灰の記憶、魔女との賭け
ジジジジジ……
窓の隙間から、夏の蝉時雨が侵入してくる。
それは熱気を帯びた生温い風と共に、シミアの鼓膜を執拗にささくれ立たせた。
不快感に眉を寄せ、寝返りを打つ。
その瞬間。
鼻腔の奥まで犯すような、濃厚すぎる紅茶の香りが全身を包み込んだ。
これは……ミリエルの匂いだ。
「シミア……ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」
「でも、こうでもしないとあなたが……お願い、ほんの少し、少しの間だけでいいの」
夢現の中で、ミリエルの泣き声が耳元で響く。
その吐息は火傷しそうなほど熱く、湿り気を帯びていて――それでいて、背筋が凍るほど冷たかった。
体が、重い。
四肢に鉛を流し込まれたように動かない。あるいは、何か柔らかく、抗いがたい重量物に押し潰されているのか。
紅茶の香気が、振り払えない夢魔となって鎖のようにシミアを縛り付ける。
意識の深淵に、一枚の絵が強引に割り込んでくる。
視界を覆う、美しい銀色の髪。
ミリエルが、シミアの上に跨がっていた。
彼女はゆっくりと上体を沈め、薄い衣越しに、二人の肌が障害物なく重なり合う。
その触感はあまりにリアルで、窒息しそうなほど生々しかった。
唇を塞がれ、無理やり流し込まれる液体。
口腔に広がる紅茶のフレーバーが、シミアの思考を白く塗り潰し、指一本動かす気力さえも奪い去っていく。
ポタリ、ポタリ。
熱い涙の粒がシミアの頬を打つ。だが、そこから感じるのは刺すような悪寒だけだ。
ミリエルは泣いていた。謝罪の言葉を繰り返していた。
けれど、その手は止まらない。貪るような愛撫は終わらない。
何もできない。
目の前にある、悲痛でありながらどこか狂熱を孕んだミリエルの顔を見て、シミアの胸に正体不明の怒りが渦巻いた。
「はぁッ……!!」
シミアは弾かれたように腕を伸ばし、上の人物を突き飛ばそうとした。
刹那。
掌が空を切り、世界が反転する。
纏わりつくような湿気と色彩が瞬時に褪せ、視界を埋め尽くしたのは――舞い散る灰と、死んだような鉛色の空だった。
ここは……あの『荒野』だ。
「それでいいの? 自分を騙し続けで」
背後から、凛とした冷ややかな声が響く。
振り返る。
そこには、十二英雄の一人『リリア』が、灰の堆積する大地に裸足で立っていた。
宝石のような翠の瞳が、悲憫と皮肉の混じった光を宿し、静かにシミアを射抜いている。
「騙す……?」
シミアは肩で息をしながら問い返す。
「あの女は君に『細工』をした。君は事象としての記憶は保持しているが、君の潜在意識が自己崩壊を防ぐために、その核心部分をわざと『見ない』ようにしているのさ」
リリアが空に手をかざす。
一欠片の灰がふわりと舞い降り、吸い込まれるようにシミアの頭頂部に落ちた。
「いつまで寝たふりを続けるつもり? その人生が、虚構の上に成り立っているとしても?」
灰が脳髄に溶けた瞬間。
黒い奔流となって、封印されていた記憶が脳内雪崩を引き起こした。
ズキリ、と劇痛が走る。
映像が、鮮明になる。
あの朝だ。
辺境から王都へ戻った直後の、ある朝。
割れるような頭痛。隣を見れば、ミリエルが一糸纏わぬ姿で横たわり、空虚で満ち足りた瞳でこちらを見て微笑んでいた。
得体の知れない寒気が背中を駆け上がった。
シミアはミリエルの「昼まで休んでいけばいい」という提案を逃げるように断り、ふらつく足取りで寮へと逃げ帰ったのだ。
部屋に戻った時、そこで何を見た?
