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黒いドレスの理性、国を売る算段

蒼穹そうきゅうが裂け、天が無限の悲しみを地上にぶちまけているかのような豪雨だった。

分厚い水のカーテンが王家図書館のドーム屋根を洗い流し、窓外の花壇には濁流と化した微小な滝が生まれている。


シミアは落地窓(フランス窓)の前に立ち尽くしていた。

冷たいガラスに映るのは、自身の青ざめた顔。

叩きつけるような雨音でさえ、脳内で荒れ狂う思考の嵐を掻き消すことはできない。


ミリィル・ルルトの手紙がもたらした情報は、散らばっていたパズルのピースとして、シミアの意識の底で激しく衝突していた。


深海商会の不可解な巨額資金の流れ。

ヴァンナとコルヴィノの野心。

そして、犯人のいない殺人事件。

夢の中でリリアが囁いた呪いのような警告。

校舎裏での襲撃と、あの奇跡的としか言えない生還……。


(もし、これらすべてがヴァンナの描いた絵図面だとしたら? でも、なぜ? なぜ標的が私なの? あるいは、あのアレクシス先輩?)


思考が結び目で止まった、その瞬間。

ふつり、と周囲の雨音が消滅した。


世界が、ミュートボタンを押されたように静止する。


「シミア。お前はまだ、甘いな」


馴染み深く、けれど決定的に他人のような声が、死寂の空間に響いた。

そこには、氷のような嘲笑が含まれている。


「ヴァンナが、リアンドラとの微々たる友情ごときで、お前に手心を加えたとでも? ……笑わせるな」


シミアは弾かれたように振り返る。

灰色の思考空間マインド・パレスに、もう一人の『シミア』が立っていた。


身に纏うのは、漆黒のドレス。

周囲の光さえも貪り食うような深い黒だ。

彼女は大股で近づいてくる。その一歩一歩が、戦慄するほどの自信と傲慢さに満ちている。

しかばねの山に独り咲く黒薔薇のように。美しく、そして凍えるほどに冷たい。


知っている。この声を知っている。

常に他者を疑えと囁き続けてきた、自分自身の冷徹な理性の声だ。


「手心なんて……そんなこと、思ってないわよ……」

「思っていない? 本気で言っているのか?」


黒いドレスのシミアが、鼻先が触れるほどの距離まで肉薄する。

覗き込んだその金色の瞳に、人肌の温度は一切ない。あるのは精密機械のような論理ロジックだけだ。


「潜在意識で彼女に幻想を抱いていなければ、あんな分かりきった問いに迷うはずがない。いいか、『感情』を判断基準にしている時点で、お前の脳味噌は錆びついた歯車と同じだ」


黒衣のシミアはさげすむように鼻を鳴らし、パチンと指を鳴らした。


景色が煙のように霧散する。

再構成されたのは――あの日、襲撃を受けた路地裏だった。

人通りの少ない土の道。泥濘ぬかるみと、薄暗い陰影。記憶のままだ。


「その役立たずの感情を捨てろ。事実だけを見ろ。あの襲撃は『警告』などではない。確実な『処分』だった」


彼女は黒いレースの手袋に包まれた指を伸ばし、路地の角を指し示した。


「お前が今こうして生きて思考しているのは、ヴァンナの慈悲ではない。奴の完璧な計算を、お前の悪運という不確定要素バグが上回っただけの『計算違い(エラー)』に過ぎないんだよ」


彼女の指先が虚空を滑ると、そこにアレクシスの姿が浮かび上がった。まるで糸で吊られたマリオネットのように、ぎこちなく動いている。


「『ヴァンナは友人である』というノイズ(干渉音)を排除しろ。利益と論理の観点だけで見ろ。ミリィル・ルルトの情報――深海商会の成り上がり方は、最後のピースだ」


「アレクシスは銀潮連邦からの留学生だ。銀潮連邦が金の亡者サメの集まりだと仮定すれば、アレクシスは彼らが放った『撒き餌』に過ぎない。彼が学園で広めていた『銀潮標準債』の貸付サービス……あれは慈善事業じゃない。この国に、借金という名の種を植え付けるための罠だ」


