午後の陽射し、七枚の金貨
午後の陽射しがガラス窓を透過し、容赦なく教室を焦がしている。
空気中にはチョークの粉っぽい匂いと、乾燥した暑気が充満し、強烈な眠気を誘っていた。
ダヴィデ・ロースアンは後ろから二番目の席で、鉛を流し込まれたように重い瞼と戦っていた。
教壇に立つ教師の声は、どこか遠い世界から響いてくる子守唄のようだ。
蒸し風呂のような空気の中で、ブンブンと羽虫のように唸っている。
背中を汗が伝い落ちるが、それを拭う気力さえ湧かない。
昨日は家族総出で、屋敷に残った家財道具を運び出す作業をしていた。
丸一日肉体労働をしたせいで、両腕は自分のものじゃないみたいに悲鳴を上げている。
(サボって寝ておけばよかった……でも……)
ダヴィデは限界寸前の瞼をこじ開け、並んだ頭の隙間から、前方の席を見つめた。
そこに、艶やかな黒髪を靡かせた背中がある。
シミア・ブルン。
彼女は背筋をピンと伸ばして座っていた。
この不快指数の高い午後において、彼女だけが一輪の白百合のように涼やかで、凛としている。
羽ペンを動かすたびに、サラサラと黒髪が揺れる。その些細な動作一つ一つが、ダヴィデの視線を釘付けにする。
寮のベッドで泥のように眠る方が楽なのは分かっている。
けれど、こうして大義名分を持って彼女を見つめられるだけで、体の疲労が少しだけ浄化される気がした。
ただ…… 視界が霞む。ダヴィデは強く瞬きをして、睡魔を追い払った。
彼女の周りはいつも満席だ。
トリンドル・エグモント嬢だけじゃない。最近はあの銀潮連邦からの留学生たちも、甘い蜜に群がる蝿のように彼女を取り囲んでいる。
その光景を想像するだけで、胸の奥に黒い焦燥感が湧き上がる。
以前、贈り物として渡したあのドレス。
彼女が袖を通した姿を、まだ一度も見ていない。
意識が遠のく中、あの夜の妄想が脳裏に浮かぶ。 黒いレースのドレスを纏ったシミア。 蝋燭の光に照らされた雪のような肌。透けるようなボディライン……
(あんなシミアと、一度でいいから踊れたら……)
ジリリリリリリリリリリリ――ッ!!
無慈悲な終業のベルが、少年の桃色の幻想を鋭利に突き刺した。
「うおっ!?」
ダヴィデはビクリと跳ね起き、危うく椅子から転げ落ちそうになった。
(やばい、やばい。早く帰って仮眠取らないと……午後の商会での荷運びバイトに遅刻する)
甘美な夢は霧散し、鉛色の現実が肩にのしかかる。
ダヴィデは椅子の横に掛けた鞄をひったくった。乱れた制服の襟を直す余裕もない。
重い足を引きずり、逃げるように教室を飛び出した。
校舎を出ると、風が頬を撫でた。
汗ばんだ肌が、ようやく微かな涼気を感じて息を吹き返す。
ダヴィデは俯いたまま、夕食前に二時間は眠れるだろうかと計算を始めた。
「待って……」
(借金取りなら、聞こえないフリだ……もう勘弁してくれ……)
「待ってください……ダヴィデさん!」
鈴を転がすような、それでいて切迫した声が耳元で弾けた。
「え?」
反応するより早く、ダヴィデの体は柔らかい障害物に衝突していた。
ふわり。
太陽に干したアイリスの花のような、清潔で優しい香りが鼻腔を占拠する。
その一瞬で、汗臭さと疲労感が吹き飛ばされた気がした。
「ごめんなさい……私……」
ダヴィデは慌てて顔を上げた。謝って、すぐに立ち去ろうとして――石化した。
目の前に、シミアがいた。
小走りで追いかけてきたのだろう、胸が小さく上下し、荒い息を吐いている。
午後の陽光が漆黒の髪に降り注ぎ、炎を模した金の髪留めがキラキラと輝いて、ダヴィデの目を眩ませる。
いつもは氷のように冷静なその美貌が、今は隠しきれない心配の色で染まっていた。
「謝るのは私の方です」
シミアは慌てて手を振った。その頬はほんのりと赤い。
「私が急に、立ちはだかったりしたから」
ダヴィデは痛む目をこすった。
これは夢の続きか?
だが、目の前のシミアは泡のように消えたりはしない。
「困りますよね、いきなりこんな風に呼び止められたら」
シミアは躊躇いがちに周囲を見回した。
他人の視線がないことを確認すると、意を決したように身を乗り出してくる。
距離が、ゼロになる。
長い睫毛の一本一本まで数えられそうな距離だ。
「これを」
シミアがダヴィデの手を取り、何か硬くて冷たいものを掌に押し付けてきた。
そして、感電したようにパッと身を引く。
(え……なに?)
ダヴィデは呆然と手を開いた。
陽光を反射して、七枚の金貨が神々しい輝きを放っていた。
ダヴィデの無骨な掌の上で、それはあまりに異質で、あまりに魅力的だった。
今の没落したロースアン家にとって、それは喉から手が出るほどの救命金だ。
ダヴィデは信じられない思いで顔を上げた。
「どうして……?」
「コーナ先生から……あなたの家が、困難な状況にあると聞きました」
シミアは言いにくそうに視線を逸らし、指先でスカートの裾を弄った。
「お力になりたいんです。これは私個人の貯蓄ですから……少ないですが、せめて、ご家族が当面の危機を乗り越える足しに」
ドクン。
熱い奔流が、ダヴィデの心臓から全身へと駆け巡った。
鼻の奥がツンと痛む。
(どうして? シミアだって裕福な貴族じゃない。女王陛下からの給付金で生活しているはずなのに。どうして僕なんかに、こんな大金を?)
