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冷たい紅茶と狂気の盤面

降り続く陰鬱な雨が、王都全体を巨大な水牢に沈めているかのようだった。王家図書館のステンドグラスを容赦なく叩きつける雨粒。その絶え間ないホワイトノイズは、見えない重圧となって、執務室にいる二人の心底へとじわじわと染み込んでいく。


薄暗い図書館の中、机上の燃え尽きそうな数本の蝋燭だけが、辛うじて小さな光の領域を保っていた。


卓上には二つのティーカップ。かつては芳醇な香りを漂わせていた湯気も、今は完全に忘れ去られている。最も美味しいはずの飲み頃をとうに過ぎ、冷え切った紅茶の表面には薄い膜が張っていたが――どちらも、それに口をつける気力など欠片も残っていなかった。


シミアは手元の便箋を食い入るように見つめ、眉間には深い皺を刻んでいる。揺らめく蝋燭の光が、蒼白な頬に濃い影を落としていた。脳裏に浮かんでは消える物資調達のプランを、次の瞬間には容赦なく叩き潰す。その終わりのない反芻。


「どうすれば……シミア?」


沈黙を破ったのは、向かいに座るコーナだった。その声には、隠しきれない疲労の色が色濃く滲み出ている。


すぐには答えない。視線は依然として、物理的には薄く軽く、しかしどうしようもなく重いその便箋に釘付けになっていた。

南方の最前線から、ミリエルが認めた親書。そこには、苛烈を極める南方戦線の悲惨な現状と――絶望的なまでに膨れ上がった必要物資のリストが、詳細に記されていた。


「以前、ヴァンナ会長と取り決めた価格で計算すると……」口からこぼれた声は、ひどく乾いていた。「現在の資金では、この物資の三分の一すら賄えません」


残酷な事実だった。誰も認めたくはないが、ローレンス王室の国庫はとうに底を突いている。次なる物資供給を負担する力など、もはやこの国には残されていなかった。


再び、死に絶えたような静寂が舞い降りる。

平素は冷静で余裕のあるコーナでさえ、今はただ為す術もなく絶望の表情を浮かべている。その姿を前に、机の下でそっと拳を握りしめた。


(これ以上、隠し立てはできない。間違った盤面ボードの上でいくら長考しようと、勝機など永遠に訪れない)


カビと雨の匂いが混じった空気を、深く吸い込んだ。ここまでの絶境において、表面上の情報だけで足掻くことなど無意味だ。


「コーナ先生」顔を上げた瞳には、ある種の決然とした光が宿っていた。「現在の局面に際し、どうしてもお伝えしなければならない極秘事項があります」


疑問符を浮かべて顔を上げたコーナは、冗談の欠片も存在しない漆黒の瞳と視線を交わした。


「南方戦線以上に、今の王都が置かれている状況は……極めて危険です。すでに崖っぷちにあると言っても過言ではありません」


驚愕に見開かれた目を真っ直ぐに見据えながら、もう一通――ミリィル・ルルトから送られてきた密書の内容を、包み隠さず告げた。

銀潮連邦が周到に張り巡らせた、高金利という名の債務の罠。そして、コルヴィノ家と深海商会が複雑に絡み合い、王国を確実に締め殺すべく構築した暗黒の包囲網。その一切のディテールを、一つ残らず吐き出す。


事の顛末を聞くにつれ、コーナの目はさらに見開かれ、血の気の引いた唇が微かに震え始めた。最後の言葉を紡ぎ終えても、普段は思慮深いこの宮廷教師は、全身の血と活力を抜き取られたかのように、一言も発することができなかった。


「それじゃあ……銀潮連邦は、近いうちに……」随分と時間が経ってから、ようやく絞り出すように声を漏らした。


「はい。いかに銀潮連邦が財力を誇ろうと、市場原理に反する異常な高金利を長期維持することなど不可能です」まるで他人の生死でも語るかのように、酷薄なまでに冷静な口調で分析を続ける。「推測では、南方戦線が決着を迎える直前――つまり、最も疲弊し切ったその瞬間に、王都へ致命的な一撃を仕掛けてきます」