トリンドルだ。
いつもは勝気でツンデレなあのお嬢様が、ベッドの端に座り込み、目を赤く腫らしていた。明らかに一睡もしていない様子だった。
あぁ、そうだ。あの時、私たちは何かを話した。
意識が霞む。
朦朧とする記憶の底から、トリンドルの泣きそうな、けれど決意に満ちた誓いの言葉が蘇る。
――『シミア、私が守るわ。絶対に……もうこんな目に遭わせたりはしない』
あの日からだ。
トリンドルがミリエルに対して、剥き出しの敵意を向けるようになったのは。
まるで毛を逆立てた猫のように、シミアに近づくミリエルを常に警戒していたのは。
そうか……そうだったのか。
あの違和感の正体。トリンドルの理不尽とも思えるミリエルへの嫌悪感。
そのすべての元凶は、あの日にあったんだ。
すべてを理解したシミアは、目を見開き、紙のように青ざめた。
「これが……私の、記憶……?」
「危険から逃れるため、心が壊れるのを防ぐため、君の脳は事実を『合理化』し、最も醜悪な部分を選択的に忘却した」
リリアは肩をすくめ、淡々と真実を告げる。
「少なくとも、この精神空間にいる間だけは、君はその記憶を直視できる……さあ、どうする? その記憶を持って帰るかい? それとも、これまで通り忘れて、幸せな馬鹿のまま過ごすかい?」
リリアの口調が、ふと柔らかくなった。彼女は地平線の彼方へ視線を投げる。
「私にも……不安な記憶を忘れることで、自分を守っていた時期があった。正気でいることは、時に痛みを伴うからね」
彼女は視線を戻し、試すようにシミアを見た。
「君は、以前の夢では現実を受け入れることを選んだ。なら、今回もこの『もっと醜い現実』を受け入れる勇気はある?」
「…………」
シミアは沈黙した。
拳を固く握りしめ、爪が掌に食い込む痛みで震えを止める。
分かっている。
この記憶を受け入れれば、ミリエルとの関係は決定的に変質してしまう。
ミリエルがあんなことをした理由。あの空洞のような瞳。あの日起きたことのすべてが、避けては通れない刃となって喉元に突きつけられる。
真相を追求すれば、今ある平穏な日常は、音を立てて崩れ去るだろう。
脳裏に、涙を流すトリンドルの顔が浮かんだ。
「選ぶのは難しいだろうね」
リリアは答えを急かさず、別の話を始めた。
「あの子――トリンドルも、かつて無意識にここへ迷い込んだことがある。だが、この荒野は彼女を拒絶した。彼女の血に流れる『罪』の重さに、この場所は耐えられなかった」
リリアが、シミアに手を差し伸べる。
「でも君は違う、シミア。君にはあの穢れた血は流れていない。君は特異点だ。ここは君の避難所であり、力の源泉にもなり得る……私が手を貸してあげる。かつて君が、私を終わらない嵐から救い出してくれたように」
「もし……あなたの助けを受け入れたら、どうなりますか?」
シミアは顔を上げた。その瞳から迷いが消え、鋭い光が宿り始める。
「運命を共有することになる(一蓮托生さ)。『その日』が来るまで、私たちは共に歩む。この世界の隠された真実を君に見せることになるだろう。だが、それは必ずしも恩恵とは限らない。残念ながら、私の手を取れば、君に『真実を知らない権利』はなくなる」
「受け入れなかったら?」
リリアは微笑んだ。それは、女神像のように美しい、心からの笑みだった。
「今のまま、気楽な生活を続ければいい。この荒野はいつでも君を歓迎するよ……ただ、『その日』はいずれ必ず来る。それまでの間、君は無知という名の自由を享受できる。私は君が助けを求めるその時まで、真実について沈黙を守ろう」
シミアは問い返す。
「『その日』とは?」
「すべての真実の終着点だ。私の手を取った者だけが、知ることができる」
死のような静寂が落ちた。
聞こえるのは、灰が降り積もる微かな音だけ。
リリアの知る真実。世界の理。
本来なら、拒む理由などない申し出だ。
だが……これを受け入れれば、自分はこの残酷な異世界に完全に同化してしまう気がした。
転生前の人格によってシミアという少女の人生が変わってしまったように、今度はリリアという存在によって、自分の核が書き換えられてしまうかもしれない。
ミリエルの顔が浮かぶ。
あの日の真実は、今や二人の間に横たわる巨大な断絶の壁だ。
けれど、忘れてはいけない。あの日交わした、ミリエルとの約束を。
なら、最後のチャンスをあげたい。
それが、甘さだとしても。
決意と共に、シミアは顔を上げた。
「リリア……あなたと、賭けをさせてください」




