女王代理の決断、悪名の代償
「お入りください、シミア様」
衛兵が恭しく腰を折り、王家図書館の重厚な扉を押し開けた。
開かれた隙間から、午後の強烈な陽光が廊下へと雪崩れ込んでくる。
シミアはその金色の光輝を全身に浴びながら、王国の運命が決まる部屋へと足を踏み入れた。
入室したシミアを見て、コーナの張り詰めた表情がふっと緩んだ。
それはまるで、溺れる者が一本の流木を見つけた時の顔だった。
「シミア、待っていたわ」
シミアの視線はコーナを通り越し、長机の上へと吸い寄せられた。
そこにはもう、瑣末な陳情書の山はない。
代わりに広げられているのは、無数の赤いラインが引かれた巨大な地図――南方農業領と国境地帯の詳細図だ。
空気には、嵐の前の特有の重圧感が漂っている。
「コーナ先生。これが、最新の戦況報告ですね?」
シミアの声は、凪いだ水面のように平坦だった。すでにコーナの焦燥の根源を察しているからだ。
コーナは即座にシミアを地図のそばへ引き寄せた。震える指先で、地図上の不吉な矢印を指し示す。
報告の内容は絶望的だった。
シミアは時折詳細を問い質し、短く頷く。報告書の末尾まで目を通し、王室直属軍に新たな壊滅的被害がないことを確認して初めて、肺の奥で小さく安堵の息を吐いた。
「シミア? どう見るの? 鋼心連邦の、この突発的な全面侵攻を」
「先生。『突発的』ではありません」
シミアは即座に否定した。
その口調には、有無を言わせぬ権威が宿っていた。
「ミグ・ヴラドが鋼心連邦の傭兵団に救出された時点で、このシナリオは確定していました。彼が南方で反旗を翻すタイミングさえも、恐らくは連邦が描いた脚本通り……私の見立てでは、南方の反乱は鉄槌が振り下ろされる前の風切り音に過ぎません。本命は、国境への侵攻です」
「つまり……」コーナは躊躇いがちに問う。「南方戦線は陽動だと? 国境攻勢を隠すための?」
シミアはかぶりを振った。
卓上に用意されていた指示棒を手に取る。その瞬間、彼女が握ったのは木の棒ではなく、軍を指揮するタクトに見えた。
「違います、先生」
指示棒の先端が、地図上のヴラド領を冷徹に叩く。
「カシウスの辞書に、『陽動』などという生温い概念はありません。ヴラド家にとっても、連邦の思惑がどうあれ、これは生き残りをかけた負けられない賭けです。どちらも本気で、どちらも致命的です」
「確かに……裏切り者にもう退路はないものね……」
コーナは考え込むように頷き、シミアを見つめた。
「なら、これが最大の問題よ。南の内乱と、北の侵略。私たちはどちらを優先して叩くべき?」
「できれば……両方勝利するのが理想だけれど」
コーナは小声で付け足したが、その声は願望に過ぎないことを彼女自身が一番よく知っていた。
「不可能です」
シミアは判決文を読み上げるように断言した。
「現在の我々の戦力では、どちらか一方に対応するだけでも手一杯です。この状況下での戦力分散は、最も愚かな自殺行為です」
コーナは唇を噛み、顔色を失った。脳内に残っていた最後の希望的観測が粉砕されたからだ。
それはつまり、王国が生き延びるためには、自らの腕を切り落とす必要があることを意味していた。
南の穀倉地帯か、北の防波堤か。
「二つの地獄から一つを選ぶなら、最も単純な『消去法』を使います」
沈黙するコーナに対し、シミアは淡々と続けた。指示棒が地図上に赤いラインを引く。
「仮に、全戦力を南方に投入した場合。最良の結果は南方の平定ですが、代償として国境を失います」
シミアの目が鋭く細められる。
「国境の喪失とは、周辺諸国への『黄金の回廊』を失うことです。貿易ルートが断たれれば、王国の未来は閉ざされる。私たちは陸の孤島となり、緩やかに干上がって死ぬでしょう」
コーナは無意識に拳を握りしめた。爪が皮膚に食い込む。
「では、全戦力を国境に投入し、南方を放棄した場合は?」
シミアは顔を上げ、コーナの瞳を射抜いた。
コーナの背筋に悪寒が走る。彼女は視線を落とし、南方の地形図を凝視した。冷や汗が流れる。
「そうです、先生。その直感は正しい」
シミアの指示棒が、南方と国境を繋ぐ狭い結節点――兵站の動脈となる街道に落ちた。
「南を失えば、国境への補給線が切断されます。その時点で、国境軍はヴラド家の交渉材料として鋼心連邦に売り渡されるか、あるいは孤立して殲滅されるかです。敵対する南方を越えて国境を支援することは物理的に不可能……つまり、全滅です」
結論は、あまりに残酷で、あまりに明白だった。
「解は一つしかありません。我々は南方戦線を死守し、投入可能な全リソースを注ぎ込み、まず内乱を鎮圧する。ミリエル様が勝利して戻られるまで、何としても耐え抜くのです」
コーナは目を閉じ、苦い現実を飲み込むように喉を鳴らした。
苦悩するコーナを見ながら、シミアの脳裏にある思考が過ぎる。
実は、国境の結末をそこまで悲惨にしない手はある。
だが、その一歩を踏み出せば、自分はもはや純粋な「指揮官」ではいられなくなる。
誰にも相談せず、独断で同盟をこの戦争へ巻き込む……ライナスやクラウディアは、私を裏切り者だと思うだろうか?
