辱めの賭けと、譲れないもの
近頃のレインは、厄介事に見舞われてばかりだった。はじめはセバス爺様にトリンドルお嬢様を探すよう言いつけられ、それがどういうわけか、シミアの手助けをすることになった。思い描いていた、学園で青春の汗を流すという理想は、こうしてすべて水の泡と消えた。
木漏れ日が本のページに落ちる。涼しい風が吹きつけ、レインはぶるりと身を震わせた。
きゃらきゃらと笑いながら女子の一団が通り過ぎていく。レインは慌てて持っていた本をめくった。一体いつまで、こんな退屈な仕事を続ければいいのやら。
「たすけ――」
周りを見渡せば、ほとんどが女子生徒。注がれる視線がやけに突き刺さる。
「たすけ――助けて!」
甲高い悲鳴が、中庭の静寂を破った。逆さに持っていた本を閉じ、レインは声のする方へと向かった。
声の出どころは、女子寮の入り口に近い部屋のようだ。助けを求める声に合わせて、ドアがドンドンと激しく叩かれている。周りを通りかかる女子生徒もいたが、足を止めて事情を尋ねた後、すぐに立ち去ってしまっていた。
「無駄なことよ。一番年下のあんたが掃除当番って、決まってるでしょ?」
「掃除――もう、終わらせました」部屋の中から、おどおどした声が聞こえる。
「はぁ? あんたのあれが掃除ですって? 家具は全部、人の影が映るくらい磨かなきゃダメなのよ、影が」
ドアの外で、三人の女子生徒が口元を隠してくすくす笑っている。
「わ、私……授業に……」
シャルという名の少女の声に、泣き声が混じり始めた。
「平気よ。先生には私たちが言っといてあげるから。『罰せられし者』の“お付き”として、恥ずかしくて顔向けできませんでしたってね」
「「「ハハハ!」」」
レインはこれほど下品な笑い声を、聞いたことがなかった。
ドアの外からこっそり様子を窺っていたレインはため息をつき、領主クラスの教室がある方へと向かった。
食事の時間はとうに過ぎているが、シミアがどこへ行ったのかわからない。だが、さっきまでシミアが教室でノートを整理しているのを、レインは見ていた。
彼は人目を避けながら、領主クラスの教室を覗き込む。シミアが持つ羽根ペンが、ノートの上で軽やかな小步舞曲を踊っていた。彼女はメモを取りながら、物思いに耽っている。
レインが隣に立つまで、シミアはその存在に気づかなかった。
「君の付き人、三人のルームメイトに虐められているようだぞ」
シミアは勢いよく立ち上がり、レインの手を固く握った。
「シャルがいる場所に、案内してください! お願いします!」
距離が近すぎることに、シミアは気づいていないようだ。レインは視線をどこにやればいいのかわからなかった。
彼の知る限り、シャルはシミアの付き人でしかない。たかがその程度のことで、そんなに慌てるなんて。この女は本当に大袈裟なやつだ。
ぜえぜえと息を切らしながら、レインは全力で走るシミアを追いかける。
(冗談だろ? なんであんなに速く走れるんだ?)
シミアは普段、栄養が足りていない平民の少女のように見えるのに、その速さはレインを上回っていた。
それに、あのシャルってのは、彼女のメイドなんだろ? なぜ一人のメイドを助けるために、あそこまで必死になるんだ?
レインが寮の角を曲がった時、重い鞄が彼の背中に激しくぶつかった。
なんと、シミアは鞄さえ忘れてきていたのだ。
レインが現場に駆けつけた時には、シミアはすでに三人の女に囲まれていた。
「何をしているの? 早くシャルを出して」
「あんたが『罰せられし者』? その付き人を助けてほしいんでしょ、跪いて頼みなさいよ!」
「そうよ、跪いて私たちの靴を舐めたら、大慈悲で許してあげないこともないわ?」
「あらあら、授業で先生に逆らった時の威勢はどこに行ったのかしら、地位が一番低い一階領主様?」
囲まれたシミアは、心配そうに閉ざされたドアを見つめている。
「彼女たちの言うことを聞いてはなりません、シミア様!」
シャルの声は、もはや泣き声ではなく、強烈な怒りに満ちていた。
「あなたたちの中に、領主の跡継ぎはいないわね? ここは学校だけど、あなたたちがここでしていること、外に伝わらないとは限らないわよ」
シミアの声に震えはなかった。彼女は胸を張り、周りの貴族の子女たちに問いかける。その言葉を聞き、一人の女子生徒の顔に、恐怖の色が浮かんだ。
「あんたなんかに! 一番弱い領主の称号で、村一つ持たない領主のくせに!」
しかし、絶体絶命の状況は変わらない。シミアの正面に立つ女子生徒が、彼女を見下ろしながら問い詰めた。
「たとえ私が一階領主でも、領主であることに変わりはない。でもあなたたちは、未来永劫、領主の座を継ぐことはできない。この学校を出た後、あなたたちは一体どういう身分になるのかしら?」
シミアは毅然として正面の女に詰め寄る。その気迫に押されたのか、彼女はためらいがちに半歩後ずさった。
