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銀の潮、知の灯火

深夜。

王家図書館の巨大なドーム天井は、その空間の大半を墨汁のような静寂に沈めていた。

闇の中で眠る無数の古書が、古い紙特有の乾いた匂いを放っている。


その深淵の底、最下層にある木製机の周りだけが、数本の蝋燭ろうそくによって切り取られた光の孤島となっていた。

揺らめく灯火の下、シミアとコーナの影が、白亜の床に長く伸びている。

二人の眉間には、隠しようのない濃い疲労の色が刻まれていた。だが、広げられた南方農業領の地図に落とす視線だけは、研ぎ澄まされた刃物のように鋭利だった。


シミアの細い指が、地図上の一本の線をなぞる。


「コーナ先生。問題は物理的なルートではありません。この補給線が踏み越える『領地』……そこに巣食う旧貴族たちの腹の内です」


コーナは頷きながら、シミアの言葉を手元のノートに走り書きしていく。

カリカリと、ペン先が紙を擦る音だけが、静まり返った館内に響く。


「彼らが、面従腹背めんじゅうふくはいだと?」

「それだけならまだマシです」


シミアの声は、夜の冷気のように低く、冷静だった。


「もし彼らの忠誠にヒビが入っていれば……戦況が膠着こうちゃくした瞬間、彼らは補給線を『人質』にするでしょう。王家を脅し、利権を引き出すための切り札として。そうなれば前線は、敵と味方に挟まれた泥沼に沈みます」

「……最悪のシナリオね」

「はい。今はただ、ミリエル様が最前線で見せる王の覇気が、あの古狸ふるだぬきたちを黙らせてくれることを祈るしかありません」


推論の検証が終わる。

コーナはノートのインクをフゥーッと息で乾かすと、パタリと音を立てて閉じた。

その拍子に、張り詰めていた糸が切れたように、彼女の知的な相貌そうぼうに柔らかな弛緩が戻る。


彼女は眼鏡を外し、疲れたように眉間を揉んだ。


「シミア。正直なところ、ミリエル様からの報告では、この物資の質について絶賛の嵐よ。まさか本当に、あの『銀潮連邦』の商会とパイプを作るなんてね。彼らの安価な食料と精巧な道具がなければ、南方の戦線はとっくに崩壊していたわ」


シミアは、巨大な地図を丁寧に巻き上げている最中だった。

だが、『銀潮連邦』という単語が鼓膜を叩いた瞬間、指先がピクリと痙攣し、動きが止まった。


その国名は、この王国の住人にとっては「富」と「新奇」の象徴だ。

だが、前世の記憶を持つシミアにとって、その名は別次元の――「恐怖」を意味していた。


「コーナ先生……私は、怖いのです」


顔を上げると、コーナが怪訝そうにこちらを見ていた。


「当面の補給危機は去りました。ですが、銀潮連邦への過度な依存は、いずれ致命的な『軟弱な脇腹ソフト・ベリー』になります」

「どういうこと? 彼らはただの商人でしょう? まさか反乱を起こすとでも?」

「軍事的な脅威ではありません」


シミアは慎重に言葉を選んだ。この漠然とした、けれど確実な予感を、どうすればこの世界の人間に伝えられるか。


「今の局勢では、彼らと手を組むのが正解です。ですが……彼らの制度、文化、そして『万物は取引可能である』というあの価値観は、まるで砂糖でコーティングされた猛毒ポイズンです」

「毒……?」

「あまりに近づきすぎれば、彼らの生活様式は我々の制度と民心を根底から書き換えてしまう。その不可逆な『侵略』は……剣や魔法で襲ってくるヴラドの反乱軍より、よほどたちが悪い」


シミアの脳裏に、ミリィル・ルルトからの手紙にあった異国の光景が蘇る。

先進的なライフスタイル、都市化された社会、そして工業資本主義の萌芽を感じさせる空気感。

騎士道精神と古臭い魔法秩序で辛うじて立っている、この斜陽のローレンス王国とは、あまりに時代が違いすぎる。文明のレベルが違うのだ。


シミアの言葉を聞き、コーナは長い沈黙に沈んだ。

彼女の表情から眠気が消え、代わりに審美官のような鋭さが宿る。くまのある瞳が、まるで未知の怪物を解剖するようにシミアを観察していた。


「……よくそこまで、先の先が見えるわね」


コーナの声には、呆れに近い感嘆が混じっていた。


「それは単なる軍事レベルの話じゃない。国家戦略、あるいは文化侵略の域よ……その思考回路は、いったいどうやってつちかわれたの? 辺境の実家での生活は、普通の田舎娘のそれとはだいぶ違っていたようだけれど?」


シミアの心臓が、早鐘を打った。背筋に冷や汗が滲む。


(しまった……まさかコーナ先生に、前世でプレイした戦略ゲームの知識です、なんて言えるわけないし!)


「い、いえ、そんな大層なものでは……っ!」


シミアは慌てて手を振り、顔に愛想笑いを貼り付けた。


「ただ……そう、父の教育方針が少し特殊で! 常に『盤面の外を見ろ』と言われていたものですから、つい!」


苦しい言い訳だったが、コーナはそれ以上追及しなかった。

彼女はシミアをじっと見つめた後、歩み寄り、巻きかけの地図をその手から優しく引き取った。


「当初、私はあなたが王都に残ることに猛反対していたのよ」


不意に、コーナが言った。


「え?」

「こんな陰謀渦巻く伏魔殿ふくまでんは、あなたには似合わないと思っていた。あなたは戦場の鷲のように前線を飛び回り、代わりにミリエル様が玉座を守るべきだと。あなたの戦術的才能は、現場でこそ輝くと信じていたから」


コーナは地図を抱きかかえ、薄暗い灯りの中で、どこか誇らしげで、それでいて複雑な微笑みを浮かべた。


「でも、私の考えは間違っていたわね。あなたが示したその『戦略眼』は、戦争の道具である以上に、国を治めるための良薬よ。シミア……あなたは私が思っていた以上に、この権力の中枢に必要な人材だった」


コーナは背を向け、図書館の出口へと歩き出した。その背中は、闇の中でひどく華奢に見えた。


「夜も更けたわ。今夜はミリエル様の部屋で休みないさい。この時間、一人で寮に戻すのは、いくら王都の夜でも心配だわ」

「……はい。お言葉に甘えます」


重い地図を抱え、書架の深い影へと消えていくコーナを見送る。

シミアは卓上の、最後の一本となったカンテラを手に取った。

揺れる微弱な灯火が、幼い、しかしあまりに多くのものを背負ってしまった少女の横顔を照らし出す。

歴史の死骸であるブックの海に囲まれ、シミアは一つ、深く重い溜息を吐いた。

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