(自分を信じろ。お前の孤独こそが、お前の最強の武器だ)
脳内で、あの黒いドレスの自分が嘲笑うように囁いた。
シミアは奥歯を噛み、迷いをすり潰した。覚悟は決まった。
「ですが……それは国境での完全敗北を意味しません、コーナ先生」
コーナが信じられないものを見る目で目を開ける。
「実は、事前にダミールさんの協力を得ています。開戦初期の段階で、彼女たちは辺境の核心となる数家をまとめ上げ、戦略的撤退を開始しています」
シミアの指が、本来国境線があるべき場所のずっと手前、山岳地帯の一角に小さな円を描いた。
「防衛困難な平野部の大半を能動的に放棄し、戦線を縮小する。そして、この一点――絶対に陥落しない山岳拠点に立て籠もることで、我々は『黄金の回廊』へのアクセス権(橋頭堡)だけは維持します」
彼女は顔を上げた。その瞳は深淵のように暗く、深い。
「もちろん、これは首の皮一枚で希望を繋ぐ策です。もし……もし王室の正式な承認として、彼らに一時的な『自治権』と『戦時指揮権』を与えれば、より多くの領土を温存できるかもしれません」
ドォォォン!!
稲妻に打たれたような衝撃がコーナを貫いた。
宮廷での経験が長い彼女は、瞬時にシミアの言葉に含まれる劇薬の臭いを嗅ぎ取った。
それは、あからさまな「権力」の臭いだ。
「シミア! あなた……ッ」
コーナは驚愕と恐怖で目を見開いた。まるで目の前の少女が、まったく別の怪物に入れ替わったかのように。
「正気なの!? そんなことをすれば、ヴラド家に関するあの悪い噂を事実にするようなものよ! あなたが黒幕としてミリエル様を操り、王国を私物化しているという中傷を……彼らの意思などお構いなしに、辺境同盟を王国の政治抗争のど真ん中へ引きずり込むことになるのよ!?」
コーナの指摘は正しい。あまりに正論だ。
だがシミアは知っている。清廉潔白な正義感だけでは、この沈みゆく国は救えないことを。
ダミールの信頼に満ちた瞳。トリンドルの壊れかけた心。
皆が自分に希望を託してくれたのだ。ならば、利用できるものは泥でも悪名でも掴んでみせる。
「コーナ先生」
シミアは前傾姿勢になり、両手を机についた。
その声は大きくはない。だが、伽藍とした図書館の中で、雷鳴よりも鮮明に響いた。
「先ほど『南方に全力を注げば勝てる』と仮定しましたが、それには前提条件があります。カシウスとヴラド家が合流しないことです。私たちには時間が必要なのです。そして辺境の彼らこそが、その時間を稼ぐための『壁』になる」
「政治的に、あなたは詰むわよ、シミア。すべての君主があなたを危険視する。あなたの権力は、もう看過できないほど肥大化しているのよ!」
コーナの声が震えている。
シミアの唇が歪み、不敵で、どこか痛々しいほどの笑みを形作った。
「今考えるべきは、いかにして勝つかです。私の処遇や評判なんて……勝利した後に悩みましょう、コーナ先生!」
コーナは呆然と、教え子を見つめた。
数ヶ月前までは、田舎から出てきたばかりの、出自を笑われていた素朴な「村娘」だったはずだ。
だが今、光と影の境界線に立つ彼女は、誰もが畏怖する巨人に成長していた。
かつて庇護すべき雛鳥だった存在が、今や空を覆い尽くす翼を広げている。
長い沈黙の後。
コーナはガクリと肩を落とし、深い溜息を吐いた。半歩下がり、シミアに対して深く頭を下げる。
「……分かったわ」
コーナは、ローレンス王国の歴史を変える一言を告げた。
「シミア。あなたが女王代理よ……あなたが、決めなさい」