「どこかの下級領主の三男か四男に嫁がされて、希望のない人生を送る? それとも、金持ちの商人に大金で買われて、慰みものになる?」
「黙れ! 忘れたの、あんたの僕はまだ私たちの手の中よ」
彼女の後ろにいた女が、鍵束を取り出してシミアの目の前でじゃらつかせた。
シミアの視線が、思わず宙の鍵束に向けられる。その隙を、少女は見逃さなかった。
彼女はシミアの手首を掴むと、その体をドアに激しく叩きつけた。
「やめて、シミア様から離れなさい!」
ドアの向こうから、シャルの必死な声が響く。
レインはため息をついた。もしここでシミアが彼女たちの毒牙にかかれば、セバス爺様にどんなお叱りを受けるか分からない。そう思うと、彼は深く息を吸った。魔力が、自然と体中を巡り始める。
「あなたたちがしたいのは、私を辱めて、女王陛下にご機嫌取りをすることでしょう?」
「え?」
シミアの言葉に、三人の女たちは動揺した。
「いいわ、その機会をあげる」
自分を押さえつけていた女がためらった隙に、シミアはその手を振り払い、自由を取り戻した。
「あなたたちがここで何をしても、誰も知ることはない。でも、もし誰かに知られたら、あなたたちの卑劣な品性は、自分たちの家族にまで影響を及ぼすことになるわ」
シミアの視線が、目の前の女を射抜く。彼女はわなわなと震えながら後退りした。
「その時、あなたたちがどうなるか、想像に難くないでしょう? 家の地位を固めるための道具として、会ったこともない、自分より何十歳も年上の肥満領主に嫁がされる? それとも利用価値を失って、田舎にぞんざいに追いやられ、果てしない寂しさと後悔の中で一生を終える?」
「だ、黙れ!」
大声で怒鳴った女の視線がシミアと交錯し、その声量は途端に小さくなった。
「何を怖がってるのよ? 私たちは別に、不正なことをしてるわけじゃないでしょ? 彼女はあの『罰せられし者』よ。女王陛下のために、鬱憤を晴らしてあげてるんじゃない!」
その言葉は、仲間だけでなく、自分自身に言い聞かせているようだった。
その言葉に勇気づけられたのか、後ずさっていた女が再び正面から詰め寄り、その顔に獰猛な笑みを浮かべた。
「黙れ! この口先だけの女! 授業で先生に盾突くのが得意なんでしょう? いいわ! なら、そのお笑い草の『弁論』で賭けをしましょうよ! やれるもんならね!」
「いいわ」シミアは一切ためらわず、即座に承諾した。
「何を賭けるの?」
シミアの揺るぎない眼差しに、賭けを吹っかけた女の方が逆に狼狽え始めた。
彼女は視線を上げられず、その目は最終的にシミアの胸元で止まった。
「あんた……あんたが負けたら、服を全部脱いで、学校の周りを一周しなさい!」
「だ、ダメです、シミア様!!!」
ドアの向こうから、猛烈なノックの音が響き渡る。その音は、レインが聞いたどの助けを求める声よりも、遥かに力強かった。
シミアの脳裏に、馴染みのない記憶が蘇る。カシャ、というシャッター音。クラスメイトに初めて裸の写真を撮られた日。やがて彼女は理解した。一度弱みを握られれば、二度と逆らうことはできないのだと。瞬間、シミアは全身から力が抜けたように、背中を強くドアに打ち付け、ドン、と鈍い音を立てた。
「ダメです! 約束してはなりません!」
シャルが背後から固いドアを力任せに叩く。その振動に合わせて、シミアの体も震える。
「シミア様、ダメです」
「ダメ!」
シャルの必死の叫び声は、まるで清らかな泉のようだった。ドアの振動が、その泉にさざ波を立てる。ドアの向こうには、彼女の家族がいる。今回ばかりは、もう退路はない。彼女が顔を上げた時、その瞳にもはや迷いはなかった。
「その賭け、受けたわ」
彼女は目の前の三人の女を直視し、まるでその顔を記憶に刻み込むかのように、一人一人を睨みつけた。彼女たちの視線は、親鳥を見失った雛鳥のように、あちこちに逃げ惑っている。
その時、三人は背後からゆっくりと近づいてくる足音を聞いた。
レインは頭を掻きながら、ため息をついて三人のそばに歩み寄った。
「それなら、彼に証人になってもらいましょう。もし私が負けたら、服を全部脱いで、学校の周りを一周するわ」
「でも……もしあなたたちが、二度とシャルに手出しをしないと誓えないなら、あなたたちがしたことは、そのままあなたたちの家族の耳に入ることになる」
レインの登場で、三人の女の気勢は瞬く間に弱まった。シミアの言葉が追い討ちをかけ、彼女たちの肩が同時にびくりと震えた。
三人は、揃ってこくりと頷いた。
寮を出た時、レインはため息をついた。
「あんなに怖がってたのに、なんであんな賭けをしたんだ」
彼の視線は、震えるシミアの肩と、固く噛みしめられた彼女の唇に向けられていた。
「だって、この方法で彼女たちを牽制しないと……シャルが、またきっと虐められるから」
「はぁ!? あんた、本当に王宮で女王に逆らったっていう、あの『罰せられし者』なのかよ?」
こうして、シャルの危機は、一時的にではあるが、解消されたのだった。