温かい紅茶、冷たい却下
紅茶の芳醇な香りが、まるで優しい手のように、張り詰めたシミアの神経を撫でていく。
両手で包んだ磁器カップの温もり。
指先から伝わるその微かな熱だけが、ここが現実であることを教えてくれる。
喉を滑り落ちる熱い液体が、恐怖で痙攣していた胃の腑をゆっくりと解きほぐしていく。
脳裏に焼き付いた黒いドレスの幻影は消えた。だが、あの推理がもたらした寒気だけは、骨の髄に突き刺さった棘のように残っている。
シミアは顔を上げた。
向かいの席では、紫髪の才女――コーナが、恬淡とした表情で書類に目を通している。
(言うべきか? 銀潮連邦の真の狙いは、この国そのものだと……)
言葉は喉元まで出かかったが、シミアはそれを強引に飲み込んだ。
確証がない。あまりに荒唐無稽で、絶望的な推論だ。今これを口にしても、徒に混乱を招くだけだ。
「シミア? 何ぼーっとしてるの。そろそろ現実に戻りましょうか」
視線に気づいたコーナが顔を上げ、机の端に積まれた書類の塔を顎でしゃくった。
「厚さは本三、四冊分だけど……その中身は、物理的な重さ以上にヘビーよ」
「……はい。いつでもいけます」
シミアは動揺を悟られないよう、慌ててカップを置いた。
一番上の陳情書を手に取り、無理やり意識を文字へと縛り付ける。
……
それは、ロスアン家からの陳情書だった。
羊皮紙は湿気で波打ち、インクの文字は書き手の震えで歪んでいる。
かつては体面を重んじた貴族が、冒頭から恥も外聞もなく、一族の鮮血に塗れた窮状を吐露していた。
『高利回りの投資話』という甘い罠に掛かり、一族の流動資産が一夜にして蒸発したこと。
気がつけば、収穫期までの食い扶持さえ維持できなくなったこと。
そこには華麗な修辞も、責任転嫁の言い訳もない。
ただ、泥水に顔を突っ込んで乞い願うような、悲痛な叫びだけがあった。
『金貨の援助などとは申しません。どうか、古米を……カビた麦でも構いません。子供たちが雨季を越えるための慈悲を』
字面の向こうに、追い詰められた父親が泥濘に跪いて泣き叫ぶ姿が見えるようだった。
薄い紙一枚越しに伝わる焦燥と絶望が、シミアの網膜を刺した。
「どうしたの、シミア。顔が怖いわよ」
コーナの問いかけに、シミアは無言でその紙束を差し出した。
コーナが受け取る。紫のショートヘアがサラリと揺れた。
彼女の視線が、絶望の文字を高速で滑っていく。
数秒後。
彼女は静かに紙を置き、目を閉じ、聞こえないほどの溜息を一つ吐いた。
そして、小さく首を横に振った。
「ダメね、シミア――却下よ」
羽毛のように軽い声。けれどそれは、死刑判決のように重く響いた。
「でも……彼らは、ただ食べ物を求めているだけです」
「『王室援助の原則』を忘れたわけじゃないでしょう?」
コーナが目を開ける。その瞳には、年齢を超越した冷徹な理性が宿っていた。
「一度でも『例外』を認めれば、堤防は決壊する……そうでしょ?」
コーナは諭すように、けれど瞳の奥に痛みを隠して続けた。
「分かっているわ。デビッド・ロスアンはあなたの同級生ね。彼らが本当に追い詰められていることも理解できる。詐欺まがいの投資で破産した彼らは、王室の金を掠め取ろうとするハイエナとは違う」
「けれど、ダメなの。ルールはルールよ。今日、同情して彼らにパンを与えれば、明日は経営に失敗した二十、三十の貴族が『私も』と王宮に押し寄せるわ。今の王室の国庫はね、ネズミだって逃げ出すくらい空っぽなの……あなたが一番よく知っているはずよ」
シミアは唇を噛み締め、鉄錆のような血の味を感じた。
その瞬間。
シミアの視界の端に、あの黒いドレスの自分が立ち、冷ややかに嘲笑うのが見えた気がした。
――『見ろ。これが論理だ。これが統治だ。感情など、一文の価値もない』
窓の外を見る。
無慈悲な豪雨は今も続き、この斜陽の王国を物理的に押し流そうとしている。
この終わらない雨の中では、代理統治者である自分も、泥に塗れた貴族たちも、等しく迷子のように思えた。
「……了解しました」
シミアは肺の奥まで息を吸い込み、その重すぎる陳情書を『却下』のバスケットへと放り込んだ。
「拒絶しましょう。コーナ先生」
その声は、広大な王家図書館の静寂に吸い込まれ――窓外の雨音よりも冷たく響いた。