ここ数週間、あれほど親しかった「友人」たちが、蜘蛛の子を散らすように去っていった記憶が蘇る。
冷笑。門前払い。背中への陰口。
凍てついた心に、シミアの善意は真夏の氷水のように染み渡り、焦燥の炎を鎮火させていく。
「僕は……」
視界が歪む。涙で滲んで、シミアの顔がよく見えない。
彼女の声が、優しさが、傷だらけの自尊心を撫でていく。
だがその時。
心の奥底から、『矜持』という名の別の声が響いた。
ダヴィデは深く息を吸い込み、なりふり構わず袖で目元を乱暴に拭った。
そして、自分でも驚くような行動に出た。
彼は強引にシミアの手を取り、その七枚の温かい金貨を、少女の白魚のような掌へと押し返したのだ。
「……受け取れない」
声は枯れていた。だが、そこにはかつてない確固たる響きがあった。
「え?」
シミアは驚愕に漆黒の瞳を見開いた。拒絶されるとは微塵も思っていなかったのだろう。
「でも、ダヴィデさん。これは施しじゃありません、貸付です! 返済はいつでも……」
「貸し借りの問題じゃないんだ、シミア」
ダヴィデは彼女の言葉を遮った。
猫背気味だった背筋を伸ばし、女神のように眩しい少女を真正面から見据える。
「父が言っていた。今回の危機は、僕たちの判断ミスが招いたことだと。自分たちが犯した過ちなら、自分たちの手で責任を取らなきゃいけない。僕には手足がある。荷運びだって、ゼロからのやり直しだって、自分たちで解決できるはずだ」
その言葉は、シミアに向けたものであり、同時に自分自身への宣誓でもあった。
もしこの金を受け取ってしまえば、自分は彼女に守られるだけの「弱者」に成り下がってしまう。
それだけは、死んでも嫌だった。
「シミア。僕は……見ていてほしいんだ」
頬が熱い。心臓が早鐘を打っている。
「僕たちが……僕が、足掻いて、這い上がるところを。僕はもっとマシな男になる。いつか……君の前に立っても恥ずかしくない人間に、なってみせるから」
気がつけば、胸の底に沈めていた想いが、堰を切って溢れ出していた。
今の自分の顔は、きっと茹でダコのように真っ赤で、滑稽で、無様だろう。
でも、もう逃げたくなかった。
短い沈黙。
やがて、シミアから驚きの色が消えた。
彼女は戻ってきた金貨を強く握りしめ、口元に心からの、聖母のような微笑みを浮かべた。
それは弱者への同情ではない。対等な人間への、敬意ある承認だった。
「うん」
彼女は力強く頷いた。
「頑張ってください、ダヴィデさん。私、ちゃんと見ていますから」
シミアの言葉。その澄み切った眼差し。
それを受けた瞬間、ダヴィデの体内に未知のエネルギーが注入されたのを感じた。
疲労困憊だった手足に、力が漲ってくる。
これなら行ける。どこまでだって走れる。
ダヴィデはシミアに深く一礼すると、夕陽に向かって力強く駆け出した。
このあとがきを執筆するきっかけとなったのは、久しぶりにある歌を聴いて、涙が止まらなくなったことでした。
その歌の表現はシンプルで素朴なものでしたが、私の心の防壁を完全に貫く力があり、深い衝撃を受けました。
その時、ふと第三巻を書き始める前の小さなエピソードを思い出しました。
本編公開の一ヶ月ほど前のことでしょうか。やはりある歌を聴いたことがきっかけで、私は突然気づいてしまったのです。
「当時用意していたプロットでは、私が本当に描きたい『重み』を支えきれないのではないか?」と。
「私が描きたかったのは、本当にこの程度のものだったのか?」と。
その疑念を抱いたまま、私は完成していたプロットを白紙に戻し、当時すでに書き上げていた数万字の初稿を、すべて「履歴フォルダ」の闇へと葬り去りました。
私はいったい、何を描きたかったのか?
一人の書き手として、一度は「自分でもよく分からない」という状態に陥ったことを認めるのは、少し恥ずかしいことかもしれません。ですが、創作の中で味わったその足掻きや迷いを、あえて読者の皆様と共有したいと思いました。
その葛藤こそが、冒頭のあの「ネットカフェの夢」を生み、今のシミアの苦悩を生み、そしてこの章における、いささか生々しく、けれど無骨でリアルなPOV(視点人物)描写を生み出したのです。
これこそが、本作の感情面において私が真に探求したかった命題です。
いわゆる「百合」という恋愛感情は、一体何なのか?
ミリエルのシミアに対する執着は、百合としての愛なのか?
トリンドルのシミアに対する依存は、百合としての愛なのか?
ならば、レインの好意や、ダヴィデの思慕は、何だというのか?
この複雑に絡み合った「愛」という迷宮の中で、迷い、見極め、決断し、そして最終的には揺るぎない意志を持って「好きな女の子と共にいること」を選ぶ――それこそが、私の描きたい物語なのです。
ですから、どうかご安心ください。
プロセスがいかに曲がりくねっていようとも、この物語は最終的に『純正な百合物語』として結実することを、ここにお約束します。
この旅路を、皆様が楽しんでいただけることを願って。
ありがとうございました。




