雨に溶ける世界
空は厚い雲に覆われていた。
鐘楼の尖塔さえ押し潰しそうな鉛色の雲。その息苦しいほどの低気圧は、今のシミアの内面をそのまま映し出したかのようだ。
ダミールがもたらした報告は、ある程度予想できていたこととはいえ、「確定した凶報」として突きつけられると、やはり心が重くなる。
南方農業領の反乱は、もはや避けられない。
この内乱は、王国の防衛システムに巨大な空白をこじ開けるだろう。反乱が鎮圧されるまでの間、鋼心連邦は悠々と軍を辺境へ進め、溶けたバターを切るように防衛線を分断するはずだ。
(女王陛下に進言して、電光石火の勢いで南方を鎮圧するべきか……?)
そう考えた瞬間、脳裏にミリエルの顔が浮かんだ。
だが、なぜだろう。
本来なら親愛の情を覚えるはずの、あの優しげな微笑みが、最近はどこか他人のもののように感じられる。
記憶の中の彼女が、まるで物品の価値を品定めするような冷徹な目で私を見ていた――そんな気がして、私は無意識に思考から目を逸らした。
シメールの家の行末。
銀潮標準券の背後に潜む謎。
危機に瀕する辺境の情勢。
遠き銀潮連邦の秘密計画。
そして、亡霊のように神出鬼没なカシウス……。
抱え込んだ問題の一つ一つが重い墓石となって、シミアの胸の上に崩れ落ちそうな塔を築き上げていた。
「ふぅ……」
私は空を仰いだ。今にもインクが滴り落ちてきそうな陰鬱な空に向かって、長く重い息を吐き出す。
(考えるのはやめよう。……まずはシャルの所へ行って、少し休もう。紅茶の香りを嗅ぐだけでも、少しはマシになるはずだ)
そう自分に言い聞かせ、寮区画へ向かおうと踵を返した時だった。
視界の端に、奇妙な人影が映り込んだ。
茶色の短髪。領主学院の制服に身を包んだ男子生徒が、回廊を早足で歩いている。
(あの後ろ姿……留学生のアレクシスか? だが、彼が王国の制服をあんなにきっちり着込んでいるなんて……)
シミアの記憶にある銀潮連邦の「エリート」たちは、古臭い王国の制服を鼻で笑い、可能な限り着崩すのが常だったはずだ。
視線を少しずらす。
彼の隣には、もう一人いた。
半袖の白いシャツを纏った女性だ。
純白の生地が、その成熟した肉体を扇情的に包み込んでいる。豊かな胸元は今にもボタンを弾け飛ばしそうで、まるで己の資本を誇示するためにわざと小さなサイズを選んでいるかのようだ。
その濃厚な、あるいは猥雑とさえ言えるほどの色香は、周囲の青臭い学生たちとは明らかに異質だった。
(あれは誰だ? あの体型……どこかで見たような?)
奇妙な既視感が脳裏をよぎる。記憶の底にある、銀潮連邦に関するぼんやりとした影と重なるような感覚。
(二人の密会か? ……よそう。他人の情事に首を突っ込む趣味はない。早くシャルの所へ行こう)
胸の内の違和感を押し殺し、視線を外そうとしたその時。
驚くべき光景が目に入った。
二人は校門へは向かわず、普段は誰も通らない小径――廃校舎の裏へと続く袋小路へと折れていったのだ。
(降り出しそうなこの天気の中、あんな場所へ?)
直感が告げていた。これはただ事ではない。
単なる違和感ではない。何かを隠蔽しようとする、意図的な気配。
小さな好奇心が、立ち去ろうとしていた私の足を止めた。
私は音を殺し、彼らの後を追った。
* * *
風が湿り気を帯びてきた。
断続的な会話の声が、風に乗って鼓膜に届く。
私は慎重な猫のように、ぬかるんだ芝生の上を音もなく進み、廃校舎の湿った壁に背中を預けた。
幸いなことに、この薄暗さと入り組んだ構造が、私の姿を完璧に隠してくれている。
「君のほうは……進捗はどうなんだい?」
アレクシスの声だ。
それは逢瀬を楽しむ男女の甘い声色ではない。教室で議論を交わす時と同じ、感情の波がない理性的で冷淡な響きだった。
「順調よ。……ただ、頭の固い古狸の家がいくつかあって、協力を渋っているけれど」
答える女性の声は気怠げだが、隠しきれない支配者の威厳が滲んでいる。
「今は重要な時期だ。進度を早めないと」
私は呼吸を止めて、壁に張り付いた。
顔を出すわけにはいかない。二人は向かい合っている可能性が高い。わずかな動きでも命取りになる。
風向きが変わり、声がより鮮明になった。
「わかっているわ。秋までに『あの計画』を完遂させる。……でしょう?」
「そうだ。上からの至上命令だ。我々に選択肢はない」
(……何を話している? 『あの計画』? 秋までに?)