『論理』という名の冷たい歯車が、シミアの脳内で狂ったように回転を始める。

無数の線が、勝手に繋がり合っていく。


「異議あり」

シミアは幻影を見つめ、震える声で反論を試みる。

「銀潮連邦は、一体何を求めているの? なぜアレクシスのような凡庸な捨て駒を守るために、ヴァンナは現実を歪めるほどの力を行使したの?」


黒衣のシミアは直接答えなかった。

再び手を振る。場面が変わる。


今度は、灰色の空に巨大な黄金の天秤てんびんが浮かんでいた。

天秤の片方の皿には、山のような金貨が積み上げられている。

――銀潮連邦が、投資家たちに支払っている利息だ。


「ビジネスの原点に立ち返ろう」

黒衣のシミアが冷酷に笑う。

「どんな商売なら、これほどの利益を出せる? あの抜け目のない銀行家たちが、三ヶ月で元本の十分の一という法外な利息を、喜んで支払うほどの見返りとは?」


景色が点滅し、ロスアンの繁華街が映る。商人が日用品を売っている。

「日用品の転売か?」と黒衣が問う。

「あり得ない」オリジナルのシミアは首を振る。「市場は飽和している。薄利多売では、そんな高利貸しを維持できない」


天秤は動かない。

場面転換。南方前線へ送られる山積みの軍需物資。

「戦争特需か?」

「不可能よ」シミアの顔色が白紙のように変わっていく。「王室の財政は火の車だわ。支払額はギリギリのはず。ヴァンナが独占供給したとしても、そこまでの利益は出ない」


天秤は微動だにしない。

積み上げられた利息の山は、絶望的なほど重い。


「クククッ……」


幻影が砕け散り、再び雨の庭園へと戻る。

黒衣のシミアは雨の中に立っていた。雨粒は彼女の体を素通りしていく。彼女はゆっくりと拍手をした。乾いた、刺すような音。


「素晴らしい。不可能をすべて除外して、最後に残った答え。それがいかに狂ったものであろうと――それが真実だ」


彼女はシミアに詰め寄る。悪魔の囁きのように、低く、重く。


「商業ではその利益を出せない。戦争特需でも出せない。だが銀潮連邦は、この投資を確信している。血の匂いを嗅ぎつけた鮫のように、狂ったようにカネを注ぎ込んでいる」

「彼らがそれに見合う『確実な回収』を保証されているからだ。彼らの強欲の矛先は、ローレンス王国に向いている。……ならば、この国において、その底なしの欲望を埋め合わせられる『商品』は、たった一つしかない」


二人の視線が交錯する。

そして、恐ろしい答えが、ほぼ同時に二人の唇から紡がれた。


「――ローレンス王国そのものを、『担保かた』として売り払う以外にない」


ドォォォォォン!!


脳内で雷鳴が炸裂した。

黒衣のシミアは間髪入れず、最も冷酷な判決を突きつける。


「シミア。お前は、この王国の二つのかなめ――女王ミリエルと、軍権を握るエグモント家――その両方に深く接触できる唯一の人間だ。お前はこの計画における最大のバグ(不確定要素)なんだよ。もし計画の初期段階でお前に嗅ぎつけられれば、この壮大な国家的買収劇は破綻する。どれだけの人間が、この山に首を賭けていると思っている?」


彼女の手が伸び、シミアの顎を掴む。

無理やり顔を上げさせ、虚無の暗闇を直視させる。


「お前の言うヴァンナという女……彼女が描いているのは、どこかの市場を奪うような可愛いビジネスじゃない。彼女が買おうとしているのは、ローレンス王国だ。お前が生きる国、お前が命懸けで守ろうとした故郷そのものだ」

「考えてみろ。国家存亡の重さの前で、お前のそのお遊びのような友情ごっこに、何の意味がある?」


全身が凍りつく。

真実の重量が重すぎて、息ができない。


「シミア? シミアッ!?」


突如、死寂の脳内空間に、焦燥に満ちた呼び声が響いてきた。


「よく考えろ。お前が何によって、今まで生き延びてこられたのかを」


黒衣のシミアは最後の警告を残した。

直後、彼女の完璧な姿は、ハンマーで殴られた鏡のように――。


パリーンッ!


硬質な破砕音と共に、黒い世界が崩落した。


「はっ……!!」


シミアは激しく息を吸い込み、弾かれたように目を開けた。

視界のピントが、徐々に合う。

窓外の豪雨は相変わらず世界を叩いているが、あの冷酷な黒衣の影はどこにもいない。


代わりに目の前にあったのは、心配で押し潰されそうな顔だった。


「シミア! 大丈夫!? 顔色が真っ青よ……」


コーナが、シミアの肩を強く掴んで揺さぶっていた。その瞳は不安に揺れている。

シミアは酸素を求めて荒く喘いだ。背中は冷たい汗でびっしょりと濡れている。


ただ、あの黒いドレスの自分が残した警告だけが。

脳の深淵で、いつまでも反響していた。

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