シミアはコーナを見つめた。いつも的確な助言を与え、導いてくれた頼れる先生。その瞳が今、確かな『絶望』という名の濁流に呑み込まれていく。


激しい自責の念が胸を苛んだ。この凄惨な真実を暴き、眼前に突きつけたのは、他ならぬシミア自身なのだから。


「コーナ先生、このまま座して死を待つわけにはいきません」少しだけ声のトーンを上げ、先生の意識を現実に繋ぎ止めようとした。「連中のルールに従ってこのマネーゲームを続ければ、勝機は万に一つもありません。こちらから打って出なければ、南方戦線のみならず……ローレンス王国そのものが完全に崩壊します!」


「でも……どうやって打って出ろと言うのよ?」


これほどまでに徹底した諦めの言葉を聞くのは、初めてのことだった。


コーナは苦悶の表情で目を閉じる。

「今すぐヴァンナの物資が必要なのに、資金がないわ。資金がなければ、この王都では身動き一つ取れない。陰謀だろうが正攻法だろうが……圧倒的な資金力の差を前にしては、今は……何もできないのよ」


それは、大人だからこそ陥る理知的な絶望だった。全ての帳尻を正確に計算できてしまうからこそ、退路も活路も存在しないことを悟ってしまうのだ。


反論はしなかった。ただ静かに首を巡らせ、窓の外を見遣る。


幾重にも連なる分厚い雨のカーテンが、絶望の帳となって王都の視界を完全に遮断している。行く末は、この雨霧のように混沌とし、未知なる恐怖に満ちていた。


しかし――その冷徹な雨を眺めているうちに、脳裏に突如として一つの光景がフラッシュバックした。


土砂降りの雨。

四つの生々しい命が、雨の中で次第に熱を奪われ、冷たくなっていくのをその目で見た。


あの日、死ぬはずだった。


息も絶え絶えになるほどの雨幕の下、首筋に押し当てられた凶刃の、あのひんやりとした感触。本当の絶望とは何かを骨の髄まで味わい、いっそ抗うことを放棄しようとさえした。


今の戦況は、あの時と何が違うというのか?


王都は見えない真綿で首を絞められ、南方戦線は干上がろうとしている。ただここに座して待てば、行き着く先は同じ『滅亡』だ。


雨の夜、刺客の刃に身体を貫かれるのを待つのは『確定された絶望』。

対して、銀潮連邦がいつ包囲網を完全に狭めてくるか分からない今の状況は、『不確定な絶望』に過ぎない。


あの時、ミリエルが後先考えずに駆けつけてくれなかったら、とうに冷たい骸となり、名もなき泥の中に無造作に埋められていただろう。


(せっかく、ここまで辿り着いたというのに。ここで盤を投げるのか?)


記憶の中の雨夜――全身傷だらけで荒い息を吐く『あの日のシミア』が、ひび割れた声で、安全な場所にいる『今』へと鋭く問いかけてくる。


目を閉じ、無意識のうちに息を止めた。

死の淵を覗き込んだ時と同じ、あの生々しい窒息感が胸の奥からせり上がってくる。


あの雨夜の果てに、間一髪で窮地を救ってくれたのはミリエルの決死の行動だった。では――この姿無き経済戦争において、一体誰がこの死局を救ってくれるというのか?


再び瞳を見開く。

目の前にいるコーナの不安と喪失に満ちた表情は、ひどく見慣れないものだった。しかしそれこそが、内に眠る『何か』に決定的な火を点けたのだ。


大胆不敵――いや、正気の沙汰とは思えない狂気めいた発想が、脳内で瞬時に組み上がる。


(たとえこの先が死にチェックメイトであろうと、この手で駒を進める!)


ガタンッ!


唐突に椅子を蹴立てて立ち上がった。その勢いのまま、とうに冷え切っていたティーカップを引っかけ、派手な音を立てて倒してしまう。

暗紅色の紅茶が机の縁からポタポタと滴り落ちる様は、まるで血の宣告のようだった。


だが、拭き取ろうともせず、一切の躊躇なく踵を返し、図書館の扉へと向かって歩き出した。


「どこへ行くの、シミア!?」その突飛な行動にハッと我に返ったコーナが、慌てて立ち上がり声を張り上げる。


扉の前で、ぴたりと足を止めた。

わずかに振り返った口元を、薄暗い蝋燭の光がようやく照らし出す。そこには、圧倒的なまでの闘志を孕んだ不敵な笑みが刻まれていた。


先生の問いかけに対し、漆黒の瞳を持つ少女は、確かな熱を帯びた声でただ一言だけを言い残した。


「――希望を見つけにいくのです。コーナ先生」

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