られるかもしれません。しかし長期的に見れば、より巨大な災厄の種を蒔いているに過ぎないのです」


(偽善……共犯者……)


もしシミアが何も知らないまま、ローレンス王国が傀儡へと堕ちていくのをただ見届けることになったら。そして後になって全ての真実が白日の下に晒された時、彼女は私をどう見るだろうか?


きっと、自分の傍に潜り込み、虚構の友情を貪っていた裏切り者として蔑むに違いない。


(判断を下すべきなのは私じゃない。シミアよ。彼女には、真実を知る権利がある)


再び目を開き、前列を見据える。シミアは俯き加減で、真剣にノートを取っていた。真っ直ぐに伸びたその背筋には、決して折れない不屈の強靭さが宿っている。


彼女はすでに、この陰謀において深海商会が果たしている役割に勘付いている。その鋭敏さがあれば、遅かれ早かれ核心たる真実に辿り着くだろう。他人の口から残酷な事実を告げられるくらいなら、自分の口から全てを打ち明けなければ。


その時――授業の終わりを告げる鐘の音が唐突に鳴り響き、思考を断ち切った。


教室内にわかに軽いざわめきが広がる。シミアはノートを閉じ、一人黙々と鞄を片付け始めた。


(今日もいつも通り、放課後はトリンドルのお見舞いに行くのかな?)

現実から逃避しようとするかのように、どうでもいい日常の疑問がとめどなく脳裏を掠めていく。


(駄目、もう逃げちゃ駄目だ。今日もまた、あの時のように臆病風に支配されるつもり?)


奥歯を強く噛み締め、両手で机を支える。無理やりにでも立ち上がり、あの背中の元へと歩み寄ろうとした。


だが、絶望的なことに、両脚は鉛を詰め込まれたように重く、膝は信じられないほど激しく震えていた。


己の軟弱さと戦っていたそのわずか数秒の間に、前列のシミアはすでに鞄を手に取っていた。


しかし、予想に反して、彼女は教室の出口へは向かわなかった。身を翻し、教室の反対側の隅へと真っ直ぐに歩いていく。


(シミア……どうして、あっちに!?)


心臓が大きくドクンと跳ねた。


クラス中の生徒が驚きの目を向ける中、その足取りに一切の躊躇はなく、真っ直ぐにアレクシスの席の傍らで立ち止まった。


彼は、王都の情勢における最も予測不能な変数の一つ。そんな彼に接触するということは、一体何を意味するのか?これからどんな行動に出ようとしているのか?


瞬間、巨大なパニックがリアンドラの心を鷲掴みにした。


(駄目だ……もし今駆け寄って全てを打ち明けたら、アレクシスに聞かれてしまう!私の軽率な行動のせいで、ママの計画を台無しにしてしまったら……ママは絶対に、絶対に激怒する……っ!)


恐怖という名の氷のように冷たい手が、力任せに口を塞ぎ、ようやく振り絞った勇気を暴力的にねじ伏せる。


一コマの間ずっと座っていた自分の椅子に視線を落とす。ほんの数秒の逡巡の後――極限まで張り詰めていた身体から、一気に糸が切れた。


どさりと、力なく座り込む。


教室の前方では、シミアとアレクシスが瞬時に何らかの合意に達したようだった。周囲の探るような視線など気にも留めず、二人は並んで教室を出ていく。


その背中は、これから吹き荒れる嵐を正面から迎え撃つかのように、あまりにも決然としていた。


一方、その場に取り残されたリアンドラは、溺れる者のように大きく喘ぎながら、ただ空気を貪るしかなかった。虚ろな瞳のまま、ノートとペンを乱暴に鞄の中へと滑り込ませ、ファスナーを閉じる。


そして、ずっしりと重い鞄を背負い――本物の敗残兵のように、ただ一人、無言で教室を後にした。

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