絶境の布陣
夕暮れ時。
窓外の雨足は幾分弱まったものの、墨汁を吸った雑巾のような分厚い雲が、王立学院の尖塔に重苦しくのしかかっていた。
死んだように静まり返った校舎の廊下を、急くような足音が切り裂く。
戦略科教室の扉を、勢いよく押し開けた。
体からは、まだ外の冷たい湿気が立ち上っている。
中央の巨大な砂盤を囲む、数本の太い白蝋燭。
隙間風に揺れる炎が、盤上の駒の影を長く、歪に引き伸ばす。壁に踊るその影は、まるでこの軍議を盗み聞きしようとする亡霊のようだ。
鼻をつくのは、溶けた蝋の匂いと――焦げ付くような硝煙の幻臭。
「……カシウスの進軍は、ここで止まるはずだ」
ライナスは眼鏡の位置を直し、国境沿いの都市模型に青い駒を突き立てた。その眉間には深い皺が刻まれている。
彼は自分に言い聞かせるように、震える声で続けた。
「あの男は……先生は、授業で嫌というほど繰り返していた。『貪欲さは行軍の最大の禁忌なり』と。兵站学に異常な執着を見せる彼なら、連続した強行軍の後は必ず再編を入れる」
「いいえ、シミュレーションの結果は違います!」
ダミールが食いつく。彼女は赤い駒を掴み、青の防衛線を迂回する大胆なルートを描いてみせた。
「今の彼なら絶対に止まらない。むしろこの機に乗じて、一気に追撃をかけてくるはずです!」
「その通りです。ダミールさん、ライナス先輩」
早足で砂盤の縁へと歩み寄る。
その声は、煮えたぎる油を切り裂く氷の刃のように冷徹だった。
「シミア! 来てくれたんですね」
昏い燭光の下、ダミールが顔を上げる。その瞳に、救世主を見るような色が宿った。
彼女は素早く砂盤を最新の状況に復元し、赤い駒で埋め尽くされたエリアを指差した。その口調は鋭く、軍事報告のように簡潔だった。
「国境の情勢は最悪です。五日前、記録的な暴風雪が辺境を襲いました。鋼心連邦軍はそれを隠れ蓑に奇襲をかけ、前線の三砦を同時撃破。たった三日で国境線の半分が食い破られています」
ダミールは一度言葉を切り、肺の奥まで空気を吸い込んだ。それは故郷が蹂躙される恐怖を、武人の矜持で抑え込むための呼吸だった。
「父は以前の警告に従い、同盟諸侯と共に一部の軍を連れて撤退できましたが……問題はエグモント領です」
彼女はこちらを見つめ、喉に詰まった骨を吐き出すように言った。
「……連絡が取れません。あそこからは、一羽の伝書鳩さえ帰ってこない」
木枠を、指先でトントンと叩く。
焦燥するダミールとは対照的に、こちらの思考は蝋燭の火に照らされ、大理石の彫像のように静止している。
深く息を吸い込み、感情を凍結させる。戦局を客観的に俯瞰する「目」を起動する。
青い駒を拾い上げ、脳内で距離と行軍速度を弾き出した。
「あなたたちの部隊は、今どのあたりに?」
ダミールは頷き、自軍の駒を都市から大きく後退させ、谷の入り口にある補給拠点へと配置した。
「以前の小競り合いでの敗北が薬になったようです。頑固な領主たちも、ようやく私たちの警告を聞いてくれました。吹雪の直後に集結を完了させて、順調なら今頃はこのポイントに到着しているはず」
その配置を見て、張り詰めた肩がわずかに緩んだ。
主力が残っていれば、まだ盤面はひっくり返せる。
「上出来です。ここは南方への咽喉元にあたる要衝。私たちは補給線を死守し、あらゆる手段を使ってカシウスの足を遅らせる必要があります。奴と国内の反乱軍を合流させることだけは、絶対に阻止しなければ」
「シミア?」
ライナスが上擦った声で割って入る。
「君は本気で、あのカシウスがそんな暴挙に出ると踏んでいるのか? 君も彼の教え子だろう。あの男の戦術美学は、毒蛇のような忍耐と、圧倒的な物量による圧殺だ。休息なしの進軍なんて、彼の教義に反する」
かつての教え子として、ライナスは誰よりも「前の先生」の慎重さを恐れていた。それは骨髄に染み付いた畏敬だ。
地図を睨みつける。
その双眸には、時空を超えてかつての師と対峙するような冷たい光が宿っていた。
「『カシウス先生』としては、先輩の読みが正解です。彼は石橋を叩いて壊すほど慎重でしたから」
猛禽のように顔を上げる。揺れる炎を映し、その漆黒の瞳が黄金色に燃え上がる。
「ですが、今の彼は鋼心連邦の将軍です。授業をしに来たわけじゃありません。彼は知っているんです。戦争の戦果は能力ではなく、野心の大きさで決まることを……特に、今の彼にはそれを実現できるだけの『手札』がある」
細い指が、誰も注目していなかった空白地帯を突き刺す。
「もし彼が辺境だけを欲しているなら、確かに止まるでしょう。ですが、もっと大きな獲物を狙っているとしたら? 『銀潮連邦』へのルートを切り開くつもりなら、ここに戦略的緩衝地帯を作る必要がある」
指が南へ滑る。そこは地図の端、重要拠点としてマークすらされていない地域――南方農業領。
反乱軍ヴラド家の領地であり、故郷。そして、王国の胃袋だ。
「私が彼なら、ローレンス王国に二度と反撃させないために、ここまで……南方農業領の外縁まで一気に食い破ります。ここを抑えれば現地調達で兵站問題を解決できるし、王国の糧道を断てる。さらには南方の反乱軍を支援して、国を内戦の泥沼に突き落とすこともできる」
声の温度が下がる。
最悪の想定が、今まさに現実になろうとしているかのように。
口を閉ざすと、教室は死のような静寂に包まれた。聞こえるのは蝋燭が爆ぜる微かな音だけ。
ライナスは悟った。彼女が正しいのだと。この後輩の底知れなさを、まだ見誤っていたと。
「最悪の事態を想定しましょう。あの男なら、やります」断言する。
ダミールは、赤に包囲されようとしている盤上の故郷を見つめる。一手の遅れが、数万の命の蹂躙を意味する。
「シミア……」
ダミールは拳を握りしめ、縋るように、しかし強い決意を込めて言った。
「父も手紙で言っていました。一族の命運を、あなたの判断に賭けるって……指示をください。あの最悪の未来を回避するために、私たちは今、何をすればいい?」
その重すぎる信頼を受け止め、力強く頷いた。