文脈は見えない。だが、不安の種だけが爆発的に膨れ上がっていく。
軽い好奇心で覗いた深淵から、とんでもない言葉が聞こえてきた。できることなら今すぐ飛び出し、剣を突きつけて全てを吐かせたい衝動に駆られる。
ふと、空を見上げた。
耐えきれなくなった空が、ついに決壊した。
ポツリ。
冷たい雫が、鼻先に落ちる。
「では、この辺で。こういう接触は極力控えたほうがいい。例の件……学院側に勘づかれたら面倒だ」
「雨ね……」
その呟きと共に、予兆もなく豪雨が叩きつけてきた。
ザアアアアアアッ――!
世界が雨音に塗り潰される。二人の会話も、足音も、巨大なホワイトノイズにかき消されていく。
(駄目だ、もう聞こえない。それに、これ以上ここにいてはずぶ濡れになって風邪を引く)
これ以上粘っても情報は得られないと判断し、私は撤退を決めた。
まずはこの情報を持ち帰り、後でじっくりと分析すればいい。
「……え?」
踵を返し、一歩目を踏み出したその瞬間。
背筋が凍るような、異様な感覚が襲った。
足元の感触が、ない。
まるで雲の上を踏み抜いたような。
あるいは、底なしの深淵へ足を突っ込んだような。
私は驚愕に目を見開いて足元を見た。
そこにあるのは、見慣れた砂利敷きの堅固な通路のはずだった。
だが、私が踏みしめた瞬間、石畳が水面のように波紋を広げ――そして、完全に崩壊した。
世界の論理が、破綻する。
空が回転する。大地が融解する。
鮮明だった雨音が、鼓膜をつんざく鋭い耳鳴りへと変貌する。
(な、に……これ……!?)
助けを呼ぼうと口を開く。だが、喉からはヒューという掠れた音しか出ない。空気が世界から消滅したかのようだ。
重力の束縛を失った身体が、意思に反して前方へと倒れ込んでいく。
意識が暗黒に飲み込まれる直前。
雨の幕の向こうに、一双の瞳が見えた気がした。
それは、ひどく悲しげな瞳で、私を見つめていた。
そして。
世界は死に絶えたような闇に沈んだ。
* * *
窓の外では、依然として雨が暴れ狂っている。
質素だが整えられた寝室で、ヴァンナとリアンドラは向かい合っていた。
「どうだったの、リアンドラ?」
普段は余裕の仮面を崩さないヴァンナの顔に、焦燥の色が滲んでいる。
対照的に、ベッドの縁に腰掛けたリアンドラは、紙のように顔色が白かった。虚空を見つめる瞳は空洞で、そこには虚無と恐怖だけが書き殴られている。
「……シミア様を……私は……」
強烈な窒息感が、リアンドラの喉を締め上げた。
自身の能力で幻覚を作り出し、敵の精神防壁を破壊する。それは初めてのことではない。
だが今回は違う。胸の奥からせり上がってくる吐き気を、どうしても抑え込むことができない。
それは魔力欠乏(ガス欠)による副作用ではない。魂の深層が叫ぶ、拒絶反応だった。
「成功したのね?」
ヴァンナが追及する。
リアンドラは、壊れた人形のようにぎこちなく頷いた。
「よかった……! 本当によくやったわ、リアンドラ」
ヴァンナは深く安堵の息を吐き、歩み寄ると、幼い頃と同じように優しく娘の髪を撫でた。
「お前が計画を救ったのよ。今回一番の功労者はお前だわ」
「お母様」からの称賛。
本来なら、至上の幸福を感じるべき瞬間のはずだった。
だが今、リアンドラはその指先に何の温度も感じられなかった。
母の手は温かいはずなのに、心には氷のような冷たさしか伝わってこない。
瞼の裏に焼き付いて離れないのは、雨の中で崩れ落ちるシミアの姿。
そして、孤独だった自分を強引に連れ出し、焼きたてのクッキーを差し出してくれた、あの温かな笑顔。
「シミア様は……どうなるのですか?」
震える声で尋ねた。
髪を撫でていたヴァンナの手が止まる。
母の顔から不快な色が浮かび上がり、声の温度が氷点下まで下がった。
「リアンドラ。あの娘に余計な感情移入をするのはやめなさい。自分の立場を忘れたの?」
ヴァンナは立ち上がり、冷たい目で見下ろした。
「我々の目的において、彼女は何の役にも立たないどころか、巨大な障害よ。彼女は知りすぎたわ。……よくやったわね。今はゆっくり休みなさい。少し回復したら、まだお前の力を必要とする大事な仕事があるのだから」
バタン、と重い音を立てて扉が閉ざされる。
部屋には、窒息しそうな静寂だけが残された。
リアンドラは震える足で立ち上がり、無意識にカーテンを開けた。
窓の外では、豪雨が無慈悲に大地を打ち据えている。
白く煙る雨の幕は世界を覆い隠し、あの少女が存在した痕跡さえも洗い流してしまったかのようだった。
「シミア様……」
目頭が熱くなる。
果てしない罪悪感と疲労の中で、彼女の意識もまた限界を迎え、ゆっくりと暗い深淵へと沈んでいった。




