疑念の種、冷徹な足音
リアンドラは、何の飾り気もない白い天井を、虚ろな瞳で凝視していた。
精神を吹き荒れた嵐は去った。だが、その爪痕(余震)は今も続いている。
耳の奥にこびりついて離れない。
あの雨夜、幽霊のような男が残した呪いの言葉が。
――『彼女は本当に、君を愛しているのかね? リアンドラ』
お母様からの愛。
それは本来、疑うことさえ許されない絶対の真理だったはずだ。
だというのに。
今の脳内は、制御を失った機械のようだった。黒い疑問符がカビのように大脳皮質で増殖し、侵食していく。
その止めようのない自己疑念が、胸の奥でムカムカとした吐き気を催させた。
コツ、コツ、コツ。
廊下から、優雅で、それでいて恐ろしく律儀なヒールの音が響いてくる。
お母様の足音だ。
「ッ……!」
体に電流が走る。
悪戯を見つかった子供のように、慌てて布団を鼻先まで引き上げた。脳内に居座るあの男の声と映像を、必死で追い出しにかかる。
(考えちゃダメ……あれは敵の嘘よ。お母様は、私を愛してる)
ドアが開く。
ヴァンナがモデルのように優雅な歩調で入ってきた。その顔には、一点の曇りもない完璧な微笑みが張り付いている。
「リアンドラ。シミアさんがいらしたわよ。会えるかしら?」
心臓が、早鐘を打った。
シミア……
あの日以来、彼女はどうしているだろうか。あの恐ろしい凶報に、心を壊されてはいないだろうか。
罪悪感と、抑えきれない好奇心が混ざり合う。小さく頷いた。
「お母様……はい、会います」
ヴァンナは満足げに頷き、翻って部屋を出て行く。
すぐに、重さの違う二つの足音が近づいてきた。
「リアンドラ、具合はどう?」
シミアの声は、記憶にある通り優しかった。
彼女はベッドサイドに歩み寄ると、分厚いノートを一冊、サイドテーブルに置いた。
「学校に来られないって聞いて、これまでの授業ノートを持ってきたの。遅れた分のことは心配しないで」
ヴァンナの対外的な説明では、あの日リアンドラは「貧血」で倒れ、鼻血を出したことになっている。
だが、当の本人はよく分かっていた。
精神は摩耗しきっているが、肉体には何の異常もない。貧血など、ただの言い訳だ。
「ありがとう……たぶん、すぐ学校には戻れると思う」
シミアの瞳を直視できず、視線をシーツの柄に逃がした。
「うんうん、それなら良かった」
シミアは心底ホッとしたように息を吐き、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。
その瞬間、ふっと肩の力が抜けるのが見えた。
「もしリアンドラまで倒れちゃったら、私、どうしようかと思った……」
その言葉の端々に、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。
盗み見るように視線を上げると、彼女の目の下には薄い隈が浮かんでいた。口元は笑っているのに、目元が笑っていない。
(トリンドルのこと、よね……)
理由は分かっている。けれど、今の自分には聞く資格も勇気もない。
ただの「何も知らない病人」を演じ続けるしかないのだ。
気まずさを紛らわせるように、身体を起こし、持ってきてくれたノートに手を伸ばした。
パラリ、とページを捲る。
そこには、シミアらしい几帳面で力強い文字が並んでいた。
だが、これは単なる授業の書き写し(コピー)ではない。
『領主間戦争の実例』という講義内容の横に、彼女の手による詳細かつ鋭利な批評論が、びっしりと書き込まれていたのだ。
『この戦術的迂回は結果的に勝利しているが、兵站線が伸びきっている。もし敵軍が後方を遮断していれば、必然的に敗北していたはず』
『正面突破よりも、右翼の地形を利用した伏兵配置の方が、損耗率を三割は抑えられた』
シミアのノートは、いつもこうだ。
決して、教科書通りの正解では満足しない。教師よりも深く、鋭く、本質を抉り出す。
その才気は、袋の中に隠した錐のように、隠そうとしても鋭く突き出してしまう。
「どうかな? 読める? ちょっとゴチャゴチャしすぎちゃったかも」
シミアが心配そうに覗き込んでくる。
指先で文字をなぞりながら、深く頷いた。
「ううん、すごく読みやすい……シミアさんの考察、やっぱり凄いです」
彼女は照れくさそうに頬を掻いた。
「実はね、昔からこうやって戦術を分析するのが癖なの」
「でも、みんな試験の答えだけが欲しいみたいで……こういう私の『余計な』考えには興味がないみたい。だから、リアンドラに分かってもらえて嬉しいな」
どこか寂しそうで、それでいて理解者を渇望するような瞳。
その目を見た瞬間、脳裏に、ある狂気じみた衝動が芽生えた。
もし、シミアさんなら……この聡明で、鋭敏で、物事の核心を瞬時に見抜いてしまう彼女なら……私のこの疑問――「お母様は本当に私を愛しているのか」という問いに、答えを出してくれるのではないか?
「シミアさん……」
震える声で、名前を呼んだ。
「ん? どうしたの?」
顔を近づけ、真剣な眼差しを向けてくる。
喉元まで、言葉が出かかっていた。
聞いてしまえば、この終わりのない地獄から解放されるかもしれない。
だが。
その言葉が形になる寸前、廊下の向こうからあの音が響いた。
カツ、カツ、カツ。
冷水を浴びせられたように、喉が引き攣った。
言葉は喉の奥で鋭い魚の小骨となって突き刺さり、ただ痛みを訴えるだけになる。
口を噤むしかなかった。
「な、なんでもないの。その……ノート、ありがとうって言いたくて」
「ふふ、お礼なんていいのに」
シミアは優しく微笑む。彼女は気付いていない。
「それなら良かったわ」
不意にドアが開き、ヴァンナが入ってきた。
手にはカットフルーツの皿を持っている。だが、その視線は愛娘には向けられていない。
見ているのは、シミアだけだ。
「シミアさん。お見舞いに来てくれてありがとう……それで、この前の件なんだけれど」
「お話し中のところ悪いけど、次の『貨物』の引き渡しスケジュールについて、後でリビングで確認させてもらえるかしら?」
ヴァンナの声は丁寧だ。だが、そこには明確な線引きがある。
それは娘の友人に掛ける言葉ではなく、対等な「ビジネスパートナー」に向けられた業務連絡だった。
シミアが一瞬、キョトンとする。
ベッドの上を振り返った。まだ話し足りないことはないか、確認するように。
無言で俯く姿を見て、シミアはスッと立ち上がった。
その表情から、柔らかい「友人」の顔が消え、凛とした「仕事」の顔になる。
「分かりました、ヴァンナ会長。私も確認したいと思っていました」
最後に一度だけ、視線を戻した。
そこには、わずかな申し訳なさが滲んでいた。
「じゃあ、ゆっくり休んでね、リアンドラ。お大事に」
逃げるように布団を頭から被り、光を遮断した。
「……うん。またね」
シミアが頷く気配がして、ヴァンナと共に部屋を出て行く足音が遠ざかった